曖昧な犬 公演情報 ミクニヤナイハラプロジェクト「曖昧な犬」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    『曖昧な犬』というタイトルがあまりにも素敵すぎる。
    「曖昧な犬」や「窓から覗き込む顔」だと思っていたのだが、雷鳴と稲妻の閃光で見えたのは「観客の顔」だったのではないか。

    (以下ネタバレBOXに長々書いてます)

    ネタバレBOX

    (一気に書いたので誤字脱字等々があり、後で修正するかもしれません。悪しからず……)

    『曖昧な犬』というタイトルがあまりにも素敵すぎる。
    もっともその言葉には、すぐに思い当たるものがなかったのだけど。
    宮沢賢治の『ガドルフの百合』という作品の中に出てくる言葉だと後から知った。
    『ガドルフの百合』という小説は完全に忘れていたが、読み返して思い出した。

    宮沢賢治のイメージ(言葉)が炸裂し、小説の内容をいろいろと解釈できるような作品だった。
    「曖昧な犬」が登場する個所の数行は劇中でも出てきた。

    「いた」のか「いなかった」のは不鮮明。
    それは視覚的に「見えたはず」という不鮮明さよりは、「意味」においての不鮮明さだ。
    「人」や「犬」というカタチをとりながらも「意味においての曖昧さ(不鮮明さ)」。

    それがこの作品の背骨にあったと思う。

    『ガドルフの百合』はなんとなく「無音」で読んでいるのだが、実は作品の中では雷鳴が轟いている。
    「百合」が見えた一瞬も閃光とともに雷鳴がある。

    この作品でも「耳障り」なほど台詞をがなっている。
    ミクニヤナイハラプロジェクトの過去の作品でも高速回転の台詞は大声であったが、「叫び」のようなものではなかった。
    したがって、「叫び」のような台詞の発声は意図したものではないかと思う。

    すなわち「雷鳴」だ。

    「人が覗いている」と思ったら「百合の花」だったという『ガドルフの百合』に照らし合わせると、「叫び」の台詞は観客に「本当のこと(あるいは何か)」を気づかせるための「雷鳴」なのだろう。

    それは「何なのか?」「何に気づかせるのか?」。

    四隅に扉がある部屋に閉じ込められた(と思っている?)3人の男たちがいる。
    彼らは「閉じ込められているのか?」。その答えはラストに見ることができるのだが、3人目の男は自らの意思でドアを開け入ってきたように(観客には)見える。

    しかし彼は「閉じ込められた」と言う。

    彼らが持っている「ドアを開けることができない鍵」は、「使い方がわからない」のであって無用の物ではないのだろう。
    彼らが本気で使おうとするときには、鍵は使える物になるのではないだろうか。

    部屋はビデオカメラによって監視されているようだ。「記録されているのか?」そして「誰が見ているのか?」

    ビデオカメラの映像は、時間の経過を示す。映像の下に現在の時間が表示されている。
    そして過去の映像に戻っていたりする。それを「見ている」のは間違いなく「観客」だ。

    「閉じ込められている部屋」と彼らが主張するスペースは、吉祥寺シアターの舞台スペースであり、彼らの周囲には壁などない。
    それが現実であり、彼らの置かれている状況だ。
    しかし観客は彼らが「部屋の中にいる」と思っている。

    現に彼らが走り回るときには「あるはずの壁」の「外」に「あえて」出たりするし、小道具を取るためにも「あえて外」に出たりしている。

    閉じ込められている「部屋」は彼らの中にしかないのだ。観客がそれを一番知っている(はず)。それでも観客は彼らが「部屋の中にいる(閉じ込められている)」と思っている。
    3人の男たちは「自らの壁の中」にいるのに。
    そういう「ルール」だから。3人の男にとっても観客にとっても。
    さらにそこにいるのは3人の男なのかどうかも「曖昧」なのではないか。
    私たち観客が見ているのは「曖昧な監禁部屋」と「曖昧な3人の男たち」なのかもしれない。

    そこに「いる」のか「いない」のか、「ある」のか「ないのか、曖昧で不鮮明な空間を私たちは観ている。
    3人の男は「時間」という縛りの中で「ある空間」に「閉じ込められている」と思っているのだが、実際に、かつ確実に「時間」と「空間」に閉じ込められているのは「観劇しているはずの私たち」なのだ。
    その「ルール」は誰が作ったのか。自分たちではないか。3人の男たちと同様に。
    ルールを破ってしまえば、「あるテイでやっている」演劇は崩壊してしまう。
    なので従うしかないのだが、それも疑ってみるのもいいのかもしれない、と舞台の上から言われているような気になってくる(いや、こなかったので粛々とルールに従って観てましたが…)。

    つまり「ある時間」になれば(時間が経てば)、3人の男たちと同様に、上着を着てそこから(観客席から)出ていくことができる。コンビニにだって寄れる。

    3人の男たちが置かれている状況は、時間や空間、そして頭の中の境が曖昧になっている。
    それは観客との境界が曖昧となっているのと同様で、作・演の矢内原美邦さんの頭の中と私たちの頭の中との境界も曖昧になってくるのではないか。

    雷鳴と稲光の閃光で見えたのは、「曖昧だった犬」の本当の姿であり、「窓から覗いている顔」の本当の姿であるのだから、つまりそれは吉祥寺シアターにいる「観客の顔」だったのかもしれない。

    ミクニヤナイハラプロジェクトは高速回転台詞の印象があるが、今回は言葉が意味として、エピソードとして伝わってくる。「意味」として頭に残るだけの余裕があった、と言ってもいいかもしれない。

    今までは言葉だけでなく音楽(音響)や映像等々が一体となって「意味」を表現していたと思うが、今回は台詞だけでも意味を伝わってきて、舞台全体のイメージ(映像等)で「さらに」「意味」を重ねてきた印象だ。

    台詞の中でなんとなく気にとまったのが「メモしておこう(「ノート? 手帳? に書いておこう」だったか?)」で、帰りながら考えていたらフト「ハムレット!?」と思い当たった(間違っていたらすみません……)。「死ぬことは眠るようなこと」の台詞を思い出して「ここにも境界の曖昧さがあった」なんて勝手なことを思ったりもした。

    「雷鳴のような台詞」みたいに書いたのだが、実際は「声でかすぎ」って思っていたのは内緒である。

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    2018/03/25 06:55

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