CoRich舞台芸術アワード!2017

「グランパと赤い塔」への投票一覧

1-8件 / 8件中

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投票者 もらったコメント
sbunshunsbunshun(601)

5位に投票

東京タワーが建設中だった頃、私は、あまり覚えていません。そして思い出すのは、映画『三丁目の夕日』。その時代は同じです。ともえが祖父から望遠鏡を買ってもらった。この家族の方がはるかに豊か。特に大きな事件が起こるわけでもありませんが、その時代の人たちの様々な想いを描いています。「良い芝居だ」というイメージなのですが、『三丁目の夕日』同様、やはり「きれい」過ぎる。一部の実業家や商人は別ですが、全体としては、もっと貧しい雰囲気があっても良かったのでは無いかと思いました。

ベンジャミン2号ベンジャミン2号(1218)

6位に投票

135分とやや長尺ながら、それを感じさせない。特に終盤のある一日、あれを描く為にもこの時間は必要だったように感じる。何ら事件らしきものも起きず、ただ日常の風景が綴られるこの舞台。上っ面の「刺激」的事象や演出などなくとも充分刺激的だった。

nらoむkれe〜nずaんknらoむkれe〜nずaんk(789)

2位に投票

思いつくままに「ネタバレ」に長ーーーく書きました。よろしかったらお付き合いください。
なんとも幸せな135分だった。
そこに生きる人たちの姿は、人を信じること、自分を信じること、人生を信じること、未来を信じることの大切さ、そして家族の愛しさを思い出させてくれた。
人にはドラマがある。
目に見え、語られるものばかりではなく、心の奥底にしまわれているものもあれば、そこにはいない人たちとの関わりの中にもある。
離れて生活する家族の元に届けられる荷物から愛が溢れ出す。
それは家族本人だけでなく、その周囲にいる人へも向けられる。
そうした愛の連鎖が、人の営みの過ちや不幸を浄化すると信じさせてくれる豊かさに満ちた135分について、思いつくままに書き連ねてみたい。

昭和の東京オリンピック前後の高度成長期の日本。
敗戦国としてうちひしがれ、世界での地位向上を目指して焼け野原から立ち上がり駆け上る姿が逞しく、そして微笑ましく、でもどこか愁いを帯びて映る人たち。
そんな時代の愛しい人々の姿がノスタルジックに浮かび上がる。
作演出の吉田小夏さんが、曾お婆様からお母様までの家族の出来事をモデルに書かれた作品。
全編を通して流れる柔らかな空気は、演出家としての吉田小夏さんの姿勢そのものだ。
劇団の企画で稽古場見学の機会を戴いたとき、そこは優しさに満ちた人肌の温もりのような空気に包まれていた。
小夏さんはまるで保育士のように俳優さんと作品を見つめ、スタッフさんとは文字通りそれを育てる仲間として見守っていた。
稽古のトライアンドエラーにおけるリクエストも、世の巨匠と呼ばれる人が世間にもたらした演出家のイメージとはかけ離れ、シンプルで明確でありながら、実にソフトだった。
産み落とされた作品は、確かにその延長線上に立ち上がり、携わる全ての人の愛が芳醇に香っている。

劇場に組まれた美術は、まるで生まれ育った家が帰省した自分を迎えてくれているかのように温かく美しかった。
稽古場のあの平面にバミられた空想の世界は、見事なセットが組まれて、人が憩うかけがえのない家となってそこに確かに存在した。
豪邸であるけれど派手ではなく、豊かさと謙虚さが同居して嫌味がない。
これは、今作品において共感を呼ぶ胆であるように思う。
そして細部まで行き届いた照明の美しさが、家が有する幸福と、人々の機微を照らし出す。
一場ラストの僅かな時間の微かな明かりの変化が、確実に世界を変えてみせた。
それは、きめ細かな演出力とスタッフの技術の高さの賜物である。
衣装やメイクも時代を映し出す大きな要素。
高度成長を支える男たちの労働着、気品と華やかさのある女たちの着物、慎ましい割烹着、モダンで艶やかな洋服…どれも美しかった。
音楽は、特に歌への思いが明白だった。
これまでの作品も然り、吉田小夏さんはBGMよりも生の歌声に価値を見い出しているに違いない。
劇中のクリスマス会で歌われたあの歌は、稽古場見学の時にたくさん拝聴した唱歌『冬景色』だった。稽古のウォーミングアップで歌われたその曲に、こんな形で再会するとは思わずにいたので、まさにクリスマスプレゼントを戴いたような喜びに浸っている。

