Ⅰ:「この子が無事に帰るまで」は、藤田佳代舞踊研究所のダンス。出演は、向井華奈子さん、金沢景子さん、菊本千永さん、かじのり子さんの4名。 アゲハ蝶の幼虫が蛹になる場所を求めて彷徨い歩く様を描く。確かモーリス・ブランショだったか“彷徨とは死である”と言った人が居たな。今作はこのアゲハの幼生をかつて命であった者たちが優しく庇護するように付かず離れず見守る様を幻想的に描いた作品である。Paul Valéryの“Eupalinos ou l’Architecte”(ユーパリノス或は建築家)の中にソクラテスが冥界に在ってユーパリノスに対して、既に肉体を失った自分たちは現実に対して実際には如何なる関与も為し得ないことを語るシーンがあるが、かつて命だった者たちの幼生に対する念もこのように切なくもどかしさに満ち、切ないものであるだろう。この切なさをも表象し得たような白の頭巾、ふんわりその化生を覆う上着にゆったり裾幅の広いパンタロン。白足袋の衣装センスも流石神戸の女性のセンスの良さを感じさせる。これに対し、幼生を踊った女性は裸足、カーキ色のざっくりした上着に黄土色のパンタロンで生きる者、生きている者の生々しさを対比するように表現。羽化へ向かっての道程を即ち新生の為の仮死を得る為の道行きを客席に降り彷徨することで描く(正確には這ってというべきか)。5つ☆
Ⅱ:「ムシムシメヅルシ‐Bye o! Hi story-」と題された今作を演ずるのは、劇舎カナリア。カナリアは無論、炭鉱で有毒ガスの発生を知らせる為に坑道に連れていかれたカナリアのことであるが、今作は自死した加藤道夫氏が戦中書き上げ仲間に上演してみせた作品「なよたけ」の意味する所を、文学表現とは“問いである”という観点から再構成した作品と解釈した。 内実は、日本という国が「国」になった過程、即ち来るべくして来た敗戦という地獄への道程だ。幕末は吉田松陰の「幽囚録」により明治期以降は福澤諭吉の強兵富国を目指し天皇制を利用した脱亜植民地主義。(福澤は一般に言われたり思われているような民主主義者ではない。それどころか、「他者を支配するのは“人間最上の愉快”」と公言していた男である。それをすり替えたのは、丸山眞男である。丸山の狡さは、自らが学生を戦地に送り出したことに言及も自己批判もしていないことに見えるばかりではなく、広くは大日本帝国の戦争責任を曖昧化することで、同様に加害者責任を無化した日本人前半を学問的権威として寄らしめる思想的根拠とせしめたことにある。日本という国に住み、生活をする人々は、事実を直視することを嫌う。現実を終戦と呼び変えたり、“過ちは繰り返させませんから”と記すべき所を「過ちは繰り返しませんから」と書いたりする欺瞞の根底にあるもの・ことを明らかにするべく演じられたと解したわけだ。この現実、即ちこの「国」の為政者の無能・無定見・無責任・不作為を為さしめる、或は可能にしているもの・こととは何か? である。戦中大本営は、現実も現場をも観ず、経済的規模も考慮せずに、空中楼閣の如き作戦とロジスティックもまんろくに整えぬ馬鹿げた戦略・戦術を強行することによって完敗を喫した。無論、これを可能にしたのは、表面的には精神論という空論に身を委ねたからだ。つまり客観性を担保しない、事実を見つめ、事実のみを根拠に演繹・帰納し判断を下すという正常な思考を欠いたからであるが、この同じ過ちをCOVID-19対応でやらかしているのが、現在の日本である。前にも書いた通り疫病に対する基本的対応は、罹患した者と非罹患者を分離することである。其の為には、徹底した検査をしなければならない。今回、有効だと初期段階から気付かれていたのは、PCR検査及び抗体検査であった。無論、パンデミックの原因とされた今回のSARS-Cov2の特徴や性質を明らかにすべく研究も同時に全世界が協力して行わねばならぬことは当然である。トランプの如きアホな陰謀論者の世迷い事がナンセンスなのは無論のこと、日本の文科省や厚労省が自分たちが責任を負わないで済むように官僚の常套手段・不作為を決め込み、大学研究室や、国内の関連研究施設に出向いてすべき研究を邪魔したことなども挙げねばならぬ。当然のことながら、行政の長を初めとする為政者は、その感染拡大阻止に向けて素早く的確な手段を講じなければならなかったが、科学的知と合理的・実証的思考を持たず、事実及び現場を観る目に欠け、責任の何たるかを全く理解せぬばかりか何の為に自粛要請せねばならぬかの意味にすら気付いていたとは思えない想像力の圧倒的欠如がこれを阻んだ。 かなり早い段階でパンデミックとWHOのテドロス事務局長が敢えて言揚げしたにも関わらず、パンデミックという単語の意味する所、即ち現時点で世界中の誰もSARS-Cov2に対する有効な防護手段を持ち合わせていない、ということの意味する所が分かっていないという愚かさを曝け出してしまったのである。