オセロ王 公演情報 劇団鋼鉄村松「オセロ王」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    鋼鉄村松を深読みしよう。

    と言うか、テーマが忍ばせてあったりすることが結構あるので、そこを考えてみた。
    表面的なアレコレの、もうひとつ先があったりするので。
    今回のバブルさんの作だけでなく、ボスさんの作品でも、いろいろあると思う。

    (ネタバレBOX長くてすみません)

    ネタバレBOX

    核戦争を生き延びた一握りの日本人は、白人文化に憧れる「はくにん」と黒人文化に憧れる「こくにん」に分かれて、と、銃の所持とか、そんなことから、「え、何? 今、メリケン文化をディスる話なわけ?」と思って観ていたら、そうではなかった。

    つい、「はくにん(白い人)」と「こくにん(黒い人)」を「肌の色」的な意味合いからの対立ととらえてしまい、そういった「言われなき差別」を声高的に取り上げた作品かと、思ってしまった。
    それだと「日本人」がわざわざ演じてみせる理由もよくわからないからだ。

    しかし、観客のほとんどか物語の早い時期から気がついていたと思うのだが、「はくにん」も「こくにん」も、そもそもは「日本人が顔にファンデーションを塗っただけ」ということで、てっきりそれがオチかと思っていた。すなわち、元の日本人に戻ってメデタシ、メデタシとなるオチだ。

    物語の中盤でも、確認の意味で、「朝起きてからファンデーションを塗っている」「黒いファンデーションでなく、白いファンデーションを塗れば、こくにんも、はくにんになれる」と言う台詞がある。

    しかし、それは行わないのだ。
    当然ラストもそこには辿り着かない。

    すなわち、「肌の色」や「民族」「性別」など、生まれ持ってきて変わることができないことに対する「差別」がこの作品のポイントではない、ということなのだ。

    朝塗るファンデーションひとつで変わることができるもの、に対する「差別」だ。
    それは、「後から獲得した」、いや「後から自らが選んだ」ものであり、そこには「プライド」さえある。

    これは例えば、「宗教」と考えてみたらどうだろうか。
    「宗教」は自らが選択し、それを変えることも可能である。
    しかし、誰もが簡単に変えることができない。
    それはなぜか。それにはプライドがあり、歴史があるからだ。
    綿々と続いてきた祖先や家族が受け継いてきたもので、それに対する「疑問(なぜこの宗教を信じているのか?)」もわかない、という自然な状態にも「宗教」的なものを感じる。
    あるいは「文化」と言ってもいいのかもしれない。

    したがって、ヒロスエ歴200年も経つと、単なるファンデーションの色は、ファンデーション以上の意味を持つものとなってきている。
    宗教も生まれてから数百年で、それぞれが選択したものから変えることができなくなっていた。それが元で戦争も度々起こっているし、現時点でも争いの元になっている。
    ざっくり言ってしまえば、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は、同じ神様を崇めている宗教であるはずだが、すでにまったく別の宗教のようになっている。キリスト教の中でさえ、宗派がいくつもあり、互いが相容れない状況にある。

    これって、本来中身が「日本人」である「はくにん」と「こくにん」の関係に似てはいないだろうか。
    バブルムラマツさんの脚本は、単純に「宗教」のようなもので、例えば、「オセロ」好きと「将棋」好きなんていう区別ではなく、まるで「肌の色」の違いのように見せることで、観客に考えさせるためのワンクッションを置いたのではないか。単純に「宗教的」なものにしてしまえば、内容は薄っぺらくなってしまうし、「肌の違い」にしてしまえば、さらに薄っぺらい。

    「朝塗るファンデーション」は、すでに生活の一部であり、「こくにん」たちが「はくにん」に虐げられていても、簡単には変えることができない、というところが脚本として優れている。

