一月三日、木村家の人々 公演情報 青年団リンク 二騎の会「一月三日、木村家の人々」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    今日、と言っても1月3日なんだけど、木村さんちにおじゃましました
    介護は、先の話ではない、明日、いや今日の話なのだ。
    いちいち自分の身に振り返りながら観ていると、いろんなことが脳裏をよぎり、考え込むことしきりであった。
    そして、笑ったけど、涙腺を強く刺激された。

    多田さんの演出だから、何か仕掛けてくるのではないかと思っていたら、ある一点を除き、かなりストレートだったと思う。
    その一点が見事なのだが。

    ネタバレBOX

    実際に、介護は、私の年齢では、まさに今日の話だ。
    友人に仕事を辞めて介護をしている者もいる。自分の親と配偶者の親の4人を看ている者もいる。
    彼らを傍目で見ながらも、あまり本気で考えてこなかった、というより現実逃避してきたことなのだが、目前にそれはある。

    「家族」「家族愛」という言葉は、便利で万能で、光圀の印籠だ。それを言われたら何も言い返せない。
    だけど、現実はその耳に優しく美しい言葉の先にある。

    舞台は、客入れのときから微妙に始まっていた。役者さんが、出てきてセッティングするときに、軽く会釈をしたりするのだ。
    多田さんも、前説で「あけましておめでとう」の挨拶と真冬の衣装で現れたりする。
    また、劇中でも、あきらかに、我々観客に語りかけていたりというように、観客がそこにいることを強く意識させる。

    こうなると、よく知らないご近所の木村さんちにお邪魔したら、ご家族が集まってきて、家族間のごたごたを聞かされるはめになってしまった私たち、という雰囲気になってくる。
    ピンポーンピンポーンとしつこく鳴るのチャイムは、なんかそわそわしてしまう。すでに家の中にいる気持ちになっている。
    帰るに帰れないし、何よりご近所の木村さんちの家庭の事情もよく知らないので、話の中に割って入ることなぞできないのだ。

    しかし、この構図は、単に面白いから、というより、介護を巡る家族の話、つまり介護を巡る家族のバトルは、木村家の茶の間だけのことなのではなく、今、そこに居合わせ、そこにいることを意識させられている、私たちの茶の間での話題でもあるのだ、ということを強烈に印象づけているように思えた。
    役者の視線は、私たちをその場に縛り付ける強力な力として作用するのだ。
    ここが、演出家の仕掛けだっような気がしたのだ。

    実体験の重さが込められていると思われる、台詞と登場人物のキャラクターの妙、例えば、直接の家族ではない、いとこやホストの登場による、それぞれの家族との距離感から発せられる台詞は実に見事だった。

    中でも「大晦日にも元旦にも来なかった・・・」はかなりキツイ言葉だ。何度も何度も繰り返し叫ぶその言葉は、全身を貫いた。

    言いたいことを全部吐き出して、すっきりした後の、少し未来があるラストには救われる想いがした。ただし、明日は我が身であるのだから、そんなにきれいにまとまりはしないのだろう。堂々巡りで結論が出ない、「ゴール」のない、本当は考えたくもない話。
    「今日1日だけがんばればいい、そしてまた明日も1日がんばればいい・・」ここに大きなヒントがあり、それを受け取ることができた。

    冒頭の、「ダンシング・オールナイト」の歌は、サビの部分だけのしつこい繰り返しは、なんかわかる気がした。

    あ、そうそう、今回の照明は、こまかい色の追加やライトの数、角度の微調整などがあったようで、一見、平面的なお茶の間なのだが、よく見ているとシーンの様子ごとに合わせ、細かくニュアンスを変えて、表情を出していたのは、うまいなぁと思った。

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    2009/05/30 04:03

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  • tetorapackさん

    丁寧なコメントありがとうございます。堅苦しいコメントということもありませんし、いろいろ書いていただいて感謝いたします。

    tetorapackさんのお書きになったものを読ませていただくと、介護の怖さ(としか言いようのないもの)がより浮かび上がってきます。
    私はまだ「介護」は、「言葉」でしか理解できていないと思いますから、「家族」とか「家族愛」とかをお題目のように唱えている人とは大差ないのでしょう。
    でも、怖いからと言って逃げることもできません。

    特養は、親が住まいにある自治体に様子を聞いたところ、今なら100人待ちで、年間に2名ずつぐらい空きがでる、という答えがあったそうです。単純計算しても50年待ち。
    そんなとんでもない状態に、今後のことをいろいろと考えていた矢先に、大きな陰りとなってしまったようです。家族にしわ寄せが来るのはそういう状況もあるんですね。
    まさに元介護士のホストが劇中で言っていた「介護保険ではたいしたことできませんけどね」ということなのでしょう。

    今回の演劇は、親や自分こと考え直してみようという気にさせ、重い「お土産」があったと思います。それも、tetorapackさんが述べている「一家族の等身大のリアルな描写」だったことが大きく作用しているのでしょう。

    これからも、tetorapackさんの「観てきた」は楽しみにいたします。

    2009/05/31 03:08

     まずは私の「観てきた!」へのコメント、ありがとうございました。

     アキラさんの的を射た「観てきた!」、しっかり拝見させていただきました。
    私は、介護問題における「的」とは、自分自身の中にある的と思います。それゆえに、この素晴らしい作品も、わが身の状況や年齢などによって、捉え方が変わってくるのでしょう。

    「家族」「家族愛」という言葉は、便利で万能で、光圀の印籠だ。それを言われたら何も言い返せない。だけど、現実はその耳に優しく美しい言葉の先にある――とのアキラさんの指摘は、まったく同感です。

    よく言われることなのですが、介護は実際に行ったことのある人と、その経験がない人とでは、その捉え方に、とてつもなく大きな差があると思います。介護を行う日々の中で、その人の「家族」や「家族愛」「夫婦愛」に対する考え方さえも変貌していくからです。

     また、医療と介護との間に大きな差があることも事実です。親や配偶者が生死に及ぶガンになっても、入院できないということはなく、家族がその世話を苦に自殺するといったことはほぼ皆無ですが、介護はそうではない。離職せざるを得なくなったり、体力的にも精神的にも疲れ果てて介護者共倒れとなったり、介護者の自殺さえも相次いで起きるほどの現実があるのです。

     医療機関は、加齢(老化)による心身の衰えからくる寝たきりや激しい痛みを伴う状態に対しても、当初の医療行為が終われば、後に残る慢性的な要介護状態に対しては、もちろんた退院させます。結局、民間の有料老人ホーム入所は経済的に不可能な家庭が圧倒的で、特養ホームは2年、3年の入所待ちは当たり前。要するに、病気なら行き場がないということはあり得ませんが、加齢による要介護状態は行き場すらないという現実が重くのしかかるのです。

     こうした、ある意味では、医療を上回る今後の社会的大問題を、一家族の等身大のリアルな描写で観る側にアプローチした本作は、本当にすぐれた作品と私も感じました。

     なんか、堅苦しいコメントになってしまって恐縮です。今後もアキラさんの鋭いコメントを楽しみにしております。

     tetorapack

    2009/05/30 12:33

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