満足度★★★★
風物詩的と化した、くすんだ紅テント。お祭りだっ
状況劇場・紅テントの劇世界を、書物でしか知らない私は、その系譜にある新宿梁山泊、また唐ゼミ等でその匂いを嗅ぐのみで、唐組観劇は一昨年から今回ようやく3度目、唐十郎自身が営々と「芝居」を続けて現在に至ったその拠点集団で、一体何を繋いで行こうと意志し、そして何を残したのか、全く想像するしかない。今回、私は「出涸らし」という言葉がネガティブにでなく肯定的な微笑ましい意味合いで浮かんで来た。何かを変えたい!変えられる!そう願ったかも知れないあの世代の熱度は当然なく、しかし唐的世界の「おいしいところ」はこの芝居小屋に来て味わえる、そんな客のために、興行を続けて来ている。この先劇団の大きな飛躍はなく、唐十郎作品じたいいずれはネタが無くなる(再演は出来るが)。では何を渡し、何を継いで行くのか、それを模索し続けた何十年かの足跡だけは濃密にこの場所に眠っているのだろうと想像した。
歌舞伎のように役者登場の際掛け声がかかるのも、この興行が季節ごとにやってくる名物となっているとしたら、相応しい。そこから深くて大きな、大時代なメッセージを受け取ることはたぶん出来ないし、そこが勝負の場ではない。唐十郎という作家の世界でしか存在しない人物像や、詩情も確かにあり、70~80年代にノスタルジーの対象となっている敗戦直後の光景や、当時(現在)の人々の織り成す光景は、実際の光景でなく「強烈な主観」が見せる光景である。だから時代の制約は逆になく、古さを感じさせないのはそのためなのだろう。
もっとも、主要作品の時代設定は確かに古いし、道具の建て込みは精緻さとは真逆で、テント芝居の華であるラストのテント崩しも何となく「お約束でした~」で終わってる。(その点梁山泊などは大々的に感動的に作っているのとは、対照的。)慣れちゃってる、なのに続けているその足腰が、唐式に感じる謎である。
初夏と秋の風物詩が、末永く続きますように。
(アングラ小劇場運動の立役者でもあった蜷川氏が亡くなった。替えの効かない才能、唐十郎もその一人。)