満足度★★★★
アイルランドの現代劇の小品二本立て。
海に囲まれた国という共通性があるのか、アイルランド演劇は、例えば、チャペックくらいしか知られていない内陸国のチェコなどに比べるとずいぶん日本には親しみがあるようだ。
マクドナーは大当たりの作家だが、こちらのエンダ・ウオルッシュは、後継者と言われている由。今回も土着性、幻想的、宗教的な面も含めてその国の伝統を引き継いでいる。その上に様式にはこだわらない。現地でどのような上演になっているかうかがわれないが、今回の舞台は、いわば、モノローグ芝居。最初の「ベッドに縛られて」は親子の葛藤、ことに生活者の父と娘の地域に縛られた生活と脱出願望。あとの「ミスターマン」はダブリンよりもさらに田舎町の青年の域苦しい青春を描いている。なにやら日本の自然主義小説にも通底しそうな物語を、最初の作品は二人、あとは一人の演者が演じていく。
演者は最初が寺十吾と小飯塚貴世江。寺十吾は、私にはよくわからない演劇人で、演出も俳優も、ちょっと変わったものがうまい。派手な見せ場になりそうなところも、手際がよくまとめてボロを出さない。しかしときには見当違いと思える出来のものもあって、つかめない。だが、今回はほとんど一人でこの台詞の多い舞台を背負って特異な国の父親像をうまく造形した。小飯塚貴世江は、最初の早いせりふ回しなど頑張っているが、残念がら使っている声域が高く狭いので単調になってしまう。娘と父の二重唱にするという演出の意図があったのかもしれない。きっとうまい人なのだろうが、これで大損をしている。声域が生来のものなら、これは配役のミスだろう。
あとの方は斉藤淳。こちらは一人で全部やるのだが、さすがに荷が重すぎる。一つ一つのエピソードがバラバラで、一つの青年像に集約していかない。父の墓参に行くシーンとか、おばさんに踊りに誘われるとか、空中に舞い上がっていくところとか、演出も気を入れて面白くしているところがつながらないうらみがある。
演出の扇田拓也は、この難しい様式の戯曲を飽きさせず、ヘンに突っ張りもせず、いや、突っ張っているのだが、それをあの手この手で抑え込んで、うまくまとめている。ことに音の使い方がうまい。難しいものを何とか納得できるようにしてしまうのは、なんだか故人の父の扇田昭彦の演劇評にも似ていると、懐かしく思った。この演出が第一の収穫であった。