ごはんが炊けるまで(仮) 公演情報 演劇企画アクタージュ「ごはんが炊けるまで(仮)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 実演鑑賞

    満足度★★★★

    コロナ禍を経て ますます無関心・不寛容になったように思うが、本公演はそんな世態を逆手に取ったような家族の物語を描いている。説明にもあるが、「その家族には何か違和感が…」という、一般的な家族とは違うことを示唆している。この家族、そこにいる人々には何か事情があるようだが、その背景を深堀しない。その緩い繋がりこそが物語の核心であり現実の世態とリアルに結びつく。人とは関わっていたい、しかし深い付き合いはしたくない、といった心情が透けて見える。オーソドックスのような物語だが、そこに演劇らしい奇知を仕込んで観(魅)せる。観劇歴が浅い人でも楽しめる、まさに演劇らしいお手本のような公演である。

    家族の一人ひとりが抱えている問題なり悩み、その多様な提起の一つ一つが観客の共感・反感や違和感を誘う。小説における中間小説的な印象だ。勿論 小説のそれとは違い、いわゆる現実でもないが非現実とも言い切れない。そういう意味では、従来型の物語ではなく、かと言って突拍子もない物語でもない。演劇の醍醐味は、虚構の世界へ誘い込まれ堪能出来るかどうか。この公演は、「家族とは」という普遍的な問いを少し違った観点から切り取っている。家族という現実を描いているが、疑似家族という非現実=虚構の世界を紡いでいる。
    (上演時間1時間35分 休憩なし)【茶わんチーム】

    ネタバレBOX

    舞台美術は、実に細かに造りこんでいる。出演者総出で作業したらしい。この疑似家族=磯部家の居間。十畳の畳、中央奥に襖戸、その上には欄間。上手に茶箪笥や電話台、中央に大きな座卓、下手は襖押し入れと床の間、そこに掛け軸と置物。いつでも住めそうな空間を作り出している。上手の鴨居の上に3枚の色紙。そこには「結婚後は出ていくこと」「己の器を持つべし(属人器の意)」「兄姉は名前のみで呼ぶべからず」という家訓めいたものが掛けてある。因みに 色紙の言葉の意味は劇中で語られる。

    結婚を考え始めたカップルの直人と結。結婚すれば、その家族との付き合いも生じる。なんと直人が紹介した家族は、役割分担を持った疑似家族である。
    長男役 智陽は、子供の頃 鍵っ子で食事も一人、結婚して家庭を持ったが 子供が生まれ食事もバラバラになった。その寂しさから離婚したことにして、疑似家族の元へ帰ってきた。長女役 実里は、同性愛者で親に認めてもらえず実家を飛び出して、以来帰っていない。末っ子役 杏は、実の家族では長女で、いつもお姉ちゃんだから と言われ我慢してきた。その反動で疑似家族の中では我儘言い放題の末っ子を演じている。そして直人は、母親が過干渉で何事にも口を出す。そして新たに妹役の恵美が来ることに…。それぞれの事情や問題が触れられるがあまり深堀しない。人にはいろいろな事情があり、それを言いたくない人もいる。同時に演劇的には、その余白のようなものが観客の想像力を刺激する。少し分かり難いのが、どうして独立した人間同士の共同体空間、いわゆるシェアハウスにしなかったのか。

    物語は、この家族以外の人間が現れたことによって、その疑似の姿がだんだんと明らかになる。まず 長男役の妻 佳澄が、智陽の浮気を疑いこの家に乗り込んでくる。次に 隣家の詩織、いつも疑似家族のもとでブラブラしている。実は父親が事故で要介助状態になり、母親だけでは心配で 何か事が起きたら直ぐ行けるように待機している。口で説明されても直ぐに納得は出来ない。そこで 疑似家族ならではの家族団欒を味わうため、夕食を共にすることに、それが「ごはんが炊けるまで(仮)」。ドタバタした1日の出来事を締め括るに相応しいラストシーン…大団円へ。

    結の両親は生まれつきの障碍者であり、その環境下での暮らしが当たり前だと思っていたが、友達から「結の家族は普通ではない」と言われ傷つく。結は自分という<通訳>を通じて<普通>に暮らしてきた。家族の在り方、多様性が浮き彫りになる。こちらの家族を主体に描いたならば、また違った問題点を炙り出した舞台になるだろう。出来れば そんな舞台も観てみたい。

    舞台技術…音楽は、場転換の暗転時に流れるだけで 敢えて抑えて会話劇を生かしているよう。照明は、その諧調が少なく 印象にない。あるとすれば、結が心情を激白する際、スポットライトで彼女の心情を効果的に際立たせているところ。なお、茶わんチームと湯のみチームでは、結の立ち位置が逆で、照明の照射も違う。
    次回公演も楽しみにしております。

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    2025/02/03 14:13

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