幽霊 公演情報 ハツビロコウ「幽霊」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★★

    開演前の舞台下手奥、壁に1枚の鏡、机がひとつ。
    その机に向かって1人の男が座っている。
    微動だにしないその後ろ姿を見ていると、彼こそが幽霊なのかと思ってしまう。
    やがてこの屋敷に棲みついて人々の人生を狂わせていく幽霊の正体が視えてくる・・・。

    ネタバレBOX

    北欧の名家アルヴィング家の一室。亡き夫の名を冠した孤児院の開所式を明日に控え、
    夫人と牧師マンデルスが打合せをしている。
    画家修行のためパリに滞在していた息子オスヴァルも帰って来ている。
    屋敷の使用人レギーネは、孤児院の建設にも関った大工エングストランの娘だが、
    父親が計画している新しい事業を手伝う気は毛頭ない。
    牧師マンデルスが、相変わらず伝統的な倫理観に固執して夫人の人生を否定した時、
    アルヴィング夫人は真実を白日の下に晒す決意をする。

    すなわち
    亡くなった夫は、人々が信じていた名士などではなく、放蕩の限りを尽くしていたこと、
    かつて一度だけ夫を捨ててマンデルス牧師の元へ逃げて来たアルヴィング夫人を、
    牧師は諫めて家へ帰したが、その後も放蕩は収まらず偽りの結婚生活を続けたこと、
    亡き夫は使用人の女性に手を出して子どもを産ませ、その子がレギーネであること、
    夫の放蕩と業病から7歳の息子を遠ざけるためにパリへ行かせたこと・・・。
    これら積年の恨みを上辺しか見ないマンデルス牧師に一気にぶちまける。

    おまけに自らも業病を患ってしまったオスヴァルは、血のつながりがあるとは知らず
    レギーネに手を出そうとしている始末。

    この期に及んでマンデルス牧師の「息子は父親を尊敬するべき、妻は夫を支えるべき、画家
    など諦めてまともな仕事をするべき、娘は父親を助けるべき、云々」という形式的な倫理観は
    滑稽なほど説得力がない。
    当時の人々の暮らしが宗教と古い価値観の中にあって、がんじがらめだったことがわかる。
    アルヴィング夫人に行動を決意させたものは、人生の半分を偽善に費やした悔しさと、マンデルス牧師に対する失望、息子の人生をも狂わせてしまった後悔の念だと思う。
    まさに、死んだはずの「幽霊」に憑りつかれて道を誤ったのだと思わざるを得ない。

    一方真実を知って、それならと前へ進もうとするのは若いレギーネだ。
    医師からもう長くないと告げられて絶望の淵にあるオスヴァルが、最後にすがったのが
    レギーネの愛情だったが、「こんな田舎で病人の面倒を見るつもりはない」と素晴らしい一撃で屋敷を出て行く。野心も金銭欲も旺盛で牧師様の言うことなど歯牙にもかけない言動には
    爽快感すら覚える。

    アルヴィング夫人は古い因習に真っ向から立ち向かった。
    敵だらけの中、正攻法でぶつかったので傷も喪った物も大きかった。
    これに対してしたたかなのは大工のエングストランだ。
    常に利害を見て姑息に立ち回る彼は、開所式前日に孤児院が全焼してしまうという事件を
    得て、出火の原因を”牧師がミサの火をちゃんと消さなかったからだ”と指摘する。
    身に覚えがないまま自信を失って「牧師の資格をはく奪されるかもしれない」と意気消沈する
    牧師に、私がお助けいたします、と言葉巧みに自身の事業用寄付金集めの片棒を担がせる。
    日頃のご立派な説教はどこへやら、ホイホイそれに乗っかる牧師の情けない倫理観。

    「太陽、太陽」と力なく呟いて意識が遠のいていく哀れな”依存心の塊息子”に、モルヒネを
    託されて苦悩するアルヴィング夫人・・・。

    物語はここで終わるのだが、一人ぽっちになったアルヴィング夫人はどうするのだろう。
    息子も、使用人も、かつて心を寄せた牧師も、皆行ってしまった・・・。
    これほどの代償を払わなければ、人は幽霊から脱却することが出来ないのか。

    レギーネ やエングストランのように、庶民の方はとうの昔に幽霊から脱却している。
    牧師の説教より日々の生活が優先されるのだから。
    たぶんアルヴィング夫人はわが子にモルヒネを投与するだろう。
    そしてひとりで初めての自由をかみしめるだろう。
    孤独ならとっくに連れ添っている。
    その表情は清々しく、昂然と顔を上げて生きていくのだと思う。

    アルヴィング夫人役の千賀由紀子さん、ダメ夫に代わって事業を成功させるほどの頭脳と
    強い意思を持つ女性を、くっきりした口跡と声で魅力的に演じて素晴らしかった。
    エングストラン役の高田賢一さん、下手に出ながら牧師様をも操る卑しさとたくましさの両面を持つ、庶民のリアルさに惹きこまれた。
    コンパクトになったこの「幽霊」は、私たちの今と見事に重なる普遍性を抽出して見せた。
    イプセンが140年前に書いた物語は、現代と何ら変わらない様相を呈している。
    タブーに切り込めば説教されて、伝統を押し付けられて、異端児扱いされる。
    今イプセンが生きていたら、どんな賛否両論を巻き起こす作品を書くだろう。
    ただ、現代ならば多くの劇場がこぞって上演したがるはずだ。中でもハツビロコウは。
    そう願って止まない。

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    2025/03/29 12:14

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