「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査 公演情報 「一つの戯曲からの創作をとおして語ろう!」vol.3 上演審査」の観てきた!クチコミ一覧

満足度の平均 3.2
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  • 満足度★★★

    比べることのおもしろさ
    同じ戯曲の上演を比べられるのが楽しい。「柿喰う客」は公演ごとに攻めかたを変える。それを確認できた。

    ★は、2演出の平均を取って、3つとした。

    詳細な感想は、次に。
    http://f-e-now.ciao.jp/20110411.html

  • 満足度★★★

    おもしろかった。
    2本観劇+公開審査は、なかなか楽しめた。

    ネタバレBOX

    見る側からすると2本はちょうどいいけど、機会を提供するという点で言えば、3本あってよかったのかも。

    舞台面が2尺くらいたかかったら、もうちょっと評価のバランスは変わったかも。

    結果は順当だと思う。
    役者の完成度の高さで心象が左右されているな。という印象は今回も残った。
    いい役者を揃えるのも演出のうちといえばそうだが、その要素は低いバランスで見ないと、最終結果だけで見れば、こういう企画での演出賞ではなくて作品賞になってしまう。
    この切り分けはたいへん難しいが。
  • 満足度★★★

    差があり過ぎる。
    なかなか面白い企画ではあった。

    残念だったのは参加団体(コンペに通って上演できた団体)が2団体と少なかったこと、力量差があり過ぎたこと。

    私が観た日は、village80%が先、柿喰う客が後の上演だった。


    ですので、上演順に簡単な感想を。
    演出のコンペなので、基本的には役者の演技力不足はあまり勘定に入れません。


    village80%は、全体に白のイメージ。白いシーツにコロスたちも白。
    コロスたちにゴキブリの羽音やセリフの反復などの「効果」の役割を持たせている。
    最初こそは目を引いたが、後半になるにつれ彼らの意味はどんどん消失し、芝居の面白味もどんどんなくなっていく。
    また、コロスたちの衣装は真っ白だったが、インナーのパンツは白ではなかった。
    これは演出意図だろうか、それともそこまで演出が行き届いてないだけか。
    後者のような気がする。
    台本自体に関してはただ素直になぞっているだけなので、演出との乖離が目立つ。
    特に、「ブラジルは~」からのセリフや「チェーホフです」のところは演出が浅すぎて読み込みが不十分なのが丸わかり。
    演出家の幼稚な自己満足を見せられた気になり評価できる舞台とは言えなかった。



    柿喰う客は最初から音楽とダンスで始まり、正攻法で見せない事がすぐに分かった。
    しかし、奇をてらっただけのものではなく、客を引き込むことをちゃんと考えている。
    台本も解体が行われ、「ブラジルは~」や「ゴキブリ~」などのセリフを違う役者によって反復させたりする。
    それはただ単に観客に目新しさによる面白さを感じさせるだけでなく、作品理解を促している。
    同じセリフであっても、別の役者が別の解釈でセリフをしゃべることにより、別の意味が生じている。
    また、それまで女たちによって演じられていた舞台に現れた男優、彼によりまた意味は大きく変貌した。
    いかにも韓国人というたどたどしい喋りと回りの俳優たちの反応で、長いセリフを飽きさせない。
    「チェーホフです」のセリフも、前段階でほかの俳優に喋らせておいて別の解釈を与えておき、最後に彼に言わせることにより、また別の解釈が生まれる。
    何度も同じシーンを、違う意味を与えながら重ねることで、観客への作品理解と深みを与えたことで成功した舞台だったと思う。




    今回の星は2つの作品の間を取りました。

  • 「良い演出」とは何か
    柿喰う客とVillage80%の一騎打ち。どっちの演出もおもしろかった。結果は柿喰う客が審査員賞と観客賞の二冠。

    ネタバレBOX

    個人的にはVillageの方が好きだったけれど、それは演出が、というよりも、演出から透けて見える演出家の姿が好みだったのだろうと思う。芝居を観る際に、何を持って良いとか悪いとか評価しているかというと、私の場合結局のところ好みでしかないので、審査員の方々の評価を聞きながら、こんなに難しいことを考えながら芝居を見なきゃいけないのかぁ…とちょっとどんよりした気分になりました…。
  • 満足度★★★★

