満足度★★★★★
鬼子母神でも観てまいりました!
◆本来なら鬼子母神公園の方のページに書くべきなんでしょうけど、前に書いたものとの繋がりもありますので、こ敢えて、こに書きます。
◆前回は花園神社で観ましたが、今回は鬼子母神です。 雑司ヶ谷鬼子母神は住宅街の中にあって花園神社よりも静かで、極論すれば江戸の風情も残るところ(?)でございます。前に書いたときには、車の騒音もテント芝居の風情なんてことも書いたように覚えてますが、勿論、静かなほうがいい事は言うまでもありません。とは言え、鬼子母神は賑やかさというか華やかさが無くて芝居打つのには少々寂しい気がしたもの事実でございます。
◆今回は早めにチケット受け取って最前列の上手の端に鎮座。端っこでも最前列はいいですね!
◆お芝居は花園神社で観たときと同じ印象でしたが、場所のせいか終わった後は何か寂しいものがありました。勿論、役者さん達の精一杯の熱演は前と変わらずではありましたが、回数を重ねてチョッピリながらも慣れた感じが出ちゃってるようにも思います。こればかりはどうしようも無い事とも思うものの、若い役者さんにWキャストでチャンスをあげるみたいな事があってもいいのでは? その時は金額変えればいいんじゃないですか? 勿論、上手い安定的な演技は基本ではありますが、その一方で、挑戦する芸術であるテント演劇は新鮮さを無くしてはならないとも思います!
満足度★★★★
風物詩的と化した、くすんだ紅テント。お祭りだっ
状況劇場・紅テントの劇世界を、書物でしか知らない私は、その系譜にある新宿梁山泊、また唐ゼミ等でその匂いを嗅ぐのみで、唐組観劇は一昨年から今回ようやく3度目、唐十郎自身が営々と「芝居」を続けて現在に至ったその拠点集団で、一体何を繋いで行こうと意志し、そして何を残したのか、全く想像するしかない。今回、私は「出涸らし」という言葉がネガティブにでなく肯定的な微笑ましい意味合いで浮かんで来た。何かを変えたい!変えられる!そう願ったかも知れないあの世代の熱度は当然なく、しかし唐的世界の「おいしいところ」はこの芝居小屋に来て味わえる、そんな客のために、興行を続けて来ている。この先劇団の大きな飛躍はなく、唐十郎作品じたいいずれはネタが無くなる(再演は出来るが)。では何を渡し、何を継いで行くのか、それを模索し続けた何十年かの足跡だけは濃密にこの場所に眠っているのだろうと想像した。
歌舞伎のように役者登場の際掛け声がかかるのも、この興行が季節ごとにやってくる名物となっているとしたら、相応しい。そこから深くて大きな、大時代なメッセージを受け取ることはたぶん出来ないし、そこが勝負の場ではない。唐十郎という作家の世界でしか存在しない人物像や、詩情も確かにあり、70~80年代にノスタルジーの対象となっている敗戦直後の光景や、当時(現在)の人々の織り成す光景は、実際の光景でなく「強烈な主観」が見せる光景である。だから時代の制約は逆になく、古さを感じさせないのはそのためなのだろう。
もっとも、主要作品の時代設定は確かに古いし、道具の建て込みは精緻さとは真逆で、テント芝居の華であるラストのテント崩しも何となく「お約束でした~」で終わってる。(その点梁山泊などは大々的に感動的に作っているのとは、対照的。)慣れちゃってる、なのに続けているその足腰が、唐式に感じる謎である。
初夏と秋の風物詩が、末永く続きますように。
(アングラ小劇場運動の立役者でもあった蜷川氏が亡くなった。替えの効かない才能、唐十郎もその一人。)
満足度★★★★★
花園神社公演
◆唐十郎作品は、日本的な情感を土台として成り立っているものの物語自体は現実的なものではなく、この作品も同様です。日常生活のなかに普通に存在する色んな物品が物語のキーになっているのも共通です。でも唐さんは、なんでこういうことを思いつくんでしょうね・・??? 登場人物・物品は、戦後昭和の街の怪しいひと達、霊界、水、火事、指輪、ローソクの灯ったケーキ・・
◆今回は辻さん、藤井さんを中心に物語が廻っていて、辻さんが怪演、藤井さんが二役(・・っていうのかどうか??)を熱演するという見ごたえタップリの舞台でした。舞台装置も怪しく不可思議な物語うまく展開できるものになっていました。藤井さんの美しさも今回効果的でした。ちょっと驚いたシーンもあったけど・・・
◆それにしても夏の初めの夜って、テント芝居に良く似合いますよね。外から聞こえてくる車の音なんかもテント独特の雰囲気でございます。美仁音さんにも3年連続、初夏の花園神社でお目にかかってますが随分オトナっぽくなりましたね~これからの御活躍期待してます!