『ゴミ、都市そして死』 『猫の首に血』 公演情報 『ゴミ、都市そして死』 『猫の首に血』」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 1.5
1-2件 / 2件中
  • 満足度

    これ、再演ですよね?
    なんでこうなったんだろうか。

    音楽も石橋英子さんとジム・オルークさんたちが生演奏するということで、結構期待してたのだが……。

    ネタバレBOX

    ファスビンダー2本立て公演のうちの1本。
    これが面白かったらもう一本の『猫の首に血』も見ようと思っていたのだが、その気はまったく起きなかった。

    「まるで月のように荒廃した」ドイツのどこかの街が舞台。
    緒川たまきさんが、DVが酷いヒモ男に貢ぐ娼婦を演じる。そこへ若松武史さん演じるユダヤ人の金持ちなどが絡んでいく。

    正直言って、緒川たまきさんは輝いている。
    オーラもある。
    台詞回しも悪くない。

    しかし、作品全体の印象は悪すぎる。

    いくつか気になった点がある。
    まずは「戦争の影」がまだあちこちに残っているはずの街にその匂いが感じられない。
    (ユダヤ人に酷いことをしたという父親がいるのだから、戦争はそう遠くないはず)
    なんとなく、近未来的なプラスチックな印象を受ける。
    それが廃墟のようだったらまた受け止め方は違っていたはずなのだが。

    そして、途中から「寒い」「凍える」という台詞が出てくるのだが、その感じが一切ない。
    少なくとも演技と、あるいは照明の助けも必要だったのだはないか。

    劇中に何度も出てくる、たぶんダンスのようなものが、みっともない。
    上手くないのはダンサーでないからしょうがないにしても、中には照れているような表情を浮かべている役者もいたりして、それだけで腹が立つ(結構前のほうで見たから、表情丸見えなんですよね)。
    もっと必死に踊れよ、と思ってしまう。

    それが何度も何度も出てくるので、内容が薄まったようにしか感じられない。
    リズムに乗っていない人がいるというは致命的だが、せめて、曲げるところはきちっと曲げて、伸ばすところはきちっと伸ばせよ、と言いたくなった。必死にダンスに取り組む姿があれば、それなりに受け止めることはできるのだから。
    ドイツの軍歌的なもので行進するような男たちぐらいは、それなりにしゃきっとしろよ! と思った。

    そして、歌。

    渚ようこさんの歌はいい。
    上手い。
    歌が説明になっていたのに途中から気づいた。

    しかし、男性2人の歌は酷い。
    下手なりになんとかしてほしかった。

    「口パク」で歌う(?)シーンは本当に酷い。
    もちろん「口パク」であることは見ればわかるのだが、どうしてそうしたのかが不明だ。
    別に音楽を流して、その前で演技しても同じだっただろうと思う。
    口パクが下手だというのもある。堂々と合っていない。意図があって下手にしているわけもないし、時間だけが無駄に費やされていく。
    演出したい雰囲気が醸し出されていない、と感じた。

    先に「緒川たまきさんは輝いている」と書いたが、確かに輝いているのだが、それが役としてはどうなのか、と思ってしまう。
    つまり、「お茶をひいている」娼婦には見えないのだ。
    最初からひっきりなしに咳き込んでいれば、何か良くないなあ、ぐらいは感じられるのだが、その設定が出てくるのは先のほうであるし、咳き込むのも、それが必要なタイミングのときだけ。
    これでどうして「お茶引きの娼婦」に見えるのか。

    また、ラストは死にたくなってくるのだが、それへの動機が彼女を見ていても浮かび上がってこない。
    それは「台詞の中だけにある」ものなのだ。

    DVなヒモ男に貢いでいて悲惨な状況から一転してユダヤ人の金持ちのパトロンが出来てから、そして死にたくなったと言い出すまでの間の演技が、一定にしか見えないのだ。衣装ぐらいはもっと効果的にしてほしかった。
    もし、それが一定に見せることが演出ならば、底辺のレベルの気持ちで一定にしてほしかった。

    たぶんこの作品に足りないのは、「荒廃」感、「退廃」感。

    キャバレーのようなシーンがあるが、女装した主人公の父が歌うような場所なので、もっと退廃的なシーンにしたほうが良かったのではないか。
    ヴィスコンティの映画『地獄に堕ちた勇者ども』の乱痴気騒ぎシーンのレベルは無理にしても。

    生演奏も生演奏であることの効果が薄く(口パクのところなど、音楽を流しているところもあったりするだけに)、せっかくのミュージシャンが生きていないと感じてしまった。

    結局、演出が悪い。
    私の好きな俳優、若松武史さんもまったく光らなかったし。

    もっと演出的に突き詰めるべきことが多かったのではないかと思う。
    再演だから気を抜いたとは思いたくないが。

    以上のことを感じながら観劇したのだが、いろんなファンもいるし、好印象を持つ観客もいるんだろうなあ、と思っていたら、終演後の拍手の熱のなさには驚いた。
    全然してない人も近くにいたりして、こういうスケールの劇場でこんな拍手の熱のなさは初めてだった。
    すぐに止んでしまったし。
    当然、ダブルコールはない。
  • 満足度★★

