満足度★★★★★
劇団おぼんろ:『狼少年ニ星屑ヲ』
遥か昔、何処の国とも何処の村とも知れない、みんながいつでも泣いている、小さくて、不幸せな村があった。
その村では、生きているうちにたった1度だけ、不幸せなこの村を逃げ出すチャンスがある。
それは、25になる年の、収穫祭の晩、海の向こうから、 舟が迎えに来て、その舟に乗ってその村を出ること。
「逃げだして、しあわせになろう」
おかあさんたちもそうしたように。
今年25になる母も父も知らず、その村で育ったたくまは、村の外にきっとあると信じる幸せになれる場所を目指し、この村から逃れようとするが、その果てに待っていたものとは...。
劇団おぼんろの原点であり、おぼんろが掲げている『キンキラキンのラブをあなたに』が、生まれたのもこの『狼少年ニ星屑ヲ』。正真正銘の劇団おぼんろの原点の物語。
当時のまま敢えて手を加えていないので、今のおぼんろと比べると、荒ぶった言葉もあり、切っ先鋭いナイフのような空気もあるけれど、既に今のおぼんろの色、おぼんろの物語の世界が其処にはある。
5年ぶりの再々演。劇団おぼんろに出会って約1年半の私が、ずっと観たいと焦がれていたのが、このおぼんろの原点である『狼少年ニ星屑ヲ』であり、私にとっても思い入れの強い物語である。
いつもは5人のおぼんろが、今回は藤井としもりさんが出演出来なくなり、4人で紡ぐ。
出演出来なくなった藤井としもりさんだけでなく、主宰であり、作、演出、語り部でもある末原拓馬さん、語り部のわかばやし めぐみさん、さひがしジュンペイさん、高橋倫平さんにとっても、大切に愛している物語であることが、観ていて身に犇々(ひしひし)と伝わって来た。
思いが溢れ過ぎて、上手く言葉が見つからず、いつもの書き方と違った書き方になるのだけれど、敢えてこのまま溢れるままに書いてみたい。
物語半ばまでは、笑いっぱなしだったのに、気づけば切なくて、切なくて、居たたまれないほど哀しくて、ぼろぼろと涙が溢れ、嗚咽が漏れそうになる。
周りからも啜り泣きの声が聞こえた。
たくまを助けるために、薬草を取りに戻ったりんぺいが、村を騒がす盗賊と思い込んだ村人たちに石の礫を投げられ続け、自分の家で薬草を握ったままこと切れる場面は、残酷と言えば、あまりにも残酷で悲しいのだけれど、しかしと思う。
最後まで、愛する誰かのため、大切な友のために、揺らぐことなく相手を信じ抜いて、これで友が助かると、友を思いながらこと切れた最後は、りんぺいにとっては幸せだったのではないかとも思うのだ。
そのりんぺいの無償の愛に触れた時、この村から逃れて、キンキラキンのラブを見つけて、幸せになることだけに目を奪われて、一緒に育ったりんぺいと一緒に『キンキラキンのラブを見つけに、此処を出よう』と誓ったことを忘れかけていたたくまの心も、りんぺいによって救われ取り戻すことが出来たのではないかと思ったり。
人はあまりにも不幸だと、メーテルリンクの『青い鳥』のように、幸せがすぐ隣にあることに気づかない。
なぜ人は、失くしてからでないと、大切なもの、大切な人が此処に居たことに、幸せや愛がすぐ隣に、すぐ目の前にあったことに気づかないのだろう。
『大切なものは目に見えないんだよ』とは、サンデク・ジュペリの『星の王子さま』の言葉だけれど、大切なものは目に見えないけれど、確かに其処に在って、その在処はその人の心のなかにあるのだなと気づかされる『狼少年ニ星屑ヲ』。
キンキラキンのラブは、いつだって自分のすぐそばにある。その事に気づけたなら、この世界から戦争や悲しいニュースなんてなくなるのにと思う。
引き裂かれるほどに、切なくて、哀しくて、儚くて、けれどため息の出るほど美しいキンキラキンのラブに溢れた物語。
泣いて、泣いて、泣き切って、外に出て見上げた空は、曇っているのに、何故だかとても清々しく美しかった。
おぼんろの紡ぐ物語は、その結末はとてつもなく哀しくて、切なく見えるのだけれど、その底にはいつも一筋の、一粒の希望の光がある。
その事に、いつもほっと胸のうちが安堵し、温かく包まれ、キンキラキンのラブを掌(たなごころ)にそっと包んで、持ち帰る。
誰の心にも巣食う思いであり、これは、私の物語なんだとも思う。
キンキラキンのラブを胸に抱えて、劇団おぼんろ秋の収穫祭公演、『狼少年ニ星屑ヲ』の幕が下りた劇場を後にした。
文:麻美 雪