満足度★★★★★
エンターテイメントとしてレベルが高い
安定した演出と演技で素晴らしい時間を過ごせました。
最初の語りだけで引き込まれます。
めぐみさんは舞台で初めて拝見しましたが、
非常に良い俳優さんだと感じましたね。
運というものはそういうものかもしれない、と思いました。
満足度★★★★
ホームタウンで
座・高円寺での公演を観たのだけれど、何とかもう一度観たくなって厚木公演にも足を伸ばした。
鬼の語る、哀しい恋と夢の物語。人の夢とはそれほどに儚いものか。あるいは、儚いからこそ美しいのか。そんな感傷的な問いが、観終わってから何度もよみがえってきた。
そして、そういう鬼の語る物語を息を呑むように集中して見つめていた人々。
厚木は、扉座とゆかりの深い街だ。そのことが人々の集中力をより高めているように感じられた。
劇団と街の幸せな関係が、物語をいっそう美しく見せてくれたのかもしれない。
満足度★★★★
せつない恋の物語
三途の川の渡しを待つ亡者に向かって鬼が語った、ひとりの孤独な男と無垢な女のせつない恋の物語。
孤独な男が無垢なモノに惹かれていくストーリーは、ある種の類型ではあろう。けれどその描き方は生き生きとしていて、多彩な登場人物たちが織り成す物語の豊かさに惹かれてしまう。
また、今回も和モノの要素を取り入れていることで、御伽噺的な物語の世界観を補完しているように感じられた。ステージ中央の少し高さのある舞台と背後に描かれた松が能舞台を想起させる。両脇に置かれた多くの鳴り物を、役者たちが入れ替わり立ち替わり演奏していく様子なども見どころとなった。
満足度★★★★
鬼の手のうちに踊り、死に行く人間のあわれ
空想物語にしては(・・と言えば語弊ありそうだが)優れた舞台であり、お話であった。 博打の天賦の運にだけ恵まれた鈴次郎が「鬼」との博打で得たものが、100日で人間となる「絶世の美女」だった、という始まりである。困惑が生じるとすればこの部分のみ、というのは・・ ここは「現世」なのかあの世なのか、というとあの世であると冒頭で語り部(賽の河原に居る鬼)に説明された形跡があるのだが、その鬼から「見よ」と指し示された先では、現世の鈴次郎が博打をする風景を映しているかと思いきや、そこに鬼がおり、上の賭けとなる。だが、次の瞬間には「現世」で「生まれたばかり」の女を抱え、赤子のような「儚」に付き合わされ調子を狂わせられる鈴次郎の「現世」での日々が始まっている。最初の鬼との博打の場面は何だったのか・・と、終盤、マクベスよろしく行き詰まった鈴次郎がもう一度「取引」を交わすべく鬼を呼び出す、という運びとなり、ここに至って観客はようやく冒頭の場面が特殊な状況で、鈴次郎が何らかの成り行きで鬼と博打を打つことになった、という風に再認識する。がしかし、その段になれば既に話に引き込まれ切っており、問題でなくなっている。
事ほど左様にこの奇想天外の空想物語の運びはうまく、舞台の使い方(装置)の端正さ美しさ、場面転換の鮮やかさ、左右両サイドで生で演奏される「音」(主に打楽器だが「音楽的」に響く音が多い)、この世のモノでない博打の女神を「演じる」操り人形、そして自在に世界観を変化させる照明によって、「空想」的世界観を見事に具現できていた。プロの仕事だ。
ストーリーの面白さ。「絶世の美女」が酔狂でやった鬼との博打で転がり込み、最初に見た相手を親と思うように儚は鈴次郎に「父親」を求める、この二人の関係がしっかり示される。一たび相手を子供と見た目には、儚を「女」と見る目は奪われている。やがて知識を身につけ、独り立ちを願う儚は、自分が後数十日で人間になる事を知る。ただし、男と交わらなければ、である。「絶世の美女」儚は、死体のパーツから作られたので、人間としての魂を宿すための時を要する、のである。
「真性の人間」でない儚を巡り、戯曲は、登場人物らにあからさまに卑猥な連想をここぞとばかりに言わせる。抜かりがない(と言うべきか?)。
