帰郷 -The Homecoming- 公演情報 帰郷 -The Homecoming-」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.2
1-4件 / 4件中
  • 満足度★★★★★

    これが私が観たいストレート・プレイ
    約2時間強。男ばかりの親子と招かれざる紅一点の客の、一見突飛に映る行動のワケ(動機)を、頭フル回転で解いていく。質の高い芝居だから得られる知的興奮とスリルにアタシご満悦。
    ほんわかホームドラマでは全くない。親と子の、男と女の闘い。開幕時からプっと吹き出せたのは、セリフを言い続けるベテラン俳優の力だけじゃなく、その横にいる中堅俳優の在り方の重さゆえ。これが私が観たいストレート・プレイ。
    ピンターといえば不条理劇で難解だという言説は、信じる必要のない噂だったんだ。

    ネタバレBOX

    長男(斉藤直樹)の妻(那須佐代子)が初めて彼の実家に来た夜。彼女が明け方までかつて自分が住んでいた町を放浪してたことは、次男(浅野雅博)のセリフでわかる。…いったい何してたんだよ!(笑)。この時点で悪女認定だん。でも最後の場面で彼女が三男(小野健太郎)をやさしく抱く姿は、ピエタのようだった。
  • 満足度★★★★

    喪失感
    「ロンドンの下町に男だけで暮らす労働者ファミリーのもとへ、学者としてNYで成功した長男が数年ぶりに帰郷した。結婚後、実家に帰るのはこれがはじめてである。彼が妻を連れてきたことに、父、叔父、弟たちは色めき立つ。その結果…。」

    じっくり観られる、濃密な二時間の会話劇でした。
    翻訳がすごく耳に入ってきやすく、また、役者に馴染んでいて好印象。
    また、役者陣が巧みで、ドライな中に激情を忍ばせた台詞のやりとりが印象的。

    台詞と役者の動きの双方から、「こいつ何考えてるんだろう?」って部分が丁寧に立ち上がってきていて、一挙手一投足から目が離せない。
    色んな人が地球儀クルクルするシーンが好きでした。
    中央にある椅子は玉座のようでもあり、
    そこにステッキを手にして座る父(中嶋しゅう)は、
    さながら一国の王。この芝居はシェイクスピアですと言われても疑いのない存在感・粗野粗暴な雰囲気が素敵でした。

    ネタバレBOX

    長男の嫁(那須佐代子)の存在感が半端なく、そして美しかった。

    長男の嫁が家に来て、ウッヒョーイ女だー、てな所から段々話はおかしな所に進んでいく。
    長男(斉藤直樹)が居る前で、弟たちは嫁を押し倒したりなんだり。
    当然怒るだろ、と思うも、長男は、ただ見ている。
    冷ややかな視線にいささかの苛立ちは感じられるものの、
    より大きく、軽蔑に近い何かが漂うような雰囲気。

    家族はエスカレートし、嫁を売春婦としてこの町で働かせて金を儲けよう、という段に。

    長男はもうすぐアメリカに帰る。
    妻に対しては「残りたければ残れば」といった感じ。

    この、家族・夫婦のやり取りが、妙。
    人間ならば、愛し合っているならば自然に起こるであろう嫉妬や憤り、
    そういったものなしに、あるいは、思いが強いからこそ出てこないのかもしれないが、
    とにかく、表面的な爆発無しに話が進んでいく様が、
    何とも不可思議。
    決定的な何かが失われてしまっているような、
    人間を見ているのに違う生き物を見ているような、
    あるいは、人間の、極めて人間らしい側面を見ているような、
    一概に「これ」と言えない奇妙な感覚を味わった。

    母のいない家に、帰ってきた何か。

    ラストシーンは、父の玉座に長男の嫁が座り、
    その膝に末息子が顔を埋める。
    ルネサンスの聖母子を描いたような神々しい、しかし、何かが違う、
    見た事のない絵であった。

    表面に決して出てこない何か、
    あるいは、決して出すまいと努める事により、
    人間は、思ってもみない妙な方向に向かっているように見えた。

    こんなことありっこない。
    そういう異世界を見ているようでいて、
    この『帰郷』の世界にある冷たい戦いは、
    たしかに、この世のものなんだ、と感じる。

