一日の流れだとは思うのだが、とてつもなく長い時間が流れていて、その中で色んな事が起こった・・・筈。
そして、何故か違和感の感じる笑いが起こる芝居だった。
それは自分の保守的な考え方からなのか、それとも、自分の中の差別的な考え方からなのか・・。
例えば、知的障害者の動作などで笑いが起こる。
「笑う所?」と私は感じる。
でも、「笑う」という動作を制御する本来の私の概念は何だろうか?
例えば、その動作を健常者がわざとコメディーのようにやるのなら
笑ってもよい
障害者だから、笑ってはいけない
その境界線を自分が引っ張っているからなのだと思う。
「○○だから・・・」という葛藤は劇中でもワードとして出てくる。
私も、その線引きをすることによって差別をしているのだろうか。
劇中の3姉妹の姉は知的障害者。美談を語る必要は勿論無い。
第三者の気持ちと、身内の気持ちと、当事者の気持ち。
どこに心を置く事が出来るか劇中で「結婚」に関しての様々な葛藤は、当然起こり得る現実的な話である。
ただ、何か、違和感があった。
それを具体的に言葉に出来なくてもどかしいのだが、そのもやもやした感じで良かったのかもしれない綺麗ごとで、話が終わってしまうのなら24時間TVで良いのかもしれない。
ただ、きっと、こんな風に人は関わり合って、どこか、寂しい想いを溜め込んで、でも、毎日を生きてるのかなと思った。
そこには境界線はない。
色々考える種があった、芝居だった。