倶楽部 公演情報 Rotten Romance「倶楽部」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    ノイジーな意識、身体性のハードコア。
    これは、あまりにもショッキングである。舞台にあるものすべてがメタ化されているのである。人が人であって、人でないのである。身体で描くイメージの連続なのである。それに加えて、起承転結のメリハリや、物語の着地点も見当たらないのだから、どうしたって混乱するわけだ。しかしながら、舞台から発せられるエネルギー量は尋常ではなかったし、よく理解出来てもいないのに、心動かされる何かがあった。

    素粒子となって中空を漂いながら、街を俯瞰するジャンキーな戯れに呑み込まれているような。渋谷駅前のスクランブル交差点のど真ん中につっ立ってざわざわと通り過ぎていく匿名の人々や否応なく耳から入ってくる匿名の声や、足音、大型テレビモニターに映し出される情報なんかを、ただじっと眺めているような。上手く言えないがそんな感じだ。

    何でもあるのに何にもない街、シブヤを美化せずに具象化した、アッパーでニヒルなリアリズムに満ちた舞台であった。

    ネタバレBOX

    まず会場に一歩足を踏み入れて唖然とする。
    壁には、無数の新聞紙が無造作に貼られており舞台には、これまたおびただしい数の洋服が雑然と敷き詰められている。なかには”渋いたにまに”なんてよくわからない暗号のような紙も混じっていて、客席の下にまで散らばっている。(このラディカルな舞台美術を目に焼き付けるだけでも、価値のある公演だと言えよう。)
    そこに死んでるように動かないものがみっつ、いる。表情はうかがい知れないがそれはまるで、情報の渦の中に個が埋もれてしまっているのっぺらぼうで。惑星が衝突するかのような音が鳴り響き、実体が立ち上がる。


    冒頭で交わされる短い会話。
    3人は、昨晩、渋谷のクラブ(倶楽部)で遊んだ。
    宇田川町の小学校で教師をしている地球人は、冥王星まで旅行に行ってきた。
    漁業が盛んな星で暮らす水星人は地球に来る時、肺呼吸に変換する装置を耳につける。
    林業が盛んな星で暮らす木星人はジェット噴射で地球にやってきた・・・。

    彼らの指先にはICチップが埋め込まれていて、互いの指先と指先が触れ合うことによって情報を交換し合うことが出来る。また、彼らのいる世界では、スモールライトや、ドコデモドアが市場に流通されているらしい。
    そして四次元装置を2台使って人間が重力を自在に操り、惑星間をワープ出来る、我々現代人が憧れる夢のような世界なのである。
    しかしながら、人が地球以外の惑星に住むことをはじめた時代にあっても、
    人間のコミュニケーション能力が現代から進化していないように見てとれる。
    それぞれが違う星に住んでいることに起因しているのか定かではないが、
    ステディな友だちと言えるほど親密な関係でもないらしく、会話や関係性は、思いのほか発展しない。
    言語が”ノイズ”として作用しているからだろうか。
    はたまたコミュニケーションの手段が言語ではなくなっているのか。
    その辺はよくわからないが会話は途切れ、存在は意のままに変化する。

    時は変わって、白昼の渋谷のスクランブル交差点。人がすれ違っているイメージ。ヘッドフォンチルドレン。足音。雑踏に垂れ流される大量消費されるポップソング。街頭テレビの広告塔。109。などを身体を用いて表現される、視覚化されたノイズの群れ。

    そして夜行性が騒ぎ出す。夜の速度はもの凄い。
    天井でせわしなく動き回るスポットライト、終わりなく回り続けるミラーボールの具象。ダンスフロアで踊り狂う人々の表象。突拍子もなく執り行われる、メタ化された性行為と特殊性癖嗜好者。徒党を組む謎の集団。”自由”と吐き捨てて息絶える時代のアイコン。混濁するイメージの祭典。モザイク化する、エレクトリックシティー。果てしなく続く、ディスコミュニケーション。すべての事象の輪郭が浮き上がり、夜明けと共に消えていく・・・。

    やげて立ち上がる、ひとつの自意識。記号として配置される奇妙な刺青を入れている男のモノローグ。
    「テレビを見る芝居をする練習をしているんです。」
    ひと気のない渋谷のスクランブル交差点のモノクロームの映像が流れるテレビ画面を凝視するその男は、観客に真っ向から背を向けて何度も何度もそう繰り返す。これは、役を演じる俳優が演劇というドラマから遠ざかる実像と、俳優でない自分自身でいるための虚像を演劇的な空間を保持しながらリアルなドキュメントとして同時に重ね合わせているように受け取れた。

    心ここにあらず。とでも言うような、ドライで病んでる魂が、落ち着きなく中空を彷徨っている浮遊感や、何かの終わりが始まるまで続いていくサイケデリックな喧騒や珍妙な人々、相対性理論・・・。
    もしもこの舞台を映像化したら、デヴィット・リンチの「ロスト・ハイウェイ」のようなカルト映画になるんじゃないかしらん。なんて思ってみたり。彼らがこれからどんな『手荒なまね』をして、演劇的既成概念を突破しようとしているのか予測不可能だけど、それはとても意義のある試みではないだろうか、と思う。

    最後にいくつか気になった点を記しておきます。
    渋谷の街の喧騒をザッピングするのが今回の主題なのかもしれないが、
    もしも倶楽部が、何らかのシグナルを受信する場所だとするならば、少しパンチが弱かったような気がします。
    多分、倶楽部が人が集まって散っていく場所のままだったからかもしれない。それを意図しているなら、成功したと言えると思うのですが・・・。
    あと、時々登場したストリート系の格好をした若者がいたけど、あれは一体何だったのだろう。ストーリーのキーパーソン的な役割になっていたら、また違った見え方になっていたかも。
    でも、倶楽部を取りまくヒトや街の描写は新鮮で目を見張るものがあったし、
    ラブ・サイケデリコのBGMを使ったアクトは若者のリアルな日常のイメージを持たせるのに印象的だった。
    全体的に荒削りだった感じもするけど、空間の使い方も無駄がなくてよかったし、何よりこんなにも濃密な時間を体験したのは久しぶりだったので、満足度は高いです。

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    2009/12/04 23:52

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