フォト・ロマンス(ラビア・ムルエ、リナ・サーネー) 公演情報 フェスティバル/トーキョー実行委員会「フォト・ロマンス(ラビア・ムルエ、リナ・サーネー)」の観てきた!クチコミとコメント

  • まだまだ混乱している・・・
    イタリア映画「特別な一日」をパロディにした映画を制作しているアーティストが検閲官にプレゼンをする。ただそれだけなのに事態はあまりにも複雑で・・・。それに自分の知識が乏し過ぎたため、すべての内容を理解できたとは到底思えないけれど、フォト・ロマンスから何かしら手がかりを見つけ出したいと思っている。

    ネタバレBOX

    舞台はべルイート。
    レバノンの2大勢力である親シリア派(3月8日勢力)と反シリア派(3月14日勢力)の同時デモが開催される日。
    その様子は、テレビ中継されている。
    軍隊が出動し、有刺鉄線が張り巡らされ、街はものものしい雰囲気だ。

    リナは離婚した主婦で、今は両親の家で暮らしている。
    そこには兄弟、兄弟の嫁、その子供たちなど大勢のひとたちがいて、彼らは皆、学校やデモに出払っていていない。
    リナは家事をしなければならないため、一人で家に居る。
    頭を抱えうんざりする彼女は、ひとまず飼い猫を柵から出し、エサをあげる。
    すると猫がジャンプし宙を舞い、部屋から逃げ出してしまう・・・。

    猫が逃げた先は、かつて左翼系新聞記者であったひとりの男の部屋。
    彼はラビアと言い、イスラエル軍によって8年間拘束されていたらしい。
    猫をきっかけに彼らは心を通わせ、その一日が終るまでを描く。

    という、イタリアの名画「特別な一日」をパロディにした新作映画を制作した
    リナ・サーネーが検閲官であるラビア・ムルエに、プレゼンしていくという内容で、このドラマは、オフレコにすれば、リナとムルエが互いにアイデアを出し合って、ディスカッションしているような印象すらもたらすようにも思われるのだが、そこに検閲官とアーティストという役柄を与えられることによって。また、その役柄を本名で演じることによってリアルとフィクションの境界線がより曖昧なことにされている。

    劇中で流れる映画は、モノクロ写真を連続し映す手法「フォトロマン」を用いていて、ビデオカメラで撮影した動画を静止させたものを繋ぎ合わせたものと、リナのナレーションのみで構成される。画面はグレーと白の淡いコントラストで、リナの真っ赤に染められたソバージュの髪と、冒頭の、レバノンの国旗と背景の青空、デモのニュース映像だけがオールカラーであり、このふたつの画は非常に重要な意味合いがあると受け取れる。
    冒頭の風にはためくレバノンの国旗は、今だレバノン国内に蔓延する精神的ナチズムをアイロニカルにうつし出し、デモの映像は、レバノンの社会情勢を剥き出しに提示する。そして、リナの真っ赤な髪の毛は彼女なりの自己表現であり、女性の社会的地位に対するささやかな抵抗のようにも見える。

    そのアリバイは、リナの兄弟、嫁や姪など様々なリナの家族が朝支度をするワンシーンで証明される。リナの家族はひとつの集団と捉えられ、その意見は皆同じではあるが、個の意見が反映されているものではない。
    と考えられることから、彼女の家族は誰ひとりとして生身の姿を現わさない。
    個人が一個人としての意見を持った時にはじめて登場人物としての焦点が合うのだ。

    やがて、偶然出会ったふたりが他愛ない会話を交わすが、「特別な一日」で描かれるようなロマンス的な要素はあまりなく、至ってプラトニックなのである。それは、レバノンの社会情勢があまりにも深刻過ぎて、恋愛どころの話ではない。とも受け取れるし、男性が同性愛者なのかもしれないし、レバノンという国が、ロマンス的な表現を規制しているからなのかもしれない。

    フォト・ロマンスはこのように、断定できない曖昧な要素が多数出てくるが、解決されないまま置き去りにされる。その兆候は、ラストに近づくにつれ濃厚となり、ついには映画のラストはふたつから選択できるという苦し紛れの運びとなる。何としてでも検閲を突破したいアーティスト、リナの焦りは深刻であるはずなのに非常にコミカルで、不謹慎ながら思わずクスリと笑ってしまった。

    この作品を完全に理解するにはまだまだ知識が足りないと痛感した次第であるのだが、イタリアの名画「特別な一日」をベースに用いることにより逆説的に
    この世にオリジナリティは存在するのか。という恒久的な問いを投げかけ、また同胞の気持ちに寄り添うように、体制に対し静かに意を投げかける。彼らはひょっとすると演劇を、多くの人々が社会を考えるためのヒントを与える機会だと考えているのかもしれない。その真剣な姿勢は、レバノンから遠く離れたわたしたち日本人の心にも言葉や国境の壁を超えて、伝わってきた。レバノンのことについて、まだまだわからないことだらけだけれど、色々と知りたいと思った。

