満足度★★★
必要性が
ちょっと長いかな。劇中劇で主人公達が書いてるモノを見せるのはまあいいのだが、あそこまでガッツリ見せる必要性が見えなかった。また家族のシーンも含め結局何を見せたかったのか、ちょっとわかりにくくなってたかな。(見せ方の構成は面白かった)
満足度★★★★
二重のメタフィクション構造が好み
タイプの異なる歴史小説家2人が紡ぎ出す幕末と明治の出来事。
大河ドラマ3-4本分の内容(笑)に、各時代における女性の立場(地位?)を織り込んだかと思えば後半では作家と作品の関係なども浮上して飽きさせない。
また、役者がモブを演じる時に羽織る黒いマントの「もう一つの使い方(=劇中劇内での“死”の暗示)」も妙案だし、劇中と現実の二重のメタフィクションという構造が好み。
満足度★★
130分の勝負
ちょっと長く感じました、ってか実際長かったし。
主役級のメンバーが台詞が聞き取れないのがまず残念。しょっぱなから何か見る気が失せました。その点、各シーンの脇役のメンバーはしっかりしている印象。その結果本筋が何なのかよくわからなくなってしまいました。
あとは美術とか照明とかが稚拙で、基本的に顔は暗いし、セットチェンジの意味合いも感じないし、袖の役者の動きは気になるし・・・そういった意味では初心者か!?って思いました。
このような舞台の場合はもっと登場人物にスポットライトを浴びさせるような集中力を切らさないような演出がよいと思います。
「歴史に向き合う」とは何なのか?
「歴史認識」って、とても大切なことだと思う。
例えば、ウクライナでも、ソ連(つまりロシア)から独立した1991年が「民主化」だったと考えるグループと、「祖国分断」だったと考えるグループが存在する。
「歴史」というのは百貨店のショーケースのように、ある種の自然科学的事実でしかない。
だが、同じ事実=「ウクライナ独立」で あったとしても、その「歴史認識」は、どこの地域に住んでいるか、どの民族か、どの階級か、等々のアイデンティティが決定する。
こうした「思想」が手紙を書く際のインクの役割だとすれば、やはり 語り主は主観的にならざるを得ない。
まさに「歴史は小説」なのだ。
私がキャスト陣を驚愕したのは、『そびえたつ俺たち』旗揚げ公演に出演していた方々(フジタタイセイ・ニシハラフミコ)が占めたからである。
「台詞間違い」を他のキャスト陣が連発するなか、意外といったら失礼かもしれないが、彼らは「影を全面に押す」大人びた演技だったと思う。
日本近代史、すなわち明治維新から終戦までを10倍スピードで再生する舞台も珍しい。日露戦争のみを切り取り、『坂の上の雲』(司馬遼太郎 原作)が連載されるわけだから、白鵬関のような懐の広いレンズで歴史を観察する脚本家もいなかった。
上演時間130分は長い。
その数字が、浮きだつ「軽さ」を隠蔽させた可能性も ある。
※ネタバレ箇所
「フィクション」だと作・演出の千頭和直輝は記すが、登場人物たちの「想い」に寄り添えば、あながち「クロ・クロ歴史認識」に異論を持つものは少ないだろう。
終戦後には10分間ライブが開催され、千頭和もギターを弾いた。マイクが機能不全のため、演奏家の歌詞は 聴こえなかったが、そうしたスタイリュッシュ型複合舞台(現代舞踊)を より志向するべきである。
満足度★★
好き嫌いの問題とは別に
劇中劇の印象が強く、現代の問題が中々見えてこないのが残念でした。
あと、本日は舞台上でちょっとしたハプニングがありましたが、あれがなくともフタッフワークの悪さは目立ちましたし気になりました。
満足度★★★★
タイプの異なる歴史小説家とオズ
できるだけ史実に忠実に、登場人物が限りなく喋りそうな表現で歴史小説を書こうとするアキオと同世代で史的事実は、骨組みとして用い、登場人物の性格設定などは、想像力の翼に任せて書くタイプのフクエ。2人が扱うのは、幕末から日清・日露辺りの時代。何も戦争ばかりでなく、女性解放運動なども絡め、ある意味ジャーナリスティックな手法を鏤めながら、スピーディーに展開する。これにアキオの娘の作品が絡んでくるのだが。(追記後送)