実演鑑賞
満足度★★★★★
時代を反映してか、(イキウメ前川氏程でないが)桟敷童子東氏の戯曲も、ある時期から無慈悲な冷酷な現実を映し出す場面を含む作品が散見される。「エトランゼ」を思い出す。貧困の再生産という事が言われるが、言語が示す「平均的」イメージはそれとして、本作では「頭が悪い一家」と、その自意識からのひずみが家族を病ませて行く「パターン」を描出している。
病的な被害妄想を楽観的に変えようとしない母孝子(板垣)、家出したその娘香苗(大手)、彼女が発見された後面倒見がてら雇われる事になる親戚の営む食堂(仕出しもやっている地元の老舗会社)で彼女の面倒を見る事になる恵子姉さん(増田)、毎度のお婆役だが今回は最も時代に乗り自由を謳歌し、どん詰まりの所で香苗を救う事になるヒサ(鈴木)、今回はこの四女優の形象が優れていた。普段とは違った役柄というか佇まいの親戚の叔母二人(川崎、もり)も良かった。男優はそれぞれ役としての存在感を持ちながらもアンサンブルに徹し、女優を光らせていた、という印象が強い。
無惨で悲惨な日本のどこかに今もあっておかしくない現実を、目を見開いて凝視させる筆力、役者力、アンサンブル、微細な伏線を大きな変化に繋げる技も見事。装置を駆使したクライマックスをラストでなく少し手前に持って来て、ファンタジックな場面を介して小さな光あるエンディングへ誘う。この場面に登場するアイテムは「現実」の峻厳さに見合う迫力を備え、必見である。
実演鑑賞
満足度★★★★
25周年記念作は劇団員のみで公演。これは本当に凄い作品なんだがどうにも伝えようがない。どんなに言葉を選んで積み重ねてみても大して伝わらないだろう。何だろうな、この感覚。気になった人全員に観に行って欲しいがチケットはもうあるのかないのか。このクラスの作品を年末にガツンとぶつけられて頭はクラクラ。次の桟敷童子の新作まではどうにか生きていたいと思った。
客入れのもりちえさんは見る度にどんどん痩せていく。
井上莉沙さんは可愛いが役柄が・・・。
ワンツーワークスのようにスローモーションで皆が駆けるオープニング。構成が映画的で時間軸が次々と飛んでいく。それを無理矢理成立させる役者陣。メイクと衣装と表情とでこの無茶を成り立たせる腕力。何度も強調して使用される対位法。象徴的なものはどうしようもなく不幸な場面に流れる「ラジオ体操第一」の明るいメロディー。黒澤明の好んだ演出で世界と自分とのズレを浮き上がらせる。今回は演出がかなり凝っており、バラバラにばら撒かれたシーンや夢、妄想や記憶が一枚のモザイクアートのように収斂されていく。
主演の大手忍さんは主演女優賞もの。中村玉緒みたいな嗄れ声で猫背の病んだ女性役。軽い障害のある人の受け答えそのもの。ここまで作り込んだか。
彼女の母親役、板垣桃子さんは助演女優賞だろう。確かにそういう女性が舞台上にいた。直視したくないものを直視させる演技の凄味。この表情。
彼女の弟役、加村啓(ひろ)氏が劇団員になっていた。押尾学みたいなふてぶてしい面構え。
彼女の父親役、三村晃弘氏の元気ハツラツとした健康的な笑顔。山登りとラジオ体操が大好き。とにかく身体を動かしてこそ人間だ。
従姉妹にあたる増田薫さんの表すリアルな痛み。誠実に生きているが故に誠実に我慢ならない怒り。
妹方の叔母にあたるもりちえさんの佇まい。再婚した家庭で会得したのは何も感じない“無”。そしてそれは当たり前の生活の一頁。誰にとっても特別なことではない。
彼女の義理の母親、鈴木めぐみさんが重要なパーツ。独り暮らしの老いぼれた交通誘導警備員だがSNSで動画を投稿していいねを稼ぐ。全く腐っちゃいない。今の時代を楽しみまくっている老婆の強さ。
大手忍さんのキャラはギリギリなところを突いている。観客の感情移入と生理的嫌悪のギリギリ。しかもユーモラス。こんな鬱話の中、観客が笑いでホッとする。そこのサーヴィス精神こそが数十年続く劇団の持つ地力。こんな話に和む笑いを入れる余裕。幾つもの修羅場を潜り抜けて来たタフなベテランの持つ味。
作家が10年以上前から着手していた実際の知人をモデルにした物語だそう。現実では彼女に何もしてやれなかった。せめて虚構(嘘話)ならどうにか出来るのだろうか?納得出来る救済のカタルシスを用意出来るのだろうか?だがそんな嘘話を騙ったところで一体何になる?
