演劇 公演情報 DULL-COLORED POP「演劇」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    生きるために演じる、演じることで成長する
    情熱と青臭さ!
    「映画」で“映画”のことを語るように、「演劇」で“演劇”のことを語るのは、少し野暮ったいのだが、それをも含めて「演劇」だった。


    (ネタバレボックスに延々と書いてしまった)

    ネタバレBOX

    DULL-COLORED POPは、たぶん初めての観劇。
    何かのフェス的なもので、短編(中編?)を観て、頭でっかちな感じで、あんまり面白くはなかったので、それ以来観ようとも思わなかった。

    しかし、twitterである人のお知らせを見て、興味がわき、DULL-COLORED POPのHPの次回公演を見た。
    「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」という惹句がとても気になったので、見に行くことを決めた。

    谷賢一さんの“前説”のようなところから、「演劇」は始まった。
    「あー、これ、例の頭でっかちなやつなのかな? やっぱりそうなのか?」と身構えたのだが……。
    続いて、小学生の男子2人が舞台の上へ。
    この2人のやり取りで、そうした危惧は吹き飛ばされたと言っていい。

    “ぼく”役の百花亜希さんと、鈴木役の小角まやさんである。
    この2人のエネルギーというか、勢いというか、噛み合わせというか、“舞台の上の強さ”に、一気に作品へ引き込まれた。

    後はもう、そこには「面白い」しかなかった。

    “ぼく”の家での、他人から見れば、ほんのたわいないエピソードも、“ぼく”から見れば、それなりのことであって、彼の“今”はこうした数々の要素によって作られていくのだな、ということを感じさせた。

    友だちの鈴木くんとのやり取りもそうである。
    見栄のようなものを張ったり、自分のことを見せたり見せなかったりと、すでに彼の中では確実に「(彼の)演劇」は始まっているのだ。

    鈴木くんも同じで「鈴木」であることで、「普通」(どこにでもいる、ありきたりの)という言葉にこだわって、すでに「(彼の)演劇」は始まっていたのだ。

    彼を取り巻くいろいろな出来事だけが彼を形作るのではなく、彼自身が「彼を演じていくこと」で彼が形作られていくということ。

    「演じる」ということは、「対話」でもあるということが、そこに示されていた。
    一人芝居もあるだろ、という突っ込みもしたいところだが、彼を形作るには「対話」が必要なのだ。

    ここが「演劇」なのではないか。
    割としつこく「演じること」について登場人物たちは要所要所で言及する。

    ラスト近くでジャージ先生が“ぼく”に、「俺はお前だ」的なことを言う。続けて「悪の組織の一員になる」的なことも言う。

    それって、「大人になっていくこと」は、すなわち「“役割”を演じていくこと」であり、つまり、「演じること」は「悪」であるということを言っているのではないか。

    しかし、これは「演劇」である。『演劇』というタイトルまで付けた「演劇」である。

    「演じること」=「悪」であるというのは、子どもの“ぼく”から見た大人の姿であって、何かに流されていくことで、自分を偽る=演じることは「悪いこと」であると思ってしまう。いや正しくは「大人になった自分を子どものときの自分が見た姿」なのではないか。「(不承知ながら)役割を演じている自分の姿」が哀しくて。

    さらに言うと、大勢に流され、「自分が本当には思っていないことを、仕方なく口にしてしまう」「演じている=偽っている自分」がいることを自覚した者(大人)が思うことなのだろう。
    自覚があるかないかということは大きな問題だ。

    先に書いた通りに“ぼく”の「演劇」は始まりつつある。
    「ぼくの演劇」は、自我の形成、すなわち、「自分というものを形作っていく」ことにほかならないのではないか。

    「演じること」が悪いのではない。
    「演じること」は「偽りを形作る」ものではなく、「自分を形作る」ものであるということだ。

    「キャラ」を作る、なんていう言葉があるが、「キャラ」を作ることで「自分のポジション」を確保したりする。
    誰もが、自己防衛のために、あるいは無意識にそうしたことを行っているのではないか。

    家の自分と学校の自分、友だちの前での自分がある。
    全部「同じだ」と言い切れる人はいないのではないか。

    これは「人生」を「演劇」にたとえるのではなく、「生きるために、演じること」を、さらに「演じることで、成長していくこと」を見せた作品ではないか。

    先生たちの会話はとてもスリリングで緊迫感があった。
    対して、小学生の“ぼく”の世界は、その「リアル」とは別の「彼にとってのリアル」がある。
    実に“演劇的”で、イマジネーションを見事に膨