この点をキチンと理解していれば直ちに緊急事態宣言を発し、有効視された2つの検査を実行していたであろう。また、感染経路もプライバシーの保護方法を具体的に提示した上で強制的に個々人の移動経路が把握できるような手段を講じたハズである。それが出来なかった最大の原因は、政府トップ以下、高級官僚、検察、上級司法、専門家と呼ばれる御用学者、マスゴミ等々が結託して嘘を補完し、フェイクを垂れ流したのみならず、それらの事実を隠蔽する為に更らる嘘の上に嘘と詭弁、証拠隠滅等々を繰り返してきたからであり、この事実をも秘密保護法や共謀罪でガードしているからだ。一方この事実に警鐘を鳴らした良心的メディアやジャーナリストらが、公安とグルになった政府や権力機構、それに癒着して甘い汁を吸う下種共の結託によってデッチ上げやいちゃもんによる(別件)逮捕、家宅・事務所捜索などによる反論封殺を着々と進めていった。この件については残念乍ら、彼らに好い加減な情報を流した者が誰であったかについても我らは立ち止まって考えるべきであろう。と言うのも、伊丹万作が死の直前の1946年に書いた有名なエッセイ「戦争責任者の問題」が指摘している通り、実際には戦争に協力し、推進していたのが誰だったかは、改めて注意深く検証する必要があるからだ。というのも当時、ただ他の人と異なる服装で外に出るだけで非国民扱いし、眉を逆立てたり、非難の目で見たりして、ただ皆がそうしているからという理由だけでそちらの側に属しているフリをする為にこそ、皆と同じ服装をして内心他人を軽蔑することまでも全く同じ誰とでも交換可能な程己の命を軽くしてしまうことを選択した癖に、何ら個性の無い、つまり数に過ぎなくなった己が命を護る為だけに利己主義に走りガードを固める因循姑息な非人間性を隠した卑劣な隣人、車内・社内・学校・商店街等々に溢れ返る同胞であった事実を思い出させる。この戦前・戦中の日本人の態度とCOVID-19蔓延下での“自粛警察”を名乗る同胞は本質的に全く変わらない。 また為政者たちは、ただ家系とこれまでの人脈、そして鵺社会を構成している不作為とそれを支える権威としての(大戦中は天皇制/現在では東大文一出、国家公務員試験総合職試験、上級甲種試験、I種試験等に合格など学歴「エリート」とされるキャリア官僚、新自由主義富裕層)の下に臣民、社畜・ヤプーなど奴隷精神に特徴付けられる人々がひれ伏すことによって維持されている。徹底して追わねばならなかった感染経路も、嘘ばかりつき、自分たちに都合の悪いことは、議論した経緯すら文章化しない。或は隠蔽し、廃棄して答えない等々を積み重ねられては、いくら「国民」奴隷根性に満ちていても政府を信用する訳が無いから“プライバシーを守ります”などといくら政府がほざいてもヤプーでさえもいうことを聞かないことがあるほどに信用を失墜させた。更に直接民主制が、この「国」では法的に認められていないから小市民らは現行制度下の選挙に行く。だが現在の小選挙区;比例代表制では民意を反映しないから、アホな二世議員、三世議員が幼稚極まる「政治」を司っている末期的状態すら改善できない。更に悪いことには、この国には市民が殆ど存在していない事実があることだ。市民は民主主義の種子である。この国に存在しているのは、市民ではなく、ヤプー、奴隷、臣民、下種ばかり。これでまともな国などできるハズもない。今作はこの事実を問いという形で発している。 さてここでもう1度戦時中だ、実権力は陸海軍に移行しており、特高などの秘密警察の監視下、臣民は喜んで“非国民”を炙り出しては密告を重ねた。挙句の果てが、広島・長崎にタイプの異なる原爆を落とさせたばかりか、ABCCによる被爆者モルモット化による実証研究迄為さしめ、更にソ連の原爆開発以降の冷戦下に於いてアメリカが、何処にどれだけの規模の原爆を落とせば敵の戦力を奪えるかの基礎資料として、広島の小学校の生徒たちの犠牲をデータとして用いていたことも明らかにされている。特高などを管轄し関東大震災時には、朝鮮人虐殺にお墨付きを与えた正力松太郎は、ポダムという暗号名を持ったCIAエージェントとして初代科学技術庁長官、読売新聞社主として原発推進キャンペーンに邁進するなど日本の原発推進に絶大な力を揮ったことは、誰もが知る事実である。 5つ☆
Ⅲ:「ムシ to be continued」は、江原朋子さん、高田清流さん、鶴田聖奈葉さん、ノムラヒハルさん、渡部早紀さん、Atsukoさん、堀江進司さん、三浦利恵子さんの出演。江原さんが蟲愛づる姫となり、他の総てのメンバーが個性豊かな自分自身を殆ど即興で踊ることによって、蟲たちの多様な在り様と生き様が、実に楽しくまた個性的に表現されており、用いられている楽曲のうち1曲だけが長谷川千賀子さんの作曲になる以外はポーランドの曲で、東欧の文化国家ポーランドの不思議な音楽が個性的でリズミカルで而も多様性に富んだダンスと実に良く呼応し合って、誰もが楽しめるユーモラスな作品に仕上がっている。5つ☆