実演鑑賞
ユニット名は初めてでなく、確か「何か」あったな、というだけで足を運んだのだったが、もう7、8年前になるが一度見たら忘れない「ひょっとして乱で舞ー」なるタイトルの公演を打った所だとは後で気づいた。ひょっとこ乱舞(現アマヤドリ)を模したタイトルを見ておいおいパロるなら少なくとも十倍は知られた名前でなきゃパロってる事自体分からん人が大半じゃね?と突っ込ませて記憶に残させる技に嵌ったという訳である。でこの芝居を観たのかどうかというと、調べてみてもどうやら観ていない。仄かな記憶はこの舞台には知った人が出ていて、上演していた時に同じ下北沢でその俳優と出くわし、挨拶をした事。自分はその舞台を観ずに別の公演を観ており、その俳優に同道していた年輩の演出家がその芝居のプロデューサーの事を知っていて下の名前を呼んでいた・・とまでを書きながら思い出した。
言ってみればその程度の「縁」であった。
という事で、さて芝居の方であるが、不眠がたたって冒頭と終盤を除いた中盤を(頑張って起きようとは勿論したが)ごっそり見逃した。そこで台本を買って帰ったのだが、眠ってしまったのがあながち体調不良のせいばかりとは言えない「分からなさ」に満ちている。出演者の関係性までは明確だが各人と各人同士のエピソードが「書き切れてない」というより「詰め切れてない」印象で、対立もあるがそれより同意と共感に帰結する事が多い。分かり合った事にすれば、当人同士そうなんだから「ああそうなんだ」でそれ以上突っ込めない。寄り添う心と、突き放す心は紙一重で、忍耐が尽きれば霧散してしまいそうな関係が多いように感じる。それは、対立とは自分のこだわり(生きる事、どう生きるかとう事、何を得たいかという事等々)が相手の存在と齟齬を来たす事で生じる、という事は相手は必要な存在としてある、という前提がある。その対立がどう克服されたのかが、むしろ重要で、その部分が(どの組合せの人間関係にも)決定的に弱い、というのが一番大きな感想だ。
和解や融合が結末となると、それまでの苦い経過が報われる、という構図が作れるが、良い結末を先取りして後付けで苦い経過が織り込まれている、という順序な気がしてしまう。もし時系列に、ある問題が生じていて、そこに相手がそれほど寛容な人間でなかったり、自分の事で汲々としている状況があったりすれば(という事は社会状況がもっと厳しくなれば、という要素を含むが)、成立しない和解や融合である。どんな状況にも関わらず相手を思い続けて行く、という境地に至ることは、それ自体至宝なことで、即ち「なぜそうなれたのか」が重要なのであり、「そうなれた」という結末は言わばどうでも良いのである。
エピソードの切り取りも断片的で、もう少し練り込みがあって良い気がする。上述の事に通じるかもだが、観客が抱いた興味をある程度満足させるまでの「語り」を人物にさせてほしい。「共感したい」が観客の本性。