帰郷 -The Homecoming- 公演情報 Runs First「帰郷 -The Homecoming-」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    家族のカタチ
    手でつかめるぐらいの質量感。
    それをシアター風姿花伝という小さな劇場で観られる幸せ。

    ネタバレBOX

    小川絵梨子さんの演出は好きだ。

    この舞台は、彼女の演出と出演者の顔ぶれを見て、行くことを決めた。
    濃くて重くて、生きた台詞の応酬が楽しめる、そんな舞台ではないかと期待したからだ。

    果たしてそのとおりだった。

    正直、ストーリーと登場人物たちにはほとんど共感できる点はないのだが、圧倒的な役者と戯曲の質量感にぐいぐい押された2時間。

    タイプの違うイヤな感じの人々が舞台の上にいる。
    常に苛立ち、暴力的な言葉で罵り合う。

    年老いて息子たちの世話になっていることがを素直に認められず、悪態をつく父。
    父を養っているが、家族を含めあらゆるところに不満があり、それを父にぶつけてしまう次男。
    そして、ボクシングという目標があるのだが、ふらふらして腰が定まらない三男。
    自分の家が気に入らず、家を飛び出し何年も連絡すらとらない長男。
    いい歳になっているのに、一人身で、兄(一家の父)の家に一緒に暮らす叔父。
    そして、明らかに不仲なのだが、直接的には表面には出さない長男の妻。

    どろどろしたストーリー、相手を罵倒するような台詞の応酬、そして苛立ち。

    日常感じている苛立ちや不安を、(それとは関係ない相手に)ストレートに言葉に出してしまったら、こんな風になってしまうのだろう。しかも、いったん言葉にして、応酬したら、歯止めが掛からずこんな具合のギスギスした家庭の様子になってしまうのではないだろうか。

    しかし、一緒に暮らしている。
    外で発散できない鬱憤を、内で晴らしているだけだ。
    単にいがみ合っているわけではない。

    だから、味がどうこうと言ってはいるが、父親が食事を作ったりしている。
    何年も帰ってこなかった、長男さえも帰ってくる。

    長男は、哲学者になっていた。労働者階級である自分の出自が気に入らない。自分の家族とそこにかつて属していたことも気に入らないのではないだろうか。
    だからこそ、それを直接的ではないにせよ、妻にぶつけてしまっているのではないだろうか。
    そうした鬱憤を「家族に向けてしまう」のが、彼の実家の姿だったから。

    妻は、そうした夫(長男)の言動や言葉にしない感情を常に感じていたのだろう。
    彼女が自分の出自らしきことを語るところからも、それはうかがえる。
    それが長年の間に積み重なり、ついに嫌気をさした妻が、夫である長男に引導を渡す寸前に、夫婦だけで旅行に出たのではないだろうか。

    旅の目的地に選んだのは、長男が、最も嫌う自分の家だった。
    途中にイタリアに寄ったりしたようだが、本当の目的は自分の故郷だったのだ。
    「帰郷」だ。

    彼(長男)は、実家に帰ることで何を望んだのだろうか。
    彼の実家の家族たちのように、ホンネで話せることができることを望んだのか。
    あるいは、自分も妻と同じような階級から出てきたということを、自分にも妻にも再確認するためなのか。
    いずれにせよ、なんらかの突破口を見つけにきたに違いない。

    しかし、妻の出した結論は、「彼の実家に残る」だった。
    普通の妻、そして母親である彼女が選択するはずのない結論だ。
    つまり、彼女はついに静かに爆発してしまったのだ。
    なんて暗い展開なのか、と思ったのだが、ラストで印象は一変した。

    長男が妻を置いて去るときに見せる、次男の表情だ。
    この寂しげな表情こそが、この物語のキーではないのだろうか。

    つまり、先に書いたとおり、悪態をつき、自分の苛立ちを家族に、汚い言葉でぶつけ合っている一家なのだが、それはそれでバランスが取れており、それがこの家族の姿。
    他人から見れば、いがみ合い、嫌な感じのする家族なのだが、彼らにとってはそれが「自分たちの家族のカタチ(姿)」ということなのだ。

    つまり、長男の妻が残ると言ったことに対して、「客を取らせる」まで言ったことは、長男の妻に対する「ここにいるなよ」というメッセージであり、またそれは長男に対する「妻と和解して連れて帰れよ」というメッセージではなかったのだろうか。

    不器用なりに、頭の回転が速い次男が考えた「策」ではなかったのだろうか。
    もちろん、三男と父親がそこまで頭が回ったかどうかは微妙だが。

    それに対して長男は気づきもせず、去ってしまう。
    妻は、夫である長男に最後に声をかけるが、やはり長男には伝わらない。
    妻は、あのような行動に出ることで、長男には「一緒に帰ろう」と言ってほしかったのだろう。
    しかしそれは、妻がいた場所と自分がいる場所が違っていること(階級とか階層とか)の違いを印象づけてしまうだけで、逆効果だったのかもしれない。

    いや、あるいは長男は気がついていたのかもしれない。しかし、哲学者ゆえ、頭がよすぎるからこそ、気持ちのままに動くことができなかったともいえるのではないか。
    つまり、哲学者である自分がそういうことに囚われていることへの、自己嫌悪による行動なのかもしれない。

    もう我慢の限界まできている妻に対して、夫である長男は「察してあげる」だけでよかったのだ。しかし、それができない悲しみがある。

    舞台の上のすべての人たちが、深く後悔したまで幕は閉じられてしまう。

    この舞台は、ハロルド・ピンターの脚本による翻訳モノだが、小川絵梨子さんが翻訳も手がけているので、台詞が役者によく馴染んでいるように思える。
    その人から間違いなく発せられた言葉。
    「訳された」感がない。

    そしてこの舞台は、役者を楽しむ作品ではないだろうか。

    中嶋しゅうさんの存在感。
    浅野雅博さんと、斉藤直樹さんの、別タイプのイヤな感じが素晴らしい。
    那須佐代子さんには、底知れぬ怖さを感じた。
    普通の妻・母親がそういう行動に出て訴えたかったことについての、静かなる反抗。

    セットは、壁に小道具や家具を散りばめることで、リアルな室内を作ることなく、古く暗くて湿度の高そうなイギリスの家を表現していて素晴らしかった。
    また、家から見える正面のスロープの上にあるブランコは、かつて兄弟たちが楽しんだであろう、昔日の家族の象徴のようで、効いていたと思う。



    舞台そのものとは関係ないが、パンフレットがあれでは……。
    たとえ300円であったとしても、あれでお金を取るのは、ない。

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    2013/06/27 04:35

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