    残念な舞台とはこの事か・・う〜む残念。
    踊りのある舞台で世田谷パブリックの3階席は、ハズレ。横に向かってアピールする振りが、シラっと覗けてしまう角度だ。だが、そうした事ばかりでもなさそうだ。これほど拍手が乏しく、呼び出しもなかった舞台は初めてである。再演とあって期待した『ゴミ、都市そして死』の方を観劇したが、色んな難点があった。初演データをみると、俳優は若干陣容が変わり、根拠はないが初演が優位にみえる(横町慶子、羽鳥名美子、宮崎吐夢の名がある。例えば宮崎吐夢の食った風情がこの芝居に合いそうである)。あと振付のスズキ拓朗はこの2年で評価を高め、再演チラシには大文字で出ていた。しかし劇中に出て来る踊りも今ひとつ洗練されておらず、それ以前に、踊りが出てくる意味が判然としない。歌も然り。度々、俳優が歌うが、伊藤ヨタロウや渚ようこ等「歌える人」以外の役もオンステージをやる。ドイツ語の古い歌のようで、「歌い上げる」のだがどうやら口パク。それと判るように見せたいのか、「歌っている様子」として見せたいのか、そもそも芝居全体の演出の方向性が見えない中では位置づけようがない、というのが正直な所。上手い下手の問題ではない(折角うまい歌声が響き渡っても、妙に虚しい空気が流れる)。緒川たまき以外の娼婦が「その他大勢」に見えてしまうのも悔しい。こういうのは嫌だ。
     また、皆なぜか口跡・抑揚に問題あり、噛みはしないが、意味を伝える正しい抑揚で台詞が稽古されていない感じ。それでなくても抽象度の高い戯曲である。意味が入って来ない事がえらく多い。また肝心な言葉(語尾など)をつるっと言ってしまう(良い滑舌を見せて挽回したい?)。もう何なんだよ、と思ってしまう。
     劇の作りの細かな部分が雑、投げやりに思える。その最たるものが、ラストだ。いくらか判り易く意味が頭に入ってくる会話の最後の言葉で、ストンと照明が落ちる。それまでの雑然とした流れを、せめて反芻する時間、闇を作ってくれるかと言えば、全く。さっさと照明が入り、既に一列に並んだ俳優(並ぶ動きがうっすら見えるので終演だと判る)。他の俳優も袖から登場するが、並んで礼をするまで拍手が起きない。拍手を惜しむ観客も観客だと感じたが、不消化感は確かに大いに残った。何しろラストさえ観客を突き放すのでは、作り手が真正面に向き合おうとしていないと、見えても仕方ない。
     この歪な作りは、舞台美術が加藤ちかである事も意外だったが、せめて空間に美を追求してほしい所、これがシュール。背後に月面の円弧がドカンと置かれ、その前に安っぽい箱(娼婦の部屋などになる)があり、下手の外階段から箱の天井に上がれるがさほど活用されず、そこに昇って歌ったりする意味も不明。袖は左右三段、黒の替わりにレースが吊られ、クリスマスツリーにかけるような電飾が一本、アーチ状に渡してある。場面として出て来る(高級?)クラブを連想させ(歌もそこで歌っている態で挿入されるようだ)、またそこで展開する事がいかにも作り事な「お芝居」という演出意図もあるかも知れない。
     とにかく全体に美的でなく、床も汚ない。「汚れた床」を示すなら、もっと収まりの良い色があったのでは・・ただ汚ない。でもやはりそれらを一つの統合された表現とするための、俳優によって作られるべき世界が、もう一つ作れていなかった事が敗因だろう。
     ファスビンダーの戯曲は隠喩的で、書かれた当時の現実が踏まえられているのは確かだと思える。この芝居には娼婦たち、客引き(娼婦の一人の恋人=ヒモでもある)、金持ちのユダヤ人、ゲイたち、ナチスの残党らしき者などが出て来る(かの国の良識人にはカンに触る人物ばかり?)。特にナチス残党については、これを語る事じたいがスキャンダルな事であったと想像される。ドイツの病理=ホロコーストを生んだ=を象徴するナチスが現存して虐殺を悪びれず正当化する姿が、ドイツ人にどういう感覚を呼び起こさせたか‥翻って、日本はどうか、という感覚が舞台に何一つ流れていない(私は感じ取れなかった)。また、世間ズレした同業者の中で、独自な感覚を保っている娼婦(緒川たまき)の恋人は、彼女を客に売っていながら「やつの一物は大きかったのか」等と詰め寄り、彼女が「20㎝くらい」「ビール瓶の太さ」と答えると、「売女」と罵って殴る場面がある。サディスティックな感情を爆発させる瞬間とは、もっと自分の内奥に快楽が迸っているはずだし、冷酷で鋭利な姿に観客をハッとさせるものがあるはずだ(女も敢えて「でかい」を誇張し、挑発している感がある=屈折・頽廃)。ここは作り手としてはイメージしやすい場面だと思うが、いまいち迫れていない。
     音楽(歌以外の)がまた奇妙で、心地良くない。中でもラストの音楽が最も安っぽく、観客の「共感」を拒否する。「観客を裏切る」的な演出は、伝えるべき事が伝わった上で効果を為すのであって‥。とにかく残念。
     ただ、ファスビンダーのテキストに触れる機会とはなった。
     付言:初演の紀伊國屋ホールと世田谷ではだいぶ劇場の趣きが違う。いかにもプロセミアムの枠の中で展開する「お芝居」を横から観る、という雰囲気の紀伊國屋には、あの舞台美術は有りだったかも知れない。

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