モーツァルト! 公演情報 東宝「モーツァルト!」の観てきた!クチコミとコメント

  • 小学生以来
    脚本家M.Kunzeと作曲家S.Levayのコンビは僕の中で不動の地位である。「モーツァルト!」も大好きなミュージカル。小学生の頃に観て以来だが、CDをダブルキャストの両方持っていて、ほとんどの曲を歌詞も曲調もソラで歌えるほど聴き込んでいる。

    ヴォルフガング役の井上芳雄はさすがに安定感が素晴らしい。初演CDでは所々危うかったのが、何度もの再演を経て完全に地に足の立った心地よい歌声を聴かせてくれるようになった。
    妻コンスタンツェ役の島袋寛子(SPEED)は目立つことこそないものの、安心して観られた。
    姉ナンネール(高橋由美子)の調子がいまいち優れない。綺麗な歌声ではあるが以前はもっと伸びがあった。
    大司教コロレド(山口祐一郎)は相変わらず歌い上げてくださる。山口さんはこの役やってるときが一番不自然じゃない気がする(まあ結局何やってても同じなんだけど)。

    今回特筆すべきは、父レオポルト役の市村正親だろう。役作りが変化していた。父親の役柄上、市村さんご自身が子供を授かったことが大きく関係しているはず。
    以前は息子に厳しく辛く当たる印象の強かったレオポルトが、息子への愛情に満ち溢れているのが見て取れた。息子の幸せを考えるゆえに、心ならずも息子と仲違いしていくレオポルト。その際に見せる、これ以上ないほど寂しげな彼の背中は、だからこそ観客の胸を強く打つ。
    一転、カーテンコールでの市村さんはステップを踏みながら飛び出してきた。思わず吹き出してしまうほどに陽気な姿であった。

    小池修一郎の演出について。床下に描かれた五線譜、舞台上に踊る幾つもの音符が良い。音楽の中での物語と感じさせる。
    ただしここが小池演出の良さだと特筆出来る点がない。またビジュアル面で「このシーンは美しい!」と感じることがない。大劇場だから可能な美術は必ずあるはずである。
    もう一押し舞台セットを豪華に立て込んで、美術としての綺麗さがあれば文句ないのだが。背後に浮かぶ風景の映像演出は余分ではないものの、プラスにも働かない。抽象の演出は小池さんに向かないのではないか。
    初演から続く演出から、そろそろ新演出を打ち出してほしい。山田和也は絶対嫌だけど。

    ネタバレBOX

    この作品において、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは二人一役である。神童と呼ばれた頃からの天性の才能を子役アマデが具現化し、対して青年としての苦悩や喜びを知っていくのが主演ヴォルフガング役だ。アマデは常にヴォルフと共に存在し、曲を書き続ける。一方ヴォルフは破天荒を生きる。

    次第にあまりにも大きすぎる才能が、一人の人間の器を超過していく。それはモーツァルトの身の破滅を意味することになる。一幕終わりで「影を逃れて」を歌いながら、ヴォルフはアマデに羽根ペンで腕を刺される。アマデは表情一つ崩すことなく、ヴォルフの腕の血を使って曲を書き始める。

    ヴォルフは自分の影であり、同時に過去の栄光である才能アマデから逃れることを望み、「お前すらいなければ」と己の運命を呪う。しかしアマデもまたヴォルフ自身なのだ。引き裂けるものではない。父の与える幸せを捨て自由を勝ち取った今、ヴォルフは自分の足で歩くしかない。青年期からの脱出である。

    二幕終盤、父の亡霊からレクイエム作曲を頼まれて、初めてヴォルフ自らがペンを持ちピアノへと向かうが、結局曲を完成させることは出来ない。アマデが作曲するために必要なヴォルフの血は最早残っていないからだ。最後の手段として残った、未だ血の通っている心臓に羽根ペンを突き刺して、彼は死ぬ。

    芸術家は己の苦悩よりも先行する社会や世界の苦悩を背負い、芸術に昇華して表出する。モーツァルトやシューベルトのように若い頃にその全てを費やして身を破滅させる人もいれば、ベートーベンのように積み重ねていく人もいる。共通するのは常人には計り知れない才能と、才能を支える人間としての器だ。

    ミュージカル「モーツァルト!」は才能と人間を二人一役で表した。一方は歌い踊り悩み恋する奔放な青年。また一方は一言も台詞がなく、表情の変化もまるでない子供。モーツァルトを演じるために完全に正反対の二人の姿形を使った。正にここにこの作品の偉大さがあると思う。

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    2010/12/22 01:32

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