天一坊十六番 公演情報 劇団青年座「天一坊十六番」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    メシアはどこに現れるのか
    江戸時代の天一坊騒動を軸にした物語。
    初演の『天一坊七十番』の「七十」込められたものは何なのか、そして、今回の「十六」には何が込められているのか。
    メシアとは何者か、それは舞台の上に現れてくるものなのか。

    (ネタバレボックスに長々書いてます)

    ネタバレBOX

    青年座だから、こってりとストレートプレイかと思っていたら、いい意味で裏切られたオープニング。
    なるほど、近藤良平さんが振り付けしているんだ、と思い出した。

    ダンスシーンがなかなかいい。よく演劇公演で見かける、「役者が一応踊ってます」という感じとは少し違う。
    きちんとしているのだ。個々の動きがとてもいいし、それは全体のバランスがいいからに違いない。プロの振り付け師が携わるとこんなところに違いが出るのだ、と実感。

    現代の作家が戯曲を書いているシーンから始まり、これが演劇であることを明らかにする。
    劇中の主人公、天一坊とは、作家の知り合いイワン・イワノビッチ自身の話を江戸時代にトレースしたものだと言う。

    天一坊は、小鳥の声を聞き、貧しい者に施しをし、欲もなく、どこか仙人めいている。
    そんな天一坊の不思議な魅力に惹かれた人々が集まって来る。
    前半は、天一坊が将軍の御落胤ではないかということで、奉行・大岡越前と絡んでくるのだが、大岡越前も天一坊に惹かれていく。

    そのあたりから話がぐらりと変化し始める。

    イワン・イワノビッチも、あるお方の御落胤である、つまり「神の子」と等しい存在であるという話とも全体が重なってくる。

    天一坊が民衆に受け入れられ、その存在が大きくなってくることで、彼の存在に恐怖を感じた幕府は、彼が御落胤というのは偽りではないのか、という疑いをかけ始める。
    その結果、世の中を騒がせた罪により縛り首になるという。

    天一坊は周囲の人々に別れを告げるのだが、それがまさに「最後の晩餐」となっていく。
    ワインを飲み、パンを与える天一坊。
    天一坊がイエス・キリストになぞられていく。

    「将軍の御落胤であると偽り国を騒がせた」というのは、イエスが「イスラエルの王だと自称し、ローマ帝国に反逆しようとしている」というエピソードに重ねているのだ。
    だから、天一坊を罪人にしたくない大岡越前は、総督のピラトであるということなのか。

    ただし、イエスのときのように天一坊を裁けという民衆はおらず、天一坊も死ぬのはイヤだと言い出す。
    天一坊は「きちがい」であるということで、落着しようとするのだが、彼はその中に収まることができなかった。

    ラストに作家が「荒野で呼ばわる者の声がする……」という一連の台詞を言う。
    もちろんこれは聖書の中の一節で、ヨハネの言葉である。

    ヨハネは「自分はメシアではない」と言う。自分が荒野で呼ばわる声は消えていくものであるということなのだ。
    「メシアを示す声」とともに消えて行く。

    われわれは「メシアを待望しているのか?」
    この作品が初上演されたのは1970年、戯曲の書かれたのが1969年だという。
    60年代最後の年、1969年は全共闘など学生運動が最も参加で、アメリカは国内の反戦気運の高まりから、ベトナム戦争から撤退し始める年でもある。

    そんな中で「メシア待望」という気持ちが出てくるほど、ナイーブな感情があったとは思えず、逆に「メシア」ではなく「大衆」や「世論」と言った多くの人の声が最も力があると信じられていた時代ではなかったのか。

    つまり、「お上」という威光はなく、だから「メシア」への期待もない。
    そういう時代の中で、ウソの御落胤騒動「天一坊」がテーマとっているのだ。

    幕府と将軍は、天一坊を祭り上げる「民の声」に恐怖し、弾圧しようとするという図式が、この時代にマッチしてくるのではないか。
    安田講堂の攻防も確か1969年だったのだから、『天一坊十六番』(戯曲発表時は『天一坊六十九番』)の実際の作家・矢代静一さんには何か予感があったのかもしれない。
    そして、天一坊はどうするのか、その去就について作家が先に進めることができないのはそのためだ。
    混沌と静寂の中へ物語は収束していく。

    『天一坊十六番』の「十六番」とは何なのかと思ったら、上演した年のことを示しているらしい(1970年の初演は『天一坊七十番』というタイトル)。
    つまり、その時代性を矢代静一さんは「六十九番」のタイトルの中に込めていたのだろう。

    さて、天一坊と時代の関係についてはそんなことではないかと考えるのだが、もうひとつ「荒野で呼ばわる者の声がする……」の台詞には別のものも込められているのではないだろうか。

    それはつまり、この台詞は劇中で「天一坊」を書いている作家が口にするのだ。
    作家の「声」は、舞台の上の荒野に響くのだが、消えていくものである。
    「自分はメシアではない」と述べるヨハネと同様、作家の物語も作り物である。しかし、ヨハネがキリストを指し示したように、作家は「真実」を指し示すことができる。

    そして、作品が立ち現れてくれば、作家そのものは消えて行くという運命にあるのだはないかということだ。キリストを指し示したヨハネのように。
    「メシア」=「真実」を指し示すことが、ヨハネ、つまり作家や演劇に携わる人の役割ではないかということなのだ。。

    これがこの作品に込められていた、もうひとつのテーマではないかと感じた。

    天一坊を演じた横堀悦夫さんは、無欲な形で立ち、話す姿が見事だ。「きちがい」となって激高する姿との対比もうまい。
    大岡越前守を演じた山路和弘さんも、声もいいし、台詞を笑いに変えるタイミングもさすがである。
    椿を演じた安藤瞳さんの、美人風からの豹変ぶり、天一坊への憎悪のようなものは恐ろしかった(笑)。
    ダンスと歌の合唱隊は、リズム感もチームワークも良かった。生演奏もいい感じ。

    セットや衣装はシンプルながら、要所要所にセンスが感じられ、小劇場で活躍している人たちの参考になるのではないかと思った。
    特に後ろの幕の使い方、ビジュアル的にもナイス! 衣装の色合いも。

    演出の金澤菜乃英さんは、この作品で演出家デビューと言う。しかし、複雑な作品を、わかりやすく、見やすく、うまくまとめたと思う。なかなかの力量ではないか。

    ただ、『天一坊十六番』としたのだから、2016年をきちんと舞台にしてほしかった。
    戯曲に手を入れるのはためらわれると思うが、「佐藤栄作」ではピンとこない観客も多いのではないか。

    0

    2016/06/17 22:42

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大