一つの家での二つの時間が紡がれる。
そこにずっといるのは女中のカズコの大西玲子さんただ一人。
その間にグランパとグランマ、運転手のコタロウは他界し、この家ももうすぐ取り壊される。
おそらくそれは戦後という時代の終焉と、高度成長の完成期となる時代の幕開けそのものだ。
今作品を牽引しているのは紛れもなく大西玲子さん。
これは視線のお芝居だと思う。
それを大西さんが体現している。
ところどころで慈愛に満ちた柔らかな眼差しや、「うふふ」を含んだお茶目な眼差し、時には苛立ちを押し隠そうとする強さも瞳に宿す。
最後?のお見合い相手が我が同業者だったことに胸を痛めるとともに、国語教師にあるまじき目の曇りように情けなくなる…ごめんなさい。
今泉舞さん演じるトモエが、両親への愛情欲求が満たされずに彼女の膝枕で呟く台詞がカズコの豊かさを表している。

一番好きなシーンは、小瀧万梨子さん演じる社交ダンス講師でBarの女ハルが、藤川修二さん演じる酔っ払いのコタロウを介抱する場面。
これも膝枕だ。
吉田小夏さんの作品には、水商売などの「夜の女」がよく登場する。
彼女たちに共通するのは粋で鯔背。
陰はあっても決してイヤらしさはなく、看板花魁のような眩しさを纏っている。
そう、彼女たちは女神なんだ。
男女平等を謳うウーマンリヴの現代社会ではお叱りを受けかねないが、彼女たちの立ち居振る舞いは美しい。
女性の地位向上は必要だし、そうあるべきで異存はない。
それでも彼女たちはオトコのプライドを上手に立てて、イイ心持ちにしてくれる。
それでいて手が届きそうで届かない、少し高嶺の花のマドンナの距離に居る。
なんとも男心を擽られる。
彼女たちの描かれ方には、作家吉田小夏さんからのリスペクトが感じ取れる。
容姿だけではない女性の美しさ、気配りやゆかしさに敬意を持って女流作家が書いていることに、むしろ女性としての誇りを感じて嬉しく思う。
今回の小瀧万梨子さんの巻き髪や口紅も、鼓動を早める艶やかさがある。
同時に、あの少し鼻を膨らませて口を尖らせた「おほほ」や「あらま」が溢れる表情が堪らなくチャーミング。
これだけ男心を擽られたら惚れずにいられる術はない。

最も泣けたのは女中ミヨと鳶の技術者コバヤシとの求婚を受けられない身の上話。
三人娘を持つ父としては、ミヨの父の気持ちが痛いほど解って苦しい。
二人の娘を連れて過ごした特別な時間の幸福と、アレに遭遇してしまった地獄。
戦争の是非や、加害被害の立場を超越して、語り継がなければいけないものがあることを突きつける。
ミヨの石田迪子さんの健気さと、コバヤシの竜史さんの一途さや実直さが胸を締め付ける。彼女を追うコバヤシの姿と、数年後の時間にミヨはいないことで、人生に負い目を感じている二人が幸せになってくれていると願う。
流れた時間以上に戦後から遠く離れてしまったこの日本は、いつのまにかまた戦前に入ってしまっているのかもしれない。
あの大戦を生き抜いた方々から直接お話を伺える時間は、もうそれほど残されていない。
今夏の中学一年生への宿題は「戦争体験者にインタヴューして新聞を書く」にした。
彼らには、この国が過ちを繰り返さないよう次世代に語り継ぐ役割を担って欲しいと思っている。
だから、あのシーンのメッセージは胸の深いところまで突き刺さった。