    家に戯曲のコピーがあるから、読み直そう。
    良い舞台でした。
  • 満足度★★★★★

    家族のカタチ
    手でつかめるぐらいの質量感。
    それをシアター風姿花伝という小さな劇場で観られる幸せ。

    ネタバレBOX

    小川絵梨子さんの演出は好きだ。

    この舞台は、彼女の演出と出演者の顔ぶれを見て、行くことを決めた。
    濃くて重くて、生きた台詞の応酬が楽しめる、そんな舞台ではないかと期待したからだ。

    果たしてそのとおりだった。

    正直、ストーリーと登場人物たちにはほとんど共感できる点はないのだが、圧倒的な役者と戯曲の質量感にぐいぐい押された2時間。

    タイプの違うイヤな感じの人々が舞台の上にいる。
    常に苛立ち、暴力的な言葉で罵り合う。

    年老いて息子たちの世話になっていることがを素直に認められず、悪態をつく父。
    父を養っているが、家族を含めあらゆるところに不満があり、それを父にぶつけてしまう次男。
    そして、ボクシングという目標があるのだが、ふらふらして腰が定まらない三男。
    自分の家が気に入らず、家を飛び出し何年も連絡すらとらない長男。
    いい歳になっているのに、一人身で、兄(一家の父)の家に一緒に暮らす叔父。
    そして、明らかに不仲なのだが、直接的には表面には出さない長男の妻。

    どろどろしたストーリー、相手を罵倒するような台詞の応酬、そして苛立ち。

    日常感じている苛立ちや不安を、(それとは関係ない相手に)ストレートに言葉に出してしまったら、こんな風になってしまうのだろう。しかも、いったん言葉にして、応酬したら、歯止めが掛からずこんな具合のギスギスした家庭の様子になってしまうのではないだろうか。

    しかし、一緒に暮らしている。
    外で発散できない鬱憤を、内で晴らしているだけだ。
    単にいがみ合っているわけではない。

    だから、味がどうこうと言ってはいるが、父親が食事を作ったりしている。
    何年も帰ってこなかった、長男さえも帰ってくる。

    長男は、哲学者になっていた。労働者階級である自分の出自が気に入らない。自分の家族とそこにかつて属していたことも気に入らないのではないだろうか。
    だからこそ、それを直接的ではないにせよ、妻にぶつけてしまっているのではないだろうか。
    そうした鬱憤を「家族に向けてしまう」のが、彼の実家の姿だったから。

    妻は、そうした夫(長男)の言動や言葉にしない感情を常に感じていたのだろう。
    彼女が自分の出自らしきことを語るところからも、それはうかがえる。
    それが長年の間に積み重なり、ついに嫌気をさした妻が、夫である長男に引導を渡す寸前に、夫婦だけで旅行に出たのではないだろうか。

    旅の目的地に選んだのは、長男が、最も嫌う自分の家だった。
    途中にイタリアに寄ったりしたようだが、本当の目的は自分の故郷だったのだ。
    「帰郷」だ。

    彼(長男)は、実家に帰ることで何を望んだのだろうか。
    彼の実家の家族たちのように、ホンネで話せることができることを望んだのか。
    あるいは、自分も妻と同じような階級から出てきたということを、自分にも妻にも再確認するためなのか。
    いずれにせよ、なんらかの突破口を見つけにきたに違いない。

    しかし、妻の出した結論は、「彼の実家に残る」だった。
    普通の妻、そして母親である彼女が選択するはずのない結論だ。
    つまり、彼女はついに静かに爆発してしまったのだ。
    なんて暗い展開なのか、と思ったのだが、ラストで印象は一変した。

    長男が妻を置いて去るときに見せる、次男の表情だ。
    この寂しげな表情こそが、この物語のキーではないのだろうか。

    つまり、先に書いたとおり、悪態をつき、自分の苛立ちを家族に、汚い言葉でぶつけ合っている一家なのだが、それはそれでバランスが取れており、それがこの家族の姿。
    他人から見れば、いがみ合い、嫌な感じのする家族なのだが、彼らにとってはそれが「自分たちの家族のカタチ(姿)」ということなのだ。

    つまり、長男の妻が残ると言ったことに対して、「客を取らせる」まで言ったことは、長男の妻に対する「ここにいるなよ」というメッセージであり、またそれは長男に対する「妻と和解して連れて帰れよ」というメッセージではなかったのだろうか。

    不器用なりに、頭の回転が速い次男が考えた「策」ではなかったのだろうか。
    もちろん、三男と父親がそこまで頭が回ったかどうかは微妙だが。

    それに対して長男は気づきもせず、去ってしまう。
    妻は、夫である長男に最後に声をかけるが、やはり長男には伝わらない。
    妻は、あのような行動に出ることで、長男には「一緒に帰ろう」と言ってほしかったのだろう。
    しかしそれは、妻がいた場所と自分がいる場所が違っていること(階級とか階層とか)の違いを印象づけてしまうだけで、逆効果だったのかもしれない。

