幸せを踏みにじる幸せ【公演終了!ご来場誠にありがとうございました】 公演情報 ジェットラグ「幸せを踏みにじる幸せ【公演終了!ご来場誠にありがとうございました】」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    今日みたく雨ならきっと泣けてた
    「ひとごとじゃない、演劇」ということを考えた。「舞台上にいる俳優は"わたし"ではない」という演劇の大前提を使いながら「でも"わたし"かもしれない」という気持ちを想起させることは難しい。玉置さんという、つよくうつくしく鍛えられた身体に裏打ちされた精神性を持つ俳優でなければ、観客にそれを伝えることはできないのかもしれない。

    しにたい、って思う気持ちが幻なら、生きたい、って思うことも幻だろう。でも幻だって、思いこんで触って愛していけば現実になるかもしれないし、触って愛して、大事にできるもののことを、わたしたちは現実と定義するのだ。だからわたしは、まだ生きるのだ。

    ネタバレBOX

    玉置さんがしんでしまう、という物語の終わりから始まることで、わたしたちは観客として物語の外に置かれる。しかし、まるでそれは巧妙な罠であったかのように、いろんな方法で演劇世界にひきずりこまれてしまった。

    山小屋のシーンでは、連合赤軍の山岳ベース事件を思い出して、うっとなったりもした。それは俳優を通してわたしたちに与えられた疑似的な暴力体験だった。スクリーンや液晶画面ではありえない、舞台上で"今"ふるわれている暴力には、否応無しにわたしたちの感覚をさらう力がある。

    そしてそれは、音楽を通しても、行われていたのではないかと思うのだ。普通、芝居では、客がよく知ってそうな曲というのは音響で使わない。観客個人の思い出にリンクしていた場合、世界観の邪魔になったりするから。でも全編で流れていたCoccoは、10年くらい前に少女だったわたし(同じく少年だった谷賢一さん)の、ふくれあがった思春期の鬱屈、不幸感を、呼び起こしてくれた。死、は、やっぱり究極の個人的な状態だから、こうやってわざとかきむしるようなことやらないと、描けないんだと思う。

    客出しで流れた「さんぽ」で、涙がこぼれてしまった。
    大人になると、こういう明るさこそ、悲しい。

    あと、余談かもしれないけど、これタイトルとテーマを決めて台本書き始めたあとに、物語が一人歩きを始めたんじゃないかな。だからもともと目指してたところと違う場所(※物語の最初と最後の整合性の話ではない)に着地したような印象を受けたけど、そういうのって作家にとっては幸せなことだと思う。他の観客がどう思うかは知らないけれど、すくなくともわたしは。

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    2010/05/29 22:49

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