駈込み訴え 公演情報 駈込み訴え」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 4.4
1-9件 / 9件中
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    感想遅くなりました。金曜の夜伺いましたが、皆さん書いている通り迫力のある演技と語り口でとてもよかったです。中瀬古さんは今回含めて三回ほど拝見していますが、とても丁寧に真摯にお芝居しているのが伝わって素晴らしいです。また機会があれば拝見したいと思います。ありがとうございました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★

    迫力ある劇でした。緊張感があり、起伏に富んだ感情の揺れがひしひしと伝わってきました。

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    一人芝居でしたが、熱演と迫力に圧倒されました。
    ただただ凄いの一言。
    コメントしている方達の、役者さんへの評価が高いのも納得でした。
    小さな空間で、贅沢な時間を過ごしました!

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    面白い、お薦め。
    中瀬古 健 氏による一人芝居、熱演。
    「可愛さ余って憎さ百倍」という言葉があるが、物語(小説)は イスカリオテのユダのキリストへの狂おしい思い〈思慕と裏切〉を大胆に解釈し語られる。嫉妬、愛憎相反するような感情、その複雑な思いを繊細に演じる。それによって ユダの心情が抒情豊かに描かれる。
    (上演時間1時間15分)

    ネタバレBOX

    舞台美術は 中央に平板を組んだ立ち台、その後ろにシンク、上手に小姿見、下手に脚立が置かれている。舞台の前後を照らす天井の小さな照明が効果的。壁・柱や天井に小説の一節または文が書かれた貼紙。また劇中、講談風に語(喋)る場面では釈台のようなものを利用し観せ聞かせる。シンプルなセットの中を自由自在に動き回りユダの心情を切々と表現する。

    冒頭は 時代がかったような語りから始まり、自分が如何に主に尽くし奉仕してきたか。それでも報われない思い 仕打ちに憤る。自分が これほどまでに慕っているのに…。あろうことか、主は 貧しく教養もない百姓女に恋をしたと邪推し嫉妬する。自分の奉仕に対する見返り、その思慕が受け入れられないと悟った時に芽生えた裏切りの感情。心の変遷とその複雑な思いが順々と展開される。フードを被ったキリストは「おまえたちの中の一人が私を売る。その者に 1つまみのパンを与える」、一方 ユダは「私はしょせん商人。賤しめられている金銭であの方に復讐、銀三十」旨、その対の台詞に心魂が震える。

    何となく、暗鬱なユダという人物の感じが 作者・太宰治に似ているような気がして興味深く観た。ユダという人間の懺悔録(自己憐憫・自己憎悪等)から奥深く印象的な公演に仕上げている。何故、ユダがキリストを銀三十で売ったのか、謎に包まれた伝説に材を得た原作。小説を読むのと違って、生身の役者の血肉を通してユダの感情・人間性をリアルに立ち上げた。公演は彼の演技力で成り立ち、その迫力・緊迫感に圧倒される。

    暗転による場面転換が絶妙で、情景・状況の変化が分かり易い。またロウソクに火を点し 水を流すなど観せ方に工夫を凝らし飽きさせない。ラストはローリング・ストーンズの音楽で余韻を残す巧さ。
    少し気になったのは、下手の壁に寄り掛かるような演技の時、見切れになるような。台詞にある「堪忍ならないor堪えられない」(⇦遠くて不正確)と書かれた貼紙のある柱が出っ張っているため、後部客席からだと壁際の演技が観えにくい。
    次回公演も楽しみにしております。
  • 実演鑑賞

    良かったです。

  • 実演鑑賞

    やはり上手い。
    最初から全開。

    ネタバレBOX

    個人的には過剰な気がしないでもないですが。
    演出家は始めから高いテンションを要求しがちなので、そのせいかもしれないのですが。

    途中の講談パートがすごく良い。この部分大好き。

    最後にこの曲をもってきたかあ。
    やるなあ、望月六朗。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

     ベシミル! 迫真の一人芝居だ。力量のある役者にしかできない。追記した7.8 8時39分

    ネタバレBOX

     言うまでも無い。太宰治の作品である。演者は中瀬古 健氏、一人芝居だ。演出は望月六郎さん。観客席正面に設えられた板は高座仕立ての台。この奥に流し。上手が出捌けのドア。シーンによって台上に机の機能を果たす小道具が置かれ、講談の高座のように時折、机を叩きながら演じられるが、このシーン以外で机状小道具は床に置かれて邪魔にならない。下手側壁には台詞の一部であろうか? 何ごとか書きつけられた紙片が数枚貼られている。作品内容は極めて重い。というのも太宰がその作品を書き、発表した時期を振り返ってみると日本が絶えず戦争をしていた時代と敗戦後のごく僅かの時代、最も激しい混乱困難の時期である。今作は、キリストとユダの関係を描いた作品であるが、このユダの屈折は、戦時中に共産党シンパとして活動し関連雑誌を広く買い集めては人々に配布したりもしていた太宰が、言ってみればマルクスの基本的には人間理性を信用し、その上で未来に賭けた共産主義の理想に共鳴して特高の監視が常識であった時代に反体制の運動に関与し、後それを「裏切る」形になった自らの在り様に心底震え戦き悩殺されたであろう原体験を基に書かれた作品と解釈することが可能であると考える。太宰に関しては道化の意識などということが良く言われることは承知している。然し道化は道化でも「リア王」に登場する道化の台詞の刺さること、刺さること。この台詞が太宰のような弱そうで強靭な神経を苛んでいたとしたら? それこそが、今作の肝だとしたら? 華があり、一挙手一投足の隅々まで気の充溢した役者・中瀬古 健氏ならではの迫真の舞台である。
     こう述べただけでは分かり難いと思う読者も居るであろう。補足しておこう。太宰が己の苦悩を重ねてユダを描いたのであるとすれば、それはどのようなレベルに於いてであろう? 自分は以下のように考えたのだ。それはアイデンティティーとアイデンティファイの間にある落差に蜷局を巻いている矛盾に在るのだと。即ち共産主義思想に賭けようとし、幻滅して離れた己の思想行為は己の内面に於いては納得し得る論理的帰結であったものの、世間的には非合法だったと考えられるマルクス主義関連雑誌等を購入して配布したりしていた訳だから、受け取った者が感化され非合法であったであろうマルクス主義的思想に染まっていったとすれば現実的に逮捕・拘禁・拷問を含めた自白強要等々の処分を受けることが容易に想像できる。その思想を選んだのは個々人であるにせよ、そのきっかけを作ってしまった事実は消せないから人々から恨みを買い、論理的必然としてアイデンティファイはし得ないということになる。このアイデンティティーそのものに纏わる二層構造の間の矛盾を賢明な太宰は極めて深く、而も良く判っていた。その塗炭の苦しみを中瀬古 健氏はその一挙手一投足を演じる際の強弱や間、キリストを演じる際のどこかしなやかで地底に於いてもほの明るさを見せるような雰囲気を纏って演じることで決してブラックではないユダ、而も同時に影のように拠り所の無い朧であるが故に果てしの無い苦悩という酷い苦悩に苛まれる者の底無しの深さをも体現して見せていたのである。
     当然の事ながら今作には明確な回答等無い。掛かるが故にユダの訴えが有効性を
    持ち得て居るのであり、文学として残り続けているのである。それが意味する処を現在日本で身体化したことの意味は大きい。
  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    太宰治作です 1人芝居 一瞬も目が離せない 全身全霊で惹きつけます

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    太宰の世界にどっぷり浸かりました、熱演にエネルギーもらいました

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