    いや、あるいは長男は気がついていたのかもしれない。しかし、哲学者ゆえ、頭がよすぎるからこそ、気持ちのままに動くことができなかったともいえるのではないか。
    つまり、哲学者である自分がそういうことに囚われていることへの、自己嫌悪による行動なのかもしれない。

    もう我慢の限界まできている妻に対して、夫である長男は「察してあげる」だけでよかったのだ。しかし、それができない悲しみがある。

    舞台の上のすべての人たちが、深く後悔したまで幕は閉じられてしまう。

    この舞台は、ハロルド・ピンターの脚本による翻訳モノだが、小川絵梨子さんが翻訳も手がけているので、台詞が役者によく馴染んでいるように思える。
    その人から間違いなく発せられた言葉。
    「訳された」感がない。

    そしてこの舞台は、役者を楽しむ作品ではないだろうか。

    中嶋しゅうさんの存在感。
    浅野雅博さんと、斉藤直樹さんの、別タイプのイヤな感じが素晴らしい。
    那須佐代子さんには、底知れぬ怖さを感じた。
    普通の妻・母親がそういう行動に出て訴えたかったことについての、静かなる反抗。

    セットは、壁に小道具や家具を散りばめることで、リアルな室内を作ることなく、古く暗くて湿度の高そうなイギリスの家を表現していて素晴らしかった。
    また、家から見える正面のスロープの上にあるブランコは、かつて兄弟たちが楽しんだであろう、昔日の家族の象徴のようで、効いていたと思う。



    舞台そのものとは関係ないが、パンフレットがあれでは……。
    たとえ300円であったとしても、あれでお金を取るのは、ない。
  • 満足度★★★

    最近の舞台では珍しく喫煙シーンが多いので苦手な人は自己防衛を心がけましょう
    初めて訪れた劇場、シアター風姿花伝。
    客席構造が前方は対面式、その一部は座椅子桟敷、中央から後方は正面向き。指定席だけど、前方に座るかもしれない女子は服装に気をつけましょう。暗転時間短いし、約2時間近く身体動かせない。

    この戯曲は読んでないけど、海外で暮らした事がない自分にとっては外国の戯曲は読むより見た方が分りやすいし漠然とした想像力を掻き立てる。
    だが、この作品に関してはなんと言って良いのか答えが上手く出て来ない。文学的でもあるし、不条理的でもあったし、それでも登場人物が醸し出す特有の美学はなんとなくわかる。まるで散文詩の世界を詠んだような感じ。
    あの家族に共感はしないけど、父親の大切な人に当たりたくなる気持ちは分らないでもない。でも、全員歪んでいるけど。歪む前、母親がいた時はあのブランコで息子達をあやしたんだろうか。最後の長男の嫁の決断はそれで良いの!?って突っ込みたくなったが、野獣の中に独り放り込まれると女の気持ちも大らかになるんだろうか。なんというか大人な舞台だった。
    約2時間。
    観賞日、出演者全員と照明、美術スタッフと演出の小川さんが揃ったアフタートークあり。

    ネタバレBOX

    家族の中で成功者とも思える哲学者の長男のテディ。
    なんかお金を儲ける才能はあるらしい次男のレニー。
    思うより身体が先に動くボクサー志望の末っ子のジョーイ。
    それなりの仕事をしてきて労働者階級のトップまで登りつめ、現在は家長として一家に君臨している父親のマックス。
    実家なのでそのままそこで住んでいる三兄弟の叔父でありマックスの弟であるタクシードライバーのサム。
    テディの妻であり3人の子供の母であるルース。

    ルースが現れた事で、レニーのクレバーさが垣間見えたり、ジョーイの荒っぽいピュアさが可愛かったり。テディの家族と接する事により、ルースは子供産んでも、歳をとっても「女」を捨てない人なんだなー、本性が開花したのかな。
    ジョーイがルースに母性的な愛情を覚えた瞬間は理解できたが、家族に奉仕させる?妻の行動をあそこまで寛容した夫テディの気持ちがよくわからなかった。ポーカーフェイスというか、言葉にださなくても通じていた強い意志の固まりのようなの夫婦なんだろうか。女と男の思考の違いが如実に出ているという事なのか?だれか解説して下さいー。
    お父さんの鬱屈にも似た憤り方が凄かった。
    舞台全体は満足だけど、内容をちゃんと理解出来ない自分の頭を恨みたい。小川さんの演出、前回SISカンパニーの「TOPDOG〜」よりも今回の演出の方が好きかも。
        **********************
    当日アフターゲストは上記の通り。
    照明の松本氏はハイバイやイキウメ等に携わり、演出の小川さんが日本で初めて作品作った時から関わりある方だそう。
    客席下手から浅野さん、那須さん、斉藤さん、しゅうさん、中原さん、小野さん、照明の松本さん、美術の松岡さん、演出の小川さんの並び
    演出の小川さんが司会者的な役回りで、以下、ざっくり記憶の覚え書き。

