神様はいない(公演終了・ありがとうございました・御感想お待ちしています) 公演情報 MU「神様はいない(公演終了・ありがとうございました・御感想お待ちしています)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    神様はいない。
     神様はいない。なぜなら神様はいるから。

    ネタバレBOX

     神様はいない。なぜなら神様はいるからだ。

     この話はもちろん神様を否定している話ではない。

     神様はいる、だからこそいない。その一見すると矛盾している言葉が、そのままこの舞台なんじゃないかな、と思う。
     聖戦のつもりの銃の撃ち合いで、引き金を引く一瞬に神様はいないだろうし、同じようにアミンが二人を攻撃し、刺したとき、そこに神様はいなかった。だからこそ彼は「あの小説には意味があったのに!」と激昂する。
    キリコの小説には『何か』があった。そこには『意味』があった。それは一種の神様だ。その感想、感情こそが『神様』だ。例えば本を読んだり、舞台を観たり、景色を眺めたり、街を歩いている一瞬で、ふと澄み切った感情が自分を襲うことがある。その純粋で言葉にできない気持ちが『神様』に一番近いものなんじゃないかと思う。
     彼はそこに無意識ながら確かに神様を感じたのに、彼がその神様のために二人に攻撃の引き金を引いた瞬間、何もなくなっている。それは神様のためでなく、ましてやキリコのためでもなく、感情の爆発でしかない。

     アミンは話の中で感情によるテロと信仰によるテロを明確に区別している。
     「これはただの復讐です。アルカイダのやつらとは違う。」
     彼にとってそこには明確な差がある。キリコにはなんとなくそれが納得できない。彼女はその欺瞞に気がついているからだ。復讐と宗教テロを区別するアミンの嘘に気がついているのだ。
     彼女もまた、脚の障害を卑下することなく生き、トラウマを見せないことで、自分に嘘をついている。
     そして最後の最後、彼女はその嘘に自覚的になり、雨がつくる密室の中、神託のようにそれを言い放つ。
    「雨は雨、血は血だよ。それ以外の意味なんてない。」
     それはアミンに対してのものでもあるし、信一と信二に対してのものでもあるし、そして自分に対してのものでもある。
    「破壊は破壊、殺人は殺人だよ、それ以外の意味なんてない。」
     ラストシーンは僕にはそうきこえた。
     それは聞こえのいいヒューマニズムによるものや反戦の意思から来る言葉では決して無い。もっとえげつなく、もっと深く人間の欺瞞をえぐるための言葉だ。
     いくら理由をこじつけようと、そんなもの意味がない。愛や権利や正しさや利益や道徳で理由をつけてみても、何の意味もない。雨は雨だし、血は血なのだ。アミンがキリコのために人を傷つけても、それはただの感情の爆発だ。信一がいくら自由の会に心酔しても、自由の会はカルトでしかない。
     そしてキリコがいくら逃れようとしても、傷は傷でしかない。
     「母親に刺された傷を聖痕だとでも思っているんですか?」
     日下部の言葉にキリコは何も言えない。
     傷は傷だという事実から目を背けていた自分。
     母がつけた傷とその障害から何かを感じ取ろうとしていた自分。
     それらを眼前に突きつけられ、彼女は否定できない。
     彼女が後生大事に抱えていたお守り、彼女が神格化していた作家(そして宗教家)、それらに寄る辺を求めることで、意味を求めることで、彼女は自身の傷に自覚的になることを避けていたということに気がつくのだ。
     そしてその欺瞞を剥がされたとき、自分に残るのは、宗教狂いの実の母親に傷つけられたというあまりにも救いの無い事実だけなのだ。
     
     あまりにも救いが無い。だからこそ人は救いを求めるのだろう。
     そこに救済してくれる大きなものがあるのだから、そこへと向かう。僕は宗教に詳しくないので浅薄な考えでしかないが、それこそが宗教なのではないか。
     しかしそれは逃避でしかない。逃避は逃避でしかない。雨が雨でしかないように。
     それは信仰ではなく。そこに神様はいない。
     観客は、あまりにも生々しく認めたくないことを、まざまざと見せ付けられる。
     神様はいない。
     神様はいる。どこかに確かにいる。だからこそ、ここにはいないのだと言うことが出来る。
     お前らの信じてるようなもんは神様じゃねえよ、といって戦争を始めるのではなく、お前らの戦争に神様なんかいねえよ、と言い放つ。
     MUは神様を否定したかったのではない。神様を信じる人間を否定したかったのかもしれない。

     ここまで尖った、ドライにも感じられる作品でありながら、この舞台にはどこか温かさを感じてしまった。
     それは観客にとっての救いなのかもしれない。
     キリコは柔らかく美しく、それでいて激しく怒りをぶつけ、君津はコミカルに、そしてひ弱にキリコを愛する。アミンはたどたどしくも真摯に生きようとしていて、信二はただ純粋に家族を想っている。
     舞台の上で進められていく話は明らかに救いが無く、暗部へ暗部へと転がっていく。しかしそうなればなるほど、登場人物たちの性格や仕草が愛おしくなっていくのもまた確かなのだ。
     彼らが闇へと転がっていく怖さ、悲しさ。
     しかしどこか一枚、暖かい毛布がかけられているかの様に、変な安心感が舞台上には流れている。
     それは下町の蕎麦屋という設定のせいでもあるし、家族とそれを取り巻く人々のキャラクターのおかげでもある。
     おそらくこの話を別の出演者でやってしまっていたら、もっと救いの無い、暗い気持ちになる舞台が出来上がったと思う。
     しかし最後のシーンですら、そこは雨に包まれ、周囲から守られた聖域のようであり、キリコの言葉は雲の隙間から光が指すような、厳かなものに感じられてしまった。
     もしかしたら、そういう意味では、その出演者と話の組み合わせの妙に、神様はいたのかもしれない。

     80分という短さのせいで、登場人物たちに感情移入できないというのは確かにあると思う。けれどこれを長くやるなら全く違う話になっているだろうし、このオチにもならないと思う。一歩間違えれば重いだけの駄作にもなると思うし。
     あくまで今回この長さで、この流れで、この出演者で、というのが大きい、言ってしまえば偶然出来上がったような舞台なのかもしれない。
     発表する時期にしても、他の情報に邪魔をされない、いい時期の話なのではないのかな、と思った。個人的にこれはある事件の絡んで、というよりもっと普遍的なことを描いている気がするからだ。

    0

    2009/09/16 21:34

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大