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    2009/11/30 22:49

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  • Hell-seeさん

    >この映画で描かれていることって何だか40年くらい前の日本で行われていたことに何となく似ているような気がするんですよね・・・。

    言われてみれば、確かにそうかもしれませんね。考えたこともありませんでした。

    >このフォト・ロマンスはノスタルジー的な要素もあるのかなぁ、と何となくこの頃は思っています。

    これもそうですね。元の映画が古い名作ということもありますが、「ロマンス」という言葉自体、「ロマンス」という存在自体が今や「ノスタルジー」なのかもしれませんね(笑)。

    >特にループするギターが程良く脳内をトリップさせられて

    「観てきた」に書きましたが、ループのギターがフランスのギタリスト、リシャール・ピナスになんとなく似ているんです。レバノンを統治していたこともありましたし、今も関係が深いフランスの音楽ですから、影響を受けているのかなと思ったりしました。
    私は、ギターだけでなく、鍵盤ハーモニカ(いわゆるピアニカ)の音色もいいなと思いました。

    2009/12/20 04:56

    アキラ様

    度々のコメント、ありがとうございます。
    お返事が遅くなってしまい、大変申し訳ありません。

    バタフライ・エフェクト的な解釈。非常に分かりやすかったです。
    自分が変われば世界が変わる、と言われると何だか説教くさくて気が引けますが、
    美しいものに例えられると、希望さえ抱けるような気にもなったりします・・・。

    余談ですが、この映画で描かれていることって何だか40年くらい前の日本で行われていたことに何となく似ているような気がするんですよね・・・。
    映画の最後でリナが都市の大学に行く。という決意はウーマンリブ運動がさかんに行われた時代にスライドして考えられますし、冒頭のレバノンの2大勢力のシーンは安保闘争と近いものがあるような・・・。もちろん私は安保闘争のあった時代のことをリアルタイムで知らないので、映画やテレビで観て知った情報からそう思った、ということに過ぎないのですが・・・。
    観るひとによっては、このフォト・ロマンスはノスタルジー的な要素もあるのかなぁ、と何となくこの頃は思っています。


    >私もビア・ムルエとリナ・サーネーの演劇を観るのは初めてです。

    そうだったんですね。実は、2年前にリナ&ムルエが東京で上演した「これがぜんぶエイプリルフールだったなら、とナンシーは」が、レバノンで上演禁止になったということを先日ネットで知りまして、もしかしてアキラ様はご覧になられたかと思ったものでしたから・・・。

    あと、私も生演奏は非常に心地よかったです。特にループするギターが程良く脳内をトリップさせられて・・・そうかと思えばシタールのような響きになったり・・・不思議でした。

    2009/12/16 00:58

    Hell-seeさん

    返信ありがとうございます。

    確かに、この作品中のリナ(フィクションとしてのリナ)が「どうしてこの映画を作ろうと思ったのか」は明らかにされていないようです。
    明らかにされていませんが、レバノンの現状を、ある種のファシズムとしてとらえ、それを直接的ではなく、一個人の倦怠とかロマンスのようなものの背景として、浮かび上がらせたかったのではないか、と私は感じました。
    「検閲」もレバノンの具体的な状況ですから、あえてそれを全体に、さらに被せていったのではないでしょうか。
    映画の中の女性の変化が、つまり一個人の違和感と変化が、レバノンの変化につながるような(バタフライ・エフェクト的な)というのは、言い過ぎかもしれませんが、なんかそうつながって見えました。

    私もビア・ムルエとリナ・サーネーの演劇を観るのは初めてです。私もまた公演があれば観たいと思います。音楽も気に入りました。

    2009/12/07 05:12

    アキラ様

    はじめまして。コメントを頂きまして、ありがとうございます。
    アキラ様のご指摘されたリナの心の揺れのようなもの。ですが、彼女がどうしてこの映画を作ろうと思ったのか。動機は明らかにされなかったように思うのですよね・・・。私が見落としているだけなのかもしれませんが、彼女の心の微妙な揺れを感じ取ることができなかったんです。アキラ様のコメントを拝見し、謎が少し解けたような気がします。

    私はラビア・ムルエとリナ・サーネーの演劇を観るのは今回が初めてだったのですが、アキラ様はご覧になられたことはあるのでしょうか。私は、機会がありましたらあと一回は観てみたいと思っています。

    2009/12/05 00:49

    はじめまして、アキラと言います。

    とても興味深く読ませていただきました。

    リアルとフィクションの曖昧さ、そしてカラーとモノクロの使い分けの指摘、なるほど、と思いました。

    >フォト・ロマンスはこのように、断定できない曖昧な要素が多数出てくるが、解決されないまま置き去りにされる。その兆候は、ラストに近づくにつれ濃厚となり、ついには映画のラストはふたつから選択できるという苦し紛れの運びとなる。

    この曖昧さは、作者としてのリナの「心の揺れ」のようなもの、つまり、たぶん検閲官に提出した台本と、実際にプレゼンしているものは違っているようですから(登場人物の役者がほとんどいなくなった等)、創作しているうちに、本来のテーマからのズレが自分の中で生じてしまい(「ロマンス」的な要素が加わった)、それが自分の中でも収拾がつかなくなったというところなのでしょうか。
    その「収拾がつかなくなった」のは、リアルなリナなのか、この舞台でのフィクションとしてのリナなのか、そのあたりも微妙な感じです。

    2009/12/03 05:12

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