    しゅうさん:(舞台終ったばかりで)テンション下がってないので何を言うか分らない、最初は(この舞台の上演は)小川さん(以下呼称、絵梨子)や自分達の企画で考えていたが、なかなか(劇場とか金銭面?)思うように行かなかったが、那須さんのおかげで劇場を使え一ヶ月近くやれる事になった。役柄、演じ方は小川絵梨子の言う通りにやっている。良いダメ出しをする。
    小川さん:ピンターの戯曲、「不条理」のままやるとわからなくなる、読んで、立って、演ってもらって発見することがある。役者を通して話が立ち上がる読み物ではない「戯曲」だ、と。

    小野:最初読んだらさっぱり頭の中に入って来なくって焦った。こんな事言うと怒られるかもしれないがw。「ピンター」という大きい山を登っている最中、もしかしたら遭難中かもしれないけど。信頼出来るスタッフと共にお客さんと必ず生還出来ると自信ついている。
    浅野:気持ち悪い本w、と思った。家族内でどんなシュチュエーションで、と考えていくと合点がいった。今回の役は普段やらないような役。今回はしゅうさんが呼んでくれた。しゅうさんは、浅野さんの結婚披露宴でお開きの際の新郎正装姿を見て「(浅野=)レニー!」と決めたらしい。
    斉藤:しゅうさんに「やれー」と言われた。言われた時は他の舞台と被っていたのにw、でもやったら充実した時間を過ごしている、毎日楽しくやっている。小川さんからも一番楽しそうにしている、と言われる。

    那須さん:一番最初に読んだ時、自分が配役されない役と思った「大丈夫か?」と。しゅうさんから「実はそんな女(=ひと)に見えない女(ひと)の方が良い、と言われ、小川さんは「普通の一女性が瞬間の積み重ねで得た経験をやれば良い、と言われる。カテコライズした女は作りたくない、ルーズの捉え方によって演出法は変わってくると思う。女の事をよくわかった人が書いていると思った。
    中原さん:わけが分からなくて。お任せするしかない、で、やってきた。

    照明さんと美術さんと小川さん:(個別にきちんと話されていたんだが、ここまで来てくると、いかんせん自分の記述能力に限界が来たのでニュアンス纏め書き)
    舞台の企画が立ち上がり、製作が進み始めある程度の形を作ったとしても、稽古から本番までに演出から演技も日々変化もあり、毎回本番まで時間が無い、間に合わない、初日まで行き着かない事もある、いろんな事を考えた。まだ探している段階でもある。今回はもともと質感のあった人達と我がままが言える(劇場)環境だったので、それは感謝している。普段は別の場所で稽古して次に劇場入りして、舞台セット組んだり照明あわせたり小道具仕込んだり、があるのに、この公演はずっとこの劇場で通してやっていたと。
    美術さんは、劇場見にきて気づいたらこの配置になっていた。家族のルールを認めて作ったセット。客席からは見え辛いが天井部分には蜘蛛の巣とか這っていて細かい事をやっている。一部の小道具はスタッフ私物。マックスが座っている中央の椅子は、地球儀はしゅうさんの私物だそう。

    テーマを語ると言うより、物語という手法をどう取り扱って見せるのか、重点を置いているか、に気を配った。
    それぞれの人物の年収とか、その背景は出していないが、細かく決めているらしい、ちなみにマックスしゅうさんは年(月?)収5万円、年金暮らし。
    観客質問で、ご年配の男性や戯曲を読んだ来た方とか、率直な意見(わからなかった〜とか、舞台セットについて〜)があり、それ以外では、テディのルースの行動についてに言及された質問とその返答→家族の中に残る事になった彼女の事をどう思ったのか。その辺りの言動や行動がなかったが、どういう風に思って演じていたのか→台本上、何も説明がないし(その辺りは斉藤さんなりに考えて演じた模様)彼女は本当は娼婦かもしれないし、美人局かもしれないし。バックグランドが明確でない分、説明にしていないか、瞬間瞬間で見せられるように、わかるように努力した。

    記述が曖昧な部分もありますが、大体こんな感じ。小川さんは頭のキレの早い女性だと思い知りました。充実したアフタートークでした。

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