ハヤサスラヒメ 速佐須良姫 公演情報 ハヤサスラヒメ 速佐須良姫」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-5件 / 5件中
  • 満足度★★★★★

    圧倒の世界。
    笠井叡×麿赤兒「ハヤサスラヒメ 速佐須良姫」を観る。
    二人の達人の初共演。舞踏やオイリュトミーを知らなくても、舞台に圧倒される。その意味で、すごい舞台。
    大駱駝艦メンバーと天使館メンバーのコントラストがはっきり。重力とスピード、曲やリズムの取り方、流れる時間...。同じ動きをすると質感の違いがくっきり。影のようにも、双子のようにも。
    二つに別れてしまったものの遊戯。幼女の笠井さんと老女の麿さんは、親子のようにも、一人の女の一生にも見え。
    混沌を積み上げて、そして大団円の群舞、とおまけ(笑)。素直に楽しむべし。

  • 満足度★★★★★

    宇宙の理(ことわり)
    笠井叡さんと麿赤兒さんが存在するだけで、男女、明暗、有無などの二項対立や宇宙の理(ことわり)が、あらわされているようでした。唯一無二といえる2つの世界がぶつかり、反発し合いながら共存。自らピエロになって笑いを生み出すのは究極の優しさであり、永遠の子供らしさだと思いました。終盤は涙が流れっぱなし。天使館と大駱駝艦の若手の身体に、笠井さんと麿さんのDNAがしかと受け継がれていることも感動的でした。

  • 満足度★★★★

    延年の芸能
    畢竟ダンスは、寿福増長、遐齢延年。芸能の根源である天の岩戸開きをテーマにするこの作品は、確信犯でそこを狙ったのでしょう。たしかに観て寿命が10日くらい延びた気がします。まあ、どんな芸能でも元気な老人を観ると観ている方もが元気になるものですが、69歳であのエネルギー、それだけでオールオッケーです。舞踏は健康によいのだなあ。
    まじめに付言すると、大駱駝艦の4人の舞踏手は、本当に素晴らしい踊り手でした。金剛力士像が踊り出したらこんな感じでしょう。空中に自らをモノみたいに固めて放り出す動きがとりわけ素晴らしかった。
    嘲笑と共感を同時に誘うユーモアのセンスも心地よかったです。

  • 満足度★★★

    『第九』で踊る
    笠井叡さん率いる天使館と麿赤兒さん率いる大駱駝艦というベテラン舞踏カンパニーの合同公演で、ベートーヴェンの交響曲第9番を丸々1曲踊る中に醜さや滑稽さから美しさや崇高さまで、様々な情感が表現されていました。

    無音の中、明かりが入るとアンサンブルが円形に並んでいる印象的なプロローグの後、第一楽章では舞台前面を底辺、奥中央を頂点にした三角形に照らされた床の中を激しく踊り続ける笠井さんと静かに歩く麿さんを中心にして展開しました。第二楽章では長方形に照らされた床面の中で、スケルツォの楽想にマッチしたリズミカルな動きが天使館と大駱駝艦それぞれ4人によって繰り広げられダイナミックでした。第三楽章では女装姿の麿さんと笠井さんの滑稽なやりとりが続き、次第に醜さの中に美しさが感じられました。第四楽章では合唱のパートに合わせて大勢のアンサンブルも加わり、祝祭性に富んでいて壮観でした。
    第三楽章のクライマックスの転調したところで初めて青い照明が使われたときの美しさが印象に残りました。

    金髪に上半身裸の天使館メンバーとスキンヘッドに全身白塗りの大駱駝艦メンバーのビジュアル上の対比だけでなく、同じ動きをしても腕や腰の使い方が全然異なっていたのが興味深かったです。

    魅力的なシーンが沢山ありましたが(激しく動くときより静かなときにそう感じることが多かったです)、音楽が偉大過ぎて、踊りが負けているように感じました。
    曲想やリズムに合った、ある意味分かり易い振付で様々な雰囲気が描かれていて楽しめましたが、個人的には第四楽章冒頭でのそれ以前の楽章の回想で、それぞれの楽章の照明に変化させる等、もっと音楽の構造・形式と関わりを持った演出・振付のものが観たかったです。

  • 満足度★★★★★

    大駱駝艦は大地を踏みしめ、天使舘は宙を行く
    天使舘主宰の公演。
    天使舘・笠井叡と大駱駝艦・麿赤兒はが、ガップリ四つに組んだ。

    ベートーヴェンの第九を鳴り響かせ、大祓。
    年の瀬にふさわしい公演。

    ネタバレBOX

    オープニングが素晴らしい。
    何もない舞台に照明が丸く当たり、暗転、再び照明が灯るとそこには少数の男性を含む20名ぐらいの女性たちが円陣を組んでいた。
    もう、これだけでジビレてしまった。

    笠井叡さんが踊る、踊る、踊る。とにかく踊る。御年69歳とは思えないほど軽やかに舞台の上を滑るように踊る。
    まるで、少しだけ(ほんの数ミリだけ)宙に浮いているような感覚すら覚える。