さてその後の顛末は、悲惨である。鈴次郎の困惑、絶望、錯乱、博打うちの典型的な破滅への道が、まるで絵に描いた光景のように現前して行く。この境涯での鈴次郎には儚の存在は軽く、ついに苦界に身を沈める儚であったが、経緯あって男をイかす「手」を知る彼女は・・・と、まだまだ興味をそそる展開が続く。そして終盤には儚と鈴次郎の心の交流が、言葉となって湧き出し、舞台を熱くする。
コミカル・痛快な局面と、人間感情の極まる局面とが、両面緩急自在に表現され、押さえる所を押さえた練達の舞台だ。
物語全編に漂う、基調となる色合いは、まるで操り人形のように人形師に動かされ恣意に翻弄される存在である人間の哀しさ・それゆえの愛おしさ。
一方で「鬼」は、人間の運命をたやすく左右できる者として、有限なる人間とは異なる感覚をもって人間界を眺め、人間に不条理を強いるものの象徴として、視覚的に印象づける。人形も然り。そして二人が迎える結末において、「抗えない力」に弄ばれる小っぽけな人間の陰影が、脳裏に刻まれる。
この「力」に精一杯抗うことで何かを「示す」ことは出来る・・ というメッセージ性も確かにこの芝居には潜んであり、その事が観客の琴線に触れているのには違いないだろうが、このことは安易に語ってはいけない気もする。
満足度★★★★★
惚れられて惚れあう2人
もともと「長谷雄草子-はせをざうし-」を下敷きにしてたと思う。
15年ぶりに劇団に戻り、改定してる部分もあったけど愛の形が夫婦愛、同性愛、多様な愛情表現と外連味あるスーパー歌舞伎場面も盛り込まれた王道の舞台。
映像の活躍も良いが、舞台で見る山中さんはやっぱ華があるのである。
約2時間弱。
満足度★★★★★
初めての扉座。
劇団扉座『いとしの儚』観劇。鈴次郎と儚の情にあてられて、涙が止まらなかった。どのキャストもクオリティ高くて、これが歴史ある劇団の力か…、と感嘆。舞台美術もきれいだし、効果音が両脇で演奏されてるのも素敵。観に来て良かった。
山中崇史さんの鈴次郎が賭博馬鹿のクズ人間。本当にクズだけど人間の性根がとても描かれてて、物凄く魅力的だった。劇中、何度も鈴次郎に落胆したけれど、見捨てられない何かがあって、何度も立ち上がれ!って願った。そして、儚に対する愛情の内容がどんどん変化していくのが魅力的。
MEGUMIさんの儚は、産まれたときの赤子の泣き声だけでも落涙したほど。物凄く透明感があって、何にも染まっていないのか伝わる。時期や環境の変化で佇まいが変わっていくけれど、芯が貫かれてて、いじらしくもあって、素敵だったな。
山中崇史さんもMEGUMIさんも、TVの連ドラの中の人でしかなかったけれど、小劇場で熱のビシバシ伝わる芝居が見られて、本当に嬉しい。
特に山中さんは“相棒”で見慣れているから真反対の役を見られて良かった。
あとは、扉座での六角さんも見てみたいなぁ。『いとしの儚』
糸あやつり人形が重要な意味を担っていて、とても繊細な演技だった。半人前の役者よりも、とても魂のある芝居。
劇団員の皆様も魅力的で、鬼二人は好きだなぁ。笑いを取る瞬間も含めて、巻き込んでいく力を持ってた。子供の役、男の子だと思ってたんだけど、女の子だったのね。
満足度★★★★
心を揺さぶる百日の夢
扉座主宰の横内謙介が書き、2000年に初演。その後、タイトルを変えていろんな劇団が上演してきた名作を、本家が15年ぶりに再演。まず、この物語が非常に心を揺さぶる展開だ。誰にでも分かりやすい芝居を目指すという扉座だが、劇場で夢を見ることができる秀作だ。
主役は博徒の鈴次郎と、その相手役儚(はかな)。鈴次郎を山中崇史、儚をこの舞台を熱望していたというMEGUMIが客演した。何よりも、この二人、特に山中の熱演がとても光る。MEGUMIにはかなり色っぽい演技を想像したのだが、むしろ透明感のあるまさに名前の通りのはなかさを現出する舞台に驚かされた。
さらに、操り人形がきわめて重要な役まわりで舞台を彩る。物語の世界に引き込む仕掛けがたくさんあって、十分に楽しめる2時間である。