グランパの佐藤滋さんとグランマの福寿奈央さんを観て、やはり金は稼がなきゃダメだなと実感する。
金銭的余裕は心にゆとりを生み、人に優しくできる器を作る。
グランパの懐の深さは人を魅了する。
その姿から「男とは…」という永遠の命題に思いをめぐらせている。
大きな要素の一つは、男気と女心の掌握力にあると思う。
部下の成長を願うこと、仕事を任せること、部下の失敗を黙し責任を負うこと、言い訳や言い逃れをしないこと...そうした全てがグランパから中間管理職キムラ(吉澤宙彦さん)へ、若手技士ササキ(有吉宣人さん)へと受け継がれていく。
人は期待されれば意気に感じて頑張り成果を上げるもの。
役(責任ある立場)が人を育てるという。
人を育て、組織を育てるとはこういうことなんだ。
やたら「報・連・相」だと言って全てを把握したがる管理職の下で、人が育つはずがない。
現代の日本にどれほどのグランパがいるだろう。
重箱の隅の汚れを寄って集って突き吊し上げ、スケープゴートを求める現代。
マスコミ、ネットが作り上げたこの状況を憂うばかり。
彼らから、見習うべき男気が匂い立つ。
本物の男には素敵な女性が寄り添っているもの。
できる男に連れ添う女は、やはり気風がいい。
家族を救うために退職金の前払いを申し出たキムラに、瞬時に承諾するグランマの姿に器の大きさを感じる。
それはある種「極道の妻」ばりの格好良さだ。

登場する三世代の真ん中のタカコを福寿奈央さんと演じ分ける土屋杏文さん。
同一人物であることを思いながら観るのも楽しい。
大先輩と役を作るプレッシャーは如何ばかりか…と親心のようなものが芽生えたりもするが、これもグランパの会社同様の、劇団の男気、いや親心ではなかろうか。
期待に応えるように成長し、やがて柱となっていくのだろう。
教育や育成の壮大な夢計画…の実現を感じる。

最も心がざわついたのは、今泉舞さん演じる幼いトモエが父ジロウの細身慎之介さんからビンタを受ける場面。
幼い娘が叩かれるだけでざわつくのに、あんなにカワイイ娘なのだから余計にいたたまれない。
ましてや悪気がない失敗なのだから尚更だ。
今ならすぐにDVだなんだと大騒ぎになる。
ただ、ジロウも真っ直ぐな男で、その主張も解らないではないというギリギリを攻めてくる。
その上、トモエの素晴らしさを盛大に褒め称えてみたりするのだから面倒だ。
マスオさん的なポジションのジロウの、その面倒くささをみんなが受け入れている希有な家庭という小さな社会。
刺々した空気を中和してくれていたのが代田正彦さんのマツシマと、田村元さんのヤマムラ医師。
何よりトモエの可愛らしさを見事に演じきる今泉舞さんに脱帽するしかない。
グランパと並んで双眼鏡を覗く時に脚を肩幅に開き、はしゃぎながらも囁くように返事する様子が堪らない。
彼女の可愛らしさをMAXに引き出した、小夏さんの見事なリクエストの勝利と言えるだろう。


「言葉はレンズと同じだ」という台詞に勇気を貰った。
遠くにある見たいモノを大きく見せてくれる魔法。
どんよりとしてボンヤリとしている靄の向こうにあるモノを捉えてくれる魔法。
そのモノはきっと明るい未来であり、希望であり、叶えるべき夢だ。
それを捉えるために言葉を磨かなければいけないことを教えてくれる。
悩める中学校国語教師の背中を押してくれていると勝手に解釈している。
ありがとう。


明日もう一度、素晴らしい作品と135分過ごせる喜びに胸を躍らせている。
そんな中で唯一、欲を言わせて戴くなら、グランパと呼ばせる理由はもう少し違った形で明かされたいなぁと思う。

さぁ、おさらいだ。
もう少し頑張って生きなきゃな。

jokermanjokerman(1327)

3位に投票

 懐かしい芝居だった。昭和44年、祖父母の家が取り壊されるということで久々に訪ねた母娘達が、一緒に暮らしていた昭和33年を回想する。ボイラー会社を経営する三世代の家族と、従業員やら居候やら女中やらの群像劇だが、当時7歳だった長女(今泉舞)をヒロインのように描くのは、青☆組では珍しい。東京タワーが建っていくのに連れて、物語は進み、余韻を残して昭和44年に戻って終わる。135分という上演時間も本劇団にしては長いが、それが意味を持つ長さになっている。私自身が、同じような三世代が同居した家に育ち、東京タワーの完成を見ているので、何だか懐かしい感触にとらわれた。しかし、そうでない世代が見ても、人間を暖かい視線で見る同劇団の本作品は、暖かい気持ちになれるだろう。

