満足度★★★★★
いろいろなことを考えさせられた。まず、初演も再演も見ているのに、3度目の今回見て、大事なことを全く覚えていないことに愕然とした。同じことは井上ひさしの「ムサシ」の再々演でもあったが、今回はあまりにひどい。実はそこにこの戯曲の深さと難しさがあると思ったので、書き留めておきたい。以下、戯曲分析が中心になります。
初演は川平慈英の記憶喪失の元軍人役が見事だった。様々なキャラクター、見事なタップダンスを演じ分けて、それが最も印象が強かった。それと絡んで、戦後のGHQの検閲下に置かれたNHKラジオの「尋ね人」のスタッフの話で、その責任者がGHQの意向に逆らって最後は連れて行かれる。覚えていたのはそれだけだった。
今回見て、主人公の河北京子の弟が特攻任務に抗命の罪で自殺した「赤縄」の話、CIEのフランク馬場の二重国籍と日本の孤児院支援の話、そして「尋ね人」でGHQから問題にされるのが、原爆の広島・長崎からの投書を読んだことであることを、全く忘れていた。これはこの戯曲の三つの肝とも言うべきテーマなのにである。(例えば「きらめく星座」で言えば、「大日本帝国の大義、ありや、なしや」を忘れてしまうようなものだ)
ここで考えてみると、実はこの戯曲は大きく二つのプロットがある。メインが「尋ね人」の室長のたたかい。サブが、記憶喪失の山田太郎の話である。初演で川平慈英が演じた。この二つの話は実は互いに独立している。ところが、サブの山田太郎の話の細部が面白いために、私の記憶の中で、メインの細部が霞んでしまったのだと思われる。
最後に、権力に対して弱者は「負けて負けて負けて負け続けて、積み上がって勝ちになるまで」戦い続けるのだという歌がある。この作品の最大のメッセージが込められた歌だ。これも全然忘れていた。「負けて負けて負け続けて」ということが、10年前、3年前に見たときよりも、胸にこたえる心境の変化だろうか。それだけでなく、山田太郎の「私はだれでしょう」のサブプロットが、「尋ね人」のメインプロットを食ったせいもあると思う。
そもそも「私はだれでしょう」のタイトル自体がサブプロットのもので、メインプロットがタイトルになっていないことに、作品構造のずれがある。公演の宣伝のために、タイトルは、戯曲を書くよりも前に決める。推測だが、最初は記憶喪失の男の話がメインに絡む予定だったのが、戯曲を書いているうちに、ずれたのではないだろうか。(あくまで勝手な推測です。井上ひさしさんすいません)
メインプロットに、折々の闖入的にサブが絡む構図は、「きらめく星座」の脱走兵の息子、「頭痛肩こり樋口一葉」の花蛍、「人間合格」の活動家の友、「太鼓たたいて笛吹いて」の行商の弟子など、井上ひさしのお得意のものである。しかし、いずれもタイトルはきちんとメインプロットから取られている。また、サブとメインが有機的に絡んでいる点も、ずれが目立つ「私はだれでしょう」とは違う。
この作品は井上ひさしの最後から5番目の作品。戦争を描いたのは、この後では朗読劇「1945年口伝隊」があるだけである。それだけに、集大成的要素がある。原爆は「父と暮せば」、やくざの若親分の話は「雨」、記憶喪失の話は「闇に咲く花」からの借用でもある。日系米人の将校はアメリカの日系人収容所を描いた「マンザナ、我が町」に通じる。実際、実在のフランク馬場の両親は収容所に入れられ、本人も入れられる危険があった。最後に「ラジオの魔法」は、井上ひさしの言い続けた「劇場の奇蹟」に通じる。人生に文化芸術(演劇、ラジオ)はどういう意味があるのかという芸術論である。
そして晩年めざした音楽劇という形式。「誰かの鉄砲玉になるのはもう嫌だ。これからは、私は誰になるべきでしょうを考えていきます」というセリフは、東京裁判三部作のエッセンスと言ってもいい。
とにかく集大成なだけに情報量が多い。(初演は休憩15分入れて3時間20分の長さだった。再演からは休憩込み3時間に少し縮めている)そして一つ一つは割と無造作に置かれていて、見逃しやすい。再演、再再演に価値があるし、何度も見て、新たな発見があるゆえんだと思う。