満足度★★★★
昨年始めのW.S.&公演プログラムで上演された「サイコシス」の再演。同じく若葉町wharfにて。上演後トークは長島確氏と演出川口智子氏、進行にもう1名。
今回座った場所は初演とだいぶ違った角度になったが、印象はあまり変らず、ただ二箇所で流された映像が初演時にあったか否か定かでなし。
会場は壁一枚を隔てた道路に沿って辺が長い長方形で、内壁は白く、天井が高いぶん見た目より容積があるせいか心地よい残響がする。角の小さな入口は透明ガラスで、開演後カーテン1枚を引いて外界と遮断する。
通りから遠い側に横長の雛壇型座席(1列約10名として3段で30名余、この日は満席)に座ると、窓枠のはまった広い壁と対峙し、その見えない向こう側からのノイズや他者の関心という干渉を懸念させながら、人が不在のステージが観客の注意を静かに引き出している。横長のステージには直方体を横に並べた白い台の上に椅子、上手上方に上から吊られた赤い窓枠。飄然と滝本直子が登場し、腰掛けると暫しの間、台本に目を落としたり、遅れてきた客に視線をやったり。最後の客が座席に収まった後、入口扉にカーテンが引かれ、さらに待つ。客席背後の2階部分から恐らく照明担当だろう、きっかけを見ようとしたか、下に居る音響担当がなかなかきっかけを出さないのを怪訝に思ったか、顔を出す。と、おもむろに録音された女性の声が流れ、素早く照明が変わった(という確か流れだったと思う)。
このリーディング公演はいずれ本格的な舞台へ発展するとの事だが、ワークインプログレスとしての一定の方向性の明示と作品としての完結が見いだせたか、というあたりである。
作品としての完結が目指されたのは(有料公演なら当然と言えるか)確かだが、「本作品が採るべき相応しい形はオペラ」、との川口氏の言には(オペラの定義にまで話は及ばなかったが)かなりの距離を覚えるのは正直な所。その道程を訊ねたい衝動に駆られたが、むしろ長い製作プロジェクトの途上で時折我々を楽しませてくれると有難い、位に構えて気長に待とう。
鑑賞日2018/12/27 (木) 19:30
価格2,000円
19:30の回(晴)
リピート。
また関内駅から歩く。
『関内』 昔、M.ジャクソンやBon JOVIやCulture Clubなんかのライブを観に来たり、県民ホールやKAATや象の鼻や赤レンガにも。海が近いし広い通りと建物が異国っぽくて好きな街。
さて、年末の大整理整頓中に「洗い清められ」のDVD(2012/5収録)」を発見、「Viva Death」の時に買ったものと思われますがすっかり忘れていました。闇と土と音楽がとてもよいです。コーラスのようなところは「ホーミー」でしょうか。
一昨日と同じ席に座ります。
前説も暗転もなく始まります。 19:35~20:44、トーク21:05、バックステージツアー(3Fに宿泊施設)。
「一つのテーブルと二つの椅子そして」、「窓」はある。
会場の「窓」と戯曲にはない「窓」。
外は暗い、会場に入ると明るく白い、奥に目をやるとどきっとするような赤。
一昨日の「声」がまだ耳に残っているのであまり遅れずついて行けます。
初日とはちがって情感が表情や動きに直接現れているような印象を受けます。
ここらになると作家や演出家や役者の意図とは離れ、自身の経験(遠い過去でも最近でも)と(相当強引に)結びつけるものが出てきます。
一方、まったく的外れな箇所に意識が向かうこともあります。
ライブハウスのシーン、ギターのヘッドしか映りませんがたぶんリッケンバッカーだろう、とか。
Bob Marley→「War」→Sinead O'Connor(ダブリン)→U2 3th album「WAR」とか。
下手のテーブルと椅子。誰のために用意されたのか、なぜ不在なのか、とても気になります。
なぜ7つずつ減数するのか、なぜ終りが「0」にならないのか。
高野悦子さん「二十歳の原点」と比較すると何か見えてくるのか。
終盤、上半身をさらし、薄暗い中、赤い「枠」の位置、壁の方を向き、右手のテキストを高く掲げ、壁に映るテキストはエンドロールのように下から上へ現れては消え、背中やうなじや頭に伝い這いあがり、ひととき共生し、誰に語りかけるのだろう。
幕を開けて。
鑑賞日2018/12/25 (火) 19:30
価格2,000円
19:30の回(晴)
ちょっと迷って関内からイセザキ・モールを歩くことに。
横浜近辺は学生時代よくきました。最近では黄金町の南区役所に高校演劇の地区大会を観に来たし、会場となった「WAKABACHO WHARF 若葉町ウォーフ」は「nitehi cafe」の頃、ダンス公演を観に、近くの「ジャック&ベティ」では映画を観た後、ここの2階で小野さやか監督を囲んでのアフタートークもありました。リーディング公演はなかなか機会がありませんが、先日観た吉祥寺シアターでの「景観の邪魔」「Q体」、「かたりと」による語りと和楽公演などのように機会があれば。
サラ・ケイン関連は
「4時48分サイコシス/渇望」2011/5@atelier SENTIO
「4時48分 サイコシス」2011/6@シアターバビロンの流れのほとりにて
「フェードラズ ラブ」2013/10@タイニイアリス
「Viva Death」2013/12@SPACE EDGE ※演出 川口智子さん 出演 滝本直子さん
「4時48分サイコシス」2014/5@テルプシコール
「言風景」2015/1@アレイホール ※多摩美術大学卒業制作展めっけ!(4.48の朗読)
番外
「448の女」2014/4@宇宙舘 ※ビニヰルテアタア第4回公演
演出の川口智子さん、調べてみますと2008/10にセッションハウスでの公演がありました。私が初めてセッションハウスを訪れたのは「LDK」2011/5なのでだいぶ前のこと。
滝本直子さんは「Viva Death」で。
19:13受付、開場、奥にベンチシート2列、3列目最上段はパイプ椅子。平行して会場の横幅近い長さの白い台(膝高くらいか)、中央に木製の椅子。上手に赤い枠が吊られている。椅子の後ろ、1つだけ窓ガラス(外が見える)。
19:34上手からゆっくり歩き、マイクをセットし椅子に座る。
とても長い沈黙から始まる~20:47終演。
視覚的には「1人」、イメージ的には「多重」。
加えて、映像(テキストと歌)。
声と音声。話者の近くに座っていたので質感の違う波長が微妙にずれて耳に届く。
このあたりで思う。
これは「戯曲」といわれるが、第三者の身体によって発せられるべきものなのかとか。
P.K.ディックや筒井康孝を読むと会得した認識規範が崩れるような感覚がやってくる。それに似ていないか。「サイコシス」というのはそういうことなのか。
SEやノイズやリアルに発生する環境音がないまぜとなり、集中力を揺さぶる。
声は何事もなかったように先へ進む。
赤い枠は何だろう。
最期のシーンにはどのような思いが込められているのだろう。
※リピートするので以上は仮で。
余談
Bob MarleyからSinéad O'Connorへとながれ、その映像はネット上にたくさんありました。ダブリンといえばU2で、1989/11の来日公演に行きました。もう30年。