雨模様雨模様(5627)

1位に投票

優しい気持ちになれました。
昭和44年7月、目標が定まらない受験生の女子高生が、新盆のためかつて一緒に住んでいてもうすぐ取り壊される祖父母の家を訪れた際に、東京タワーが立った頃の大所帯の様子を回想し、英語が好きで国際ジャーナリストになりたかった夢を思い出し、前向きになる話。

明治の人だからというわけでもないでしょうが、経営者とその妻には覚悟がありました。昭和33年頃は陰に陽に原爆の影響が色濃く残っていました。戦時中急いで見合い結婚した夫婦に愛情があったのか無かったのか、あって良かったです。歳を取ると親に似るって本当ですね。上手い演出でした。そして何より、女子高生と小学生を演じた今泉さん、可愛くて素敵でした。

特段事件が起こるわけでもなく、日常を描いて優しい気持ちにさせてくれる素晴らしい作品でした。

天体望遠鏡を見るととある作品を思い出しますが、それはさておき、時空が広がる素敵な小道具です。

アキラアキラ(1498)

5位に投票

「人と人とのつながり」その本来の姿。

青☆組を初めて観たのは、たぶん10年近く前になる。
アトリエ春風舎での公演『雨と猫といくつかの嘘』だ。
そのときに「上品だ」と感じて、そう感想にも書いたと思う。

そして、その「品の良さ」は今もずっと続いている。
こんなに品の良い作品を生み出している劇団は、ありそうでない。

さらに最近はそれに「風格」も加わった。
それはここまで続けてきたことの、自信なのかもしれない。

(以下ネタバレあり)

この作品は、登場人物が多いにもかかわらず、1人ひとりに愛情が込められているので、物語に深みがある。
彼らの背景についていちいち細かく書き込まれていないのに、その背景が台詞の端々からうかがえるのだ。
これが「品の良さ」の源泉であるし、「風格」にもつながっているのではないだろうか。

今回は(も)、作の吉田小夏さん自身につながる家族の話がベースにある。
「もはや戦後ではない」と言われた頃から東京タワーが完成する、昭和30年代前半が舞台である。
1956年ごろから1958年ごろではなく、あくまでも「昭和」30年代前半なのだ。
西暦ではなく元号「昭和」で切り取られるべき世界。

青☆組は、『パール食堂のマリア』など、この作品と同時代を舞台にしたものはあるが、現代を舞台にした作品であっても、「平成」と言うよりは「昭和」の香りがする。
それは古くさいということではなく、「人のつながり」においてスマホやパソコンで「つながっている」と「勘違い」している「平成」の世界ではなく、「人と人」が「顔を合わせ」ることで「つながっている」世界があった時代ということだ。
その時代が「昭和」のイメージに重なり、確実に行われていたのが、高度成長期が始まる前あたりだった。
戦争からようやく一段落して人心も落ち着き、さあがんばろうという時期。

そういう「人と人とのつながり」こそが本来の人の姿である、としているのが青☆組ではないかと思うのだ。
だから殺伐とした話になるはずもなく、「わかり合えないこと」があったとしても、「信頼できる関係」を築くことができる。

この作品には、「家族ではない」つながりの人々が出てくる。
従業員やお手伝いさんだ。
しかし、彼らも「家族」の一員としてそこにいる。もうひとりの母、古い友、良き兄、弟として。
だから楽しいこともあるが、苦しくなることもある。
それこそが人と人とのつながりではないか、ということを示してくれている。

東京タワーと同じ歳の私としては、この作品で描かれる生活や家族は、その時代(作品の時代には生まれてなかったりするが)に体験したものと比べてピンとはこないのだが(しゃべり方だったり台詞内の単語だっり)、その「空気」には懐かしさに似た匂いを感じる。「確かにそんな感じだった」「家族の会話」や「人々の佇まい」「居住まい」は、と。