こんな負け戦の作品に心底取り組んだ作家の魂にRespect。
「一体どうしたらあんたを救えるんだろうか?」
「それは私が知りたいよ!どうしたら私は救われるのか!」
答えのない世界にただ問いだけが舞っている。
主人公(大手忍さん)の一生絶対に関わるつもりがなかった母親(板垣桃子さん)との電話のシーンでは泣いた。はらわたから振り絞る声、互いに何一つ嘘が存在しない。作家の安易なヒューマニズムに逃げない姿勢を支持。嘘臭い話で器用にまとめるのは簡単だがそんなものは現実と乖離し過ぎていて無意味。今作は虚構から現実を撃たねばならないのだ。嘘話で現実の人間を救う?笑止千万。だがやるのだ。
哀しみが嫌いだったら気のぐれた振りをすればいいし
別に悪い事じゃないさ ねえあんた少し変だよ
BLANKEY JET CITY 「ロメオ」
実演鑑賞
満足度★★★★
パンフレットによれば、モデルとなる話があるそうなのだが、そしてそれはもっと悲惨な話なようなのだが、いったい何なのだろう。終盤、機関車があんなふうに何度もぶつかっていくとは思わなかった。おいおいいくらなんでも・・・とは思ったが、機関車に付けられた名前といい、最後のセリフに繋がる象徴的な場面なのだろう。
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2024/12/19 (木) 14:00
座席1階
ラストシーンは感動のあまり泣きそうになった。桟敷童子の本領発揮である。このような形になると構えていても激しく心を揺さぶられた。見ないと損する、傑作だ。(満足度の☆を6つにしたい)
開幕前に舞台上段にかかっている1枚の絵。何の絵なのかは、一見しただけでは分からない。この絵が、物語の重要なカギを握ることになる。開幕前にはスポットが消えてこの絵は暗闇の中に沈む。再び登場するときが、物語が大きく動くときだ。
両脇に階段がしつらえてあるだけの開幕前のシンプルな舞台装置に、今作は桟敷童子の特長である派手な、あるいは美しい舞台美術はなく、役者たちの動きやせりふだけで物語が進行するのだろうと感じていた。これが、最後の最後で、いい意味で大きく裏切られた。
舞台は九州のとある田舎町。人口減少で鉄道も撤去され、かつて鉄路を走った機関車は駅を改装した郷土資料館にポツンと置かれている。この町で食堂(今は弁当屋)を営む一家と、その親類である貧しい一家が主役である。食堂を営む一家は人口減で経営は縮小したものの娘たちを大学に出し、従業員も雇ってそれなりの生活をしている。もう一つの一家は、貧しいながらも一家で登山やキャンプに出かけるなど表面上は仲が良かった。親類の一家に負けじと息子を無理に進学校に行かせようとするなど背伸び気味という面はあったけれども。それだけならよかったのだが、この一家に次々と不幸が襲いかかる。
今作の作者は言う。「10年以上も前から書こうとしていた題材だが、暗く重く、あまりにきつすぎて何度も挫折した」。僕らは彼らに何もしてあげられなかった。そんな思いで書いたという。「あまりにきつすぎて」というのは、恐らく現在もそうだ。これは、ラストの大感動シーンがあることのメタファーであることから推察できる。
また、主人公の娘(大手忍)がトラウマになっていたメロディーが、あまりにも現実感があって客席の心をわしづかみにした。
劇団創設25年とのことで客演を招かず劇団員だけの公演。やっぱりよく鍛えられている。実に濃厚な2時間であった。
実演鑑賞
満足度★★★★★
激しく心を揺さぶられました。前回公演からの観劇者で、今回は舞台装置が予想外にシンプル(実はそうではなかった)、伝承の世界は出てこないようで物語性はどうかななどと開演前は内心思いましたが、見事に裏切られ、東憲司さんと劇団員16名が放つ緊迫感、熱量あふれる劇的空間に2時間弱、目と心が釘付けになりました。
実演鑑賞
満足度★★★★★
面白い。
或る事件や伝承的な出来事といった題材ではなく、身近な家族・親戚 いや人間の心に蠢く羨望や嫉妬といった思いを描く。それを家族崩壊と街の衰退を重ねるように紡いだ群像劇。本作は劇団創立25周年記念ということもあり、あえて劇団員のみの公演にしたと。
この劇団の特長である仕掛けのある舞台装置、本作でも その迫力と印象付けといった効果は十分に発揮している。それが 新作公演とはなっているが、過去公演からの繋がりのようで 地続きの光景を思わせる。物語の中心人物 篠塚香苗役を大手忍さんが演じているから、なおさら その思いを強くした。話としては、ありふれた と言っては語弊があるかもしれないが、桟敷童子公演としては実にリアルだ。当日パンフに「オリジナルの物語であるが、モデルはある」と。ただ、話の肝になるであろう父親の行為、その動機なり理由の描き方が足りないような気がする。
ちなみに 少しネタバレするが、タイトル「荒野に咲け」の「荒野」とは「この世」の意、まさに地に足をつけたような公演。社会(派)的なダイナミックさはないが、人それぞれの感情が弾け飛ぶ。観応え十分。
(上演時間1時間55分 休憩なし) 12.20追記