    対する麿赤兒さんは、客席から現れる。音もなく横に立っているのに気づきびっくりしてしまった。音や気配などを一切出さず、客席を歩き、笠井叡さんが踊る舞台に上がる。
    この静けさ、どっしり感が大駱駝艦の現在の姿ではないかと思う。

    天使舘から笠井叡さんとメインの4名、そして大駱駝艦からは麿赤兒さんとメイン4名が参加している。
    大駱駝艦は白塗りで、天使舘はそのままの裸で舞台に上がっているが、まったく同じ見た目であったとしても、この2つのカンパニーはひと目でわかるのだ。

    天使舘の面々は軽やかに宙へと身体を動かし、大駱駝艦は足に根を生やしたようにどっしりと大地を踏みしめているからだ。

    2つの違いは「腰」にあると感じた。腰の入り方、位置がまったく違う。
    したがって、身体自体の造り方もまったく違うのだ。びっくりするほど違っていた。

    それは、「舞踏(踊り)」というものへの「思想」の違いであり、身体がそのすべてを示していると言っていい。

    2つのカンパニーがぶつかり合って、改めてそれを実感した。

    今回は、天使舘が主催であり、笠井叡さんの振り付けであるので、今まで観たことないような、大駱駝艦の、速い舞踏があった。ひたすら第九に合わせて踊るような感じ。

    それでも、「大地を踏みしめている」さまは変わらない。

    特に最近は、すべてを削ぎ落とし、「立っているだけで舞踏」と言い放つような麿赤兒さんなのだが、笠井叡さんとのぶつかり合いでは、火花を散らして踊っていた。

    笠井叡さんの「軽み」みたいなものも凄いと思う。麿赤兒さんが舞台の中心で踊り、決まった、というところで、舞台袖から「麿赤兒!」というかけ声まで掛けてくる(麿さんは、ラストで笠井さん「アキラちゃん」と呼んだのは笑ったが)。なんとも言えない「軽さ」が強さでもあろう。その徹底ぶりは凄まじい。

    第九のラストでは、バックの女性たちも舞台に居並び、圧巻であった。
    高らかに流れる第九にふさわしいものだ。
    そして、ラストは、笠井叡さんと麿赤兒さんの微笑ましい姿があり、柔らかな気持ちになってくるのだ。


    公演のタイトルである、速佐須良姫とは、大祓の祝詞にも出てくる神様で、底の国にいらっしゃり、穢れなどを流し消滅してくださるという。

    そして、音楽は、ベートーヴェン第九。
    つまり、「歓喜の歌」で、大祓を終え、祝福の新年を迎える。
    そんな、まるで年末にふさわしい公演内容だったと思う。

    もちろん、単に「年末」「大祓」ということではなく、「(良い)転換」という意味も込められているし、芸術への賛歌も込められていると思う。

    大駱駝艦は、震災直後の昨年3月に『灰の人』を公演た。そこで、「ミタマシズメ、ミタマフリの念を込めて、ただひたすらをどるのみであります」と、麿赤兒さんが公演の冒頭に語ったように、鎮魂の舞踏であった。
    そして今回は、天使舘の公演なのだが、さらに大祓をする。
    これは偶然ではなく必然としての、公演であったのではないか。

    それには、笠井叡さんと麿赤兒さん、お二人の強い想いが込められていたと思う。

    次は、大駱駝艦主催で行ってほしいとも思う。
    こうした「他流試合」は、土台がしっかりしていて、かつ柔軟性のあるカンパニー同士で、もっと行うと面白いのではないかと思った。

    ちなみに、公演で使われた第九は、フルトヴェングラーがタクトを持ち、バイロイト祝祭で演奏されたものを、麿赤兒さんが気に入ったものだという。
    だから、演奏の最後には拍手が入っていた。それがまた効果的だったのだ。

    この盤を使ったことを「文化」という表現で麿さんが述べていたと思うのだが、それで思い当たることがあるので、引用する。
    まさに今回の公演内容とも、共鳴している内容で、麿さんの意識にも似たようなところがあるのでははないかと思うので。

    フルトヴェングラーは、戦中ナチスに協力したという疑いで、非ナチ化裁判にかけられた。
    そのときの彼の最終弁論の一部である(うろ覚えなのでネットで検索しました)。

    「芸術とは、政治や戦争、あるいは民族の憎悪から生まれたもの、また こうした憎悪を生み出すものとは無縁であるというのが、私の考えである。芸術は、こうした対立を超越しているのだ。人類全体が一つの共同体であることから 生まれ、またこれを顕し、またこのことを証明する何かが存在せねばならない。このことを述べるのは、現在ではいつもよりいっそう必要なことである。こうし た事物には、まず宗教、さらに学術、そして芸術がある。たしかに芸術は、それを生んだ国民を証すものである。しかし、その国の政治とは無縁である。芸術は 民族から生まれるが、それを超越する。我々のこの時代において政治に左右されないことこそが、芸術の政治的役割なのである」

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