    観せることと読むこと。
    上演順は日替わりだったそうで、審査日は「柿喰う客」が先、「village80%」が後でした。

    公開審査にて、さすがの評論が展開されたので、あくまでも審査前に感じた(アンケートに書いた)事のみ。

    決定的な差は「この戯曲のキモ(作者が最も伝えたかった所)はどこか」という部分をどこかと探る所に、両演出家に差があったのかなと。

    作者の意図に沿うのか、演出家が強調したい部分に沿うのか。
    核を元に肉付けをしているのなら、そういった出来上がりになっていたはずであるから。

    ネタバレBOX

    village80%でもったいなかったのは、ベッドの上が空っぽだったことです。

    「空っぽにしたい」という演出であったなら、審査員からの指摘にもありましたが、羽音が彼女の周囲で起こることには矛盾?違和感?を感じました。
  • 満足度★★★

    両者の力量差は歴然
     コンペ作品2作を同時に☆評価させるというのはどうなのだろう。それぞれの項目を立てるべきものじゃないのだろうか。
     「柿食う客」を☆☆☆、「village80%」を☆☆として、「満足度」には「柿食う客」の方を入れることにする。
     しかし、「柿食う客」が演劇的に極めてアグレッシブであったのに対し、「village80%」は“頭でっかち”の印象が強かった。
     観る前はそれぞれの劇団のこれまでの活動を鑑みて、「どちらも個性を発揮していてよかった」くらいのことは言えるかと思っていたのだが、villageの力量不足はあまりにも明白である。学生演劇ならばまだしも、それなりに公演を重ねてきたプロの劇団としては、とても評価に値するものではない。演出が戯曲と乖離して、台詞を殺してしまっているのである。
     対して柿食う客は、本来ならこの戯曲の演出としては不適当な彼らのスタイルを、戯曲を解体することで強引に自らのものとして引き寄せて見せた。正攻法ではないという見方もできるが、演劇に何が正道で何が邪道かという規定はない。一見、不条理劇的ではあるが、一般客も充分に楽しめるものになっていたと思う。

    ネタバレBOX

     戯曲と演出とは不可分である。演劇が総合芸術である以上、それは当たり前のことだ。villageの失敗は、演出が“先走った”結果なのではないか。渡部光泰の演出は、とても戯曲を読み込んだ上で考えられたものだとは思えない。
     テネシー・ウィリアムズの戯曲はミニ『欲望という名の電車』である。ムーア夫人の「虚言癖」は、『欲望』のブランチと同質のもの。自らのウソが作り出した妄想に飲み込まれた哀れな女の姿を描くことが第一の主題だ。作家もまた、彼が自称するチェーホフではない。
     しかし、作家が主張するごとく、夫人のウソは真実であって然るべきなのだ。哀れな女が哀れでなくなるための必死のウソが、どうして真実であってはいけないのか。だから作家もチェーホフであるべきなのである。
     この戯曲を演出するためのキモは、彼らの語る言葉が明らかにウソでありながら、真実かもしれない、いや、真実にしか思えないと、どうしたら観客に感じさせることができるか、その点にあったと言えるだろう。

     villageは、3人の登場人物の間に、6人の「白い服の人」を介在させた。ある時は3人の台詞をなぞり、ある時は3人に絡み、ある時は3人に弄ばれる6人の「彼ら彼女ら」は何者なのか。いや、ゴキブリだろうがシラミだろうがゴーストだろうが何者だって構いはしないのだが、問題なのは、彼らが演劇的存在として全く機能していない点である。
     狂言回しとして、コロスとして、物語を牽引するわけでもないし、黒子に徹するわけでもない。陰の主役を担わされているわけでもない。決定的にダメなのは、戯曲のテーマを浮かび上がらせる方法論を内在させていないだけでなく、かえって邪魔をしてしまっていることだ。
     舞台空間は、そこに人がいればいいというものではない。空間もまたそこにある「俳優」である。そして、この戯曲の場合、ムーア夫人を取り囲む空間は、彼女の「孤独」を演出している。それをごちゃごちゃした白い人で埋め尽くしてしまったことで、villageは舞台を「何の意味もない場所」にしてしまったのである。
     戯曲を読解する力もなく、マットウな演出ができないのなら、いや、あえて好意的に「戯曲の意味をわざと無視して、自分たち独自の演出がしたいのなら」と言い換えるが、その場合は戯曲そのものを解体して、自分たちのスタイルに合わせるくらいのことをしてもいいではないか、台詞だって翻訳通りのものに拘る必要はない。

     そう思って「柿食う客」版を観ると、villageの欠点が見事に解消されていたので驚いたのだ。
     戯曲の台詞が自由に組み替えられ、6人の俳優の役柄も随時移動し、繰り返される台詞は音楽と相俟って、いくつもの意味が重ねられていく。この台詞の重層化が、「台詞を解釈する時間」を観客に与えることになる。
     彼女は何者か、彼は何者か。一人一人の俳優の演技は、決して巧くはない。中には韓国人俳優もいて、発音すらたどたどしい。しかし同じ台詞を何度も聞かされた後、“明らかに他の俳優たちに比べて演技的に劣ってはいるが一生懸命に台詞を紡ぎ出す姿”を見た時、我々はそこに彼の「誠実さ」を発見することができる。最初は笑って彼の台詞を聞いているが、じきにそれが「感動」にシフトしていくのだ。
     だから最後の「ワタシハ、チェーホフデス」の台詞に、彼の優しさと労りを感じることができる。あたかもSF小説の中で、心を持たないはずの人形、ロボットに、人間の心が宿った、と感じられた時のように。

     villageも柿食う客も、決して巧い役者を揃えた劇団ではない。
     しかし、実際に舞台を観た時の彼我の差はいったい何によるものなのだろうか。基本的すぎることを言うようだが、やはり戯曲に向き合い、読み込むことができたかどうかの差だったのではなかろうか。
     villageは、奇を衒うことに躍起になるあまり、自分たちの演出にどのような効果があるか、という基本的な計算をすることを怠った。それが「観客不在」の独り善がりの舞台を現出させてしまった原因であろう。villageはまだ“演劇以前”のところで立ち止まってしまっているのである。

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