それは単なるノスタルジーではなく、「やっぱりそうなんだよな」という、反省にも似た感覚だ。
つまり「人は自分を取り巻く人たちの幸福を願い、きちんとつながっていくのがいい」ということだ。

しかし人とつながることは、甘い話だけではなく、例えば今回の作品で言えば、若いお手伝いさんの過去の話を聞き、求婚した男に「それでもいい」と軽々に言わせないところが、現実的である。こうしたエピソードが作品を物語の上からもきちっと締めている。
登場人物を愛するあまりに、ここはハッピーエンドにしたいところだとは思うのだが、そうしないところが、吉田小夏さんの上手さではないだろうか。

青☆組の公演は、吉祥寺シアターサイズの大きな劇場では、セットに高低差を作っている。
これの使い方が非常に上手い。
人の出し入れが左右、上下、さらに前後と立体的で、効果も上がっている。

登場する役者さんたちはどの人も良かったのだが、特にお手伝いさん役の大西玲子さんが印象に残る。
彼女は幼児からネコ(笑)まで演じる女優さんだが、今回は彼女の上手さが滲み出ていた。

彼女の腰の据わり方がいいのだ。そこから見えるのは、この一家への愛情。
全体が浮き足立つようなシーンの中にあっても、しっかりと腰を据えて立っている。
そのことが作品全体にも効いているのではないだろうか。
歳を重ねるごとに、さらに深みを増して良くなっていく役者さんではないかと感じた。
今後が期待される。

あと、やっぱり「歌」。
青☆組の「歌」のシーンはいつもグッとくる。楽しいシーンであってもグッときてしまう。

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2位に投票

初日の開演1時間半前には劇場に。全席指定席だからそんなに早く行く必要はないのだが、逸る心が抑えきれなかったのだ。

「グランパ」という言葉で私がすぐに思い出すのは、石原さとみのデビュー作である「わたしのグランパ」。03年の映画で、筒井康隆の原作、菅原文太がグランパ役だった。この映画で石原を観て、これはいい女優になるなぁと思ったものだったが、その予感は間違っていなかった。
そういえば青☆組の土屋杏文(この下の名前をなかなか読めなかったのだが、「つちや・あずみ」と読むらしい)も青☆組加入後の最初の舞台は青☆組ではなく、おおのの「さよなら、先生」(16年4月)だったのだが、その時にも「これはいい女優になるな」と直感し、たまたま客席におられた藤川修二さんに終演後に「青☆組、楽しみな女優が入りましたね」とお声をかけたことを思い出す。

客席に入り、セットの全景を見て、先日のけいこ場見学(チケット早期予約者の中から抽選での特典)の時の床にテープで示されていた配置図とホワイトボードの図面を思い出しながら、「なるほどこうなるのか…」と納得。上手に洋間、下手に和室とそれを取り囲む廊下、中央やや上手寄りに2階に続く階段(途中に小さな踊り場が)がある。

戦前から続く工業所を営む一家の昭和44年とそれを遡る33年の物語。

開演5分前に貴子(福寿奈央)が登場、家のそこかしこに残る思い出を懐かしむようにゆっくりと見て回る中を、作・演出である吉田小夏による前説。この小夏さんの前説の時の声が本当にいい。毎回この声を聴くと心が和むのを感じる(笑)。上演時間135分。

舞台は貴子の母親であるりつの初盆。遅れてやって来た貴子の二人の娘・ともえと幸子の前に女中の和子は押入れの天袋の中から見つけたといって天体望遠鏡を持ってくる。やがてその部屋に一人になったともえはその天体望遠鏡をのぞき込む。と、その後ろにグランパと祖母、そして居候だった鼓太郎が運転手姿で現れる。鼓太郎の「茄子の牛の牛車(のアイドリングに)は時間がかかる」という台詞に思わずニンマリ(最近の若い人は“茄子の牛”と聞いてもピンとこないかもしれない…)。そして舞台は11年前に…。 

さて、この冒頭の場面でアポロ11号の月着陸が話題になっているが、アームストロング船長が月面に「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍」である人類初の足跡を付けたのは日本時間で昭和44年(1969年)7月21日正午ちょっと前で、その日が月曜日だったことも鮮明に覚えている。夏休みに入っていたものの、当時中学生だった私は図書委員の仕事で登校せねばならなかったのだが、早めに切り上げて、胸躍らせながら帰宅してTVにかじりついたものだった。西山千さんの同時通訳が印象に残っている。 