    ボス村松さん演じるキングが実は、もと「こくにん」だったという設定が効いてくる。江戸時代のキリスト教徒であれば、「転んだ」というところで、そんなことは大声で他人に話すことはできない。そして、グレートニュームラマツさん演じるサンボに「オセロの試合にこれからも出たければ、はくにんになれ」と囁く。つまり「転べ」と。

    朝塗るファンデーションという、あまりにもバカバカしい設定なのだが、このあたりは重い。
    「はくにん」と「こくにん」が生まれた、バカバカしい理由を後で知ることになっただけに重さは増す。

    後で知った理由から、さらに遡れば、高校生だった吉田覚丸さん演じる村松と林有実さん演じる高島の確執がおおもとにあることが明らかになってくるあたりの、ストーリーの被せ方もナイスである。

    しかし、村松と高島の2人は、実は確執があったわけでないというラストに、そこまで全編を覆ってきた「人は、この世に現れてきたときから、争うものであり、それは絶対に避けることができない」という命題に、「そうでもないかもしれないという」わずかな光明を差させるのだ。市長や次の市長たちが、この争いに終止符を打つことを諦めてきたことにだ。

    「塗っているファンデーションを取ってしまえば、いいんじゃないの」という考えは、実は宗教に無頓着な「日本人的発想」であったことに気づかされる。
    「しょせん宗教じゃないの」とか「同じ人間なのに」「同じ民族なのに」「元は同じでしょ」とか思ってしまう、多くの日本人にとっての宗教観である。
    「塗っている人たち」にとっては、そんなに簡単なことではないということは、頭ではわかっていても、昔も今も起こっている戦争や紛争を見るたびに思ってしまうことであり、本当のところは理解できていないということなのだ。

    作品の中では、「死傷者を最小限にするため」「“こくにん”の銃所持を制限する」という苦渋の選択を新しい市長が行う。バカバカしい大団円になると思っていただけに、この選択は意外であった。

    バカバカしい中にあって、リアルな選択であり、明確な「答え」は「ない」ということなのだ。

    この物語のテーマは、私たち日本人が感じている「宗教観」を気づかせ、「やっぱりわかんねーな」ということを通して、「でも、ひょっとしたら」という、結論に導く作品であり、意外と安易な「答え」を見せないところが上手いのではないかと思う。

    ラスト、暗転のほんのわずかなタイミングで見せた、村松の「なーんちゃって」の感じがとっても好きだ。
    村松がガックリうな垂れて死ぬ的な展開じゃないところがだ。
    その感じが、全体の「救い」になっているように思えた。

    今回は、キャラが粒ぞろいだ。
    どのキャラもぴたりとはまっていて、気持ちがいい。

    いつもは覇気のない青年を演じているグレートニュームラマツさんが、したたかな役を演じていて、これからが楽しみになってきた。
    あいかわらず、小山まりあさん(もう、マリー・ムラマツとか村松コヤマリでいいんじゃないかな)がいい。彼女が出ると、全体がぐっと前向きになり、視線を集める。
    村松と高島を演じた、吉田覚丸さんと林有実さんのバランスが抜群だ。オープニングの2人のやり取りで面白くなる予感がした。
    ボスさんは、やっぱりボスさんで、楽しそうに演じていた。
    市長を演じた村山新さんのような人が脇にいるから物語がきちんとして見えた。

    劇団鋼鉄村松にとり、絶対的主人公だったムラマツベスさんが休団した今、作・演を互いに競い合っているボスさんとバブルさんにとって、安全パイはなく、どうしていくかずっと悩み続けていることと思う。その答えのひとつをバブルさんの『MARK (x)​』で観たし、ボスさんの『ミハエルとアイルトンとチュウカドン』(あまりにも雑味が多すぎた怪作!)で観たような気がした。
    今後も2人は悩み続けて、どう変化していくのかが楽しみである。

    ……やっぱりボスさんの「将棋こだわり」に対するのが「オセロ」だった?

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    2017/02/07 04:29

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