誤解 公演情報 誤解」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★★

      1回目の観劇。

    ネタバレBOX


     今作、初演は不評だったようである。恐らく当時のフランス人には理解を超える作品だったのだろう。だが、カミユは気付いた。東欧で起きた事件を契機にこの物語を紡いだのだから。ピエノワールの面目躍如といった所だ。
    カミユの書いた哲学的な書物で有名なのは1冊、「シーシュポスの神話」だが、無論、通常の意味での救いはない。今作も同様である。通常の意味での救いなど何処にもないのだ。然し、現代社会に於いて難民化した人々を襲うのは再難民化、再々難民化という負の連鎖の危機であり、実際に四度目以上の難民化を経験した人々すら存在している。そのような状況にあって尚生き続けるのであれば、この事件を起こしたマルタと母のような人々が再び現れない保障は無い。また彼女たちが味わったような深い絶望と失念に研ぎ澄まされた生き残り哲学が生まれないとの保証もないのだ。
    パレスチナ人の苦境を作り出したシオニストとシオニズムを支持する欧米のグロテスクなイデオロギーには、公正、公明、公平もない。そのことが、難民を追い詰め、絶望が彼らの背中を押して取り返しのつかない所まで追いやるのだ。現在、世界の多くの場所で、今作で描かれた事件の背景にあるもの・ことが現実化している。その問題の深刻さを理解できない日本で、今作を今上演することには大きい意味があろう。
  • 満足度★★★★★

     昨夜に続き2度目の観劇である。

    ネタバレBOX

    兎に角、目が離せない。照明、音響の効果も良い。無論、カミユの原作も良いのだが、僅か丸1日の出来事を描いてこれだけの問題を提起してくる作品はザラにはあるまい。発表当時より、今の時代の方が今作の意味する所が解り易いのではないか? というのも、カミユはアルジェリア育ちの白人であるから、フランスに戻ればピエノワールとして差別され、アルジェに戻れば支配階層として忌み嫌われる。アイデンティティティー確立に苦労せざるを得ぬ立場だ。
    日本で言えば、在日の人々、アイヌの血を引くマイノリティーや沖縄のウチナンチュー、シマンチューなどのマイノリティーのデペイズマンを想像してみる時、我らにもその辛さ、苦しみの厳しさに近いもの・ことが想像できると言えるかも知れない。更には公害、原発人災の被害者も似た立場に置かれていると言えよう。
    マルタの科白にあるように、公正を欠く条件下に置かれた人間が(予め決定された)マイナス要素から自立するのは容易なことではない。それは、マリアが夫の死を型どおり嘆くこととは次元の異なる苦しみである。のちにサルトル・カミユ論争で決定的となる人間存在の根底に関する二人の認識の差は、今作に端的に表れていると見ることができよう。その分、各俳優の演技論にも本質的な差異を如何様に劇化するか? という問いとして現れてくるであろう。恐らく正解はない。在るのは唯闇夜で目が効かず触覚や嗅覚聴覚や味覚など視覚以外の感覚を総動員して正しい方向を模索しようとする原存在の不定と何ら支えも無く宇宙に漂うエパーブとしての存在、それを屹立させようと足掻く精神の葛藤である。
  • 満足度★★★★

    重たい内容の展開でしたが、緊張感がほどよかったのか、とてもひきつけられるのです。誰も救われることない悲劇といえるでしょうか。観た後の余韻が長く残りました。

    ネタバレBOX

    緊迫したシーンが続くのですが、中央よりも左に座っていたため、舞台左の木(?)が障害物となって、ジャンが寝転がった時の表情など、いくつかのシーンが見えなかったのが残念です。
  • 満足度★★★★

    よくコメディーではそれぞれの誤解からお笑いの連鎖が展開されますが、本作では悲劇の連鎖が展開。
    丁寧に翻訳されているので母・娘・長男とその嫁・召使、全員の性格や思惑の違いが理解しやすく、それぞれの思いの方向がズレまくっているのがよく分かります。
    どれか一つの組み合わせでも、うまく合致していれば止められていたかもしれない悲劇はズレを修復できないまま悪い方へと転がっていく・・・。
    登場人物の中で、ひと際強い意志を持ち一貫性のある行動をとる娘マルタ。
    モンスターの様なキャラクターだが、彼女の「明るく自由な国」をひたすら渇望する気持ちには共感できる部分もあり何ともやり切れない。

    ネタバレBOX

    マルタが焦がれる明るい国からやって来たマリアは、登場時キラキラ感で溢れていたのに、ラストではマルタの毒牙に飲み込まれボロボロに変わり果てた表情になってしまったのが印象的。
  • 満足度★★★★

    鑑賞日2017/01/23 (月)

    座席1列

    重い話だ。円企画の皆さんに、コトウロレナさんが客演の初日を観ました。
    母娘の2人の演技がよとてもよい。娘マルタ役の乙倉遥さんは、その容姿にはチラシなどで見える明るさ健康さは微塵もなく、同じ人物かと思われるような役作りだ。母は「疲れた」という言葉をただただ繰り返し、ゆっくり休めることのみを望む。それでも、娘の、太陽のある誰もいない白い海岸での生活の夢に、引きずられるように殺人を重ねていく。その先にあったものは何か、という話なのだけれど、そこには悔悟の情や絶望、ましてや愛などというものはない。久しぶりに触れるカミュの世界、そして、溢れるばかりの観念の洪水に酔いしれました。
    舞台装置も狭い空間を巧妙に使い、ホテルのフロントと客室、川を巧妙に見せる。終始重苦しい照明、とはいっても決して完全な闇を作ることなく、薄く目に入る役者の姿は、彼らが生者であることを否定しているようで薄気味悪い。それと対照的なツリーの装飾照明は、マルタの心に僅かに灯る生への渇望を観るようだ。
    ただし、セリフの難しさ(2字熟語がやたらと多い)から、初日ということもあり、立川さん以外(彼のセリフ1言としかないのですが)、皆噛んでいたので今日以降頑張ってください。

    ネタバレBOX

    この芝居、母と召使には名前がない(原作は知らないけれど)。召使は本当にいたのか?彼は母娘に付き添うただ生の意思のみを見守る神ではなかったのか?(最後のセリフが示すように)そして母も存在したのだろうか、彼女は息子との20年間の空白を、マルタとの20年の生活よりも優先させてしまう。そこには母というエゴしかない。
    マルタが息子ジャンの妻マリアに浴びせかける、血を吐くような言葉。そこではマリアの説く愛や善、そして怨嗟の言葉もただただ空しい。

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