昭和33年。工業所の社長である加納盛(グランパ)の存在は絶対的なものだったが、好人物でもあり、誰からも慕われていた。同居する娘夫婦の夫・次郎は完全な亭主関白でなにかと口うるさく妻・貴子を叱りつけている。その反動でもないのだろうが、貴子は娘たちに厳しく、娘たちは女中の和子に慰められている。次女の幸子は風邪をこじらせていたかと思っていたら実は結核で、療養所に隔離されてしまう。この家の敷地内には工業所従業員の独身寮もあって、従業員たちも始終この家に出入りしている。ここに盛が建設中の東京電波塔(東京タワー)の工事に携わっている小林を下宿させるために連れてくる…。
これらがともえの視点で描かれていくのだが、群像劇としての厚みも加わり、観応えがある。 

盛や次郎の帰宅を土下座して迎える様など現在からみれば多少オーバーに思えるかもしれない(私の家でもさすがにそこまではなかった)が、当時は家長はそれくらい大きな存在だったのだ。
従業員の独身寮が敷地内で一緒になっているほど大きな家で女中もいるのに、風呂は銭湯に行くというのも、懐かしさを覚える(江戸末期には大店の商家でも内風呂を持つようになったものの、本格的な内風呂の普及は第二次世界大戦以降の高度成長期になってからなのだ)。無論、私のように小さな家で少年期を過ごした(今もだが…)者にとっては、銭湯はごく当たり前のことだった。銭湯にはちゃんと湯桶が置かれているのに、行くときに自前の桶や洗面器に石鹸箱などを入れて持って行ったのも、今考えるとちょっと変なのだが、それが普通だった(かぐや姫が歌う「神田川」の中で♪小さな石鹸 カタカタ鳴った♪というのは、きっと洗面器の中で石鹸箱が音を立てているのだ)。 

いかん、いかん。こんな自分の子供時代に重なる作品を観ると、ついつい懐旧談が長くなってしまう。これも歳をとった証拠…。 

妻に口うるさい次郎が実は心の奥では妻を思っていたことが、終盤になって明らかになるのだが、そのきっかけが、劇中で何度も流れていた唱歌「冬景色」。この選曲も実にいい。この曲を口ずさんでいた妻のことを次郎が懐かしむのが終戦直後の南洋だけにその歌詞が一層際立つ。
そして、この終盤で、劇中のそこかしこに見えていた戦後10年以上経ってもまだ癒されぬ影がくっきりと浮かび上がる。こうした作劇は声高に戦争反対を叫ぶよりもずっと戦争のもたらす悲しさを訴えてくる。見事という他はない。 

今回の舞台で面白かったのは役者陣で思いもかけない姿が見れること。どちらかといえば無機質な感じを与える小瀧万梨子がコミカルな演技を見せたり、竜史(20歳の国)のニッカボッカ姿なんてのもちょっと他では見れないだろう(因みに私がニッカボッカという名前を知ったのは大学に入ってワンダーフォーゲルに入部してから。こう見えて山男だったのダ。10年ほど前までは毎年北アルプスで登山道の整備などのボランティア活動もやっていた…)。
鼓太郎を演じる藤川修二も軽妙ながらもその人生を感じさせる演技をみせる。
そして、序盤では幸子を、その後の昭和33年の部分では母親・貴子を演じた土屋杏文…本当に上手くなった。20代半ばである彼女から昭和の女性らしい雰囲気が滲み出すのも驚きだ。 

すぐに影響をうけるワタクシ、観劇後にレモン水を飲みたくなったのだが、劇場を出ると寒かったので帰宅後レモン湯を飲んで(いい子なので)早々に就寝…(笑)。

zeezozeezo(1328)

2位に投票

物語にドラマチックな展開があったりすることはないのですが、心に残る本作。
その時代の世相や光と影をさりげなく描き出し、惹き付けて離さない脚本力は本当に素晴らしく吉田小夏さんの才能を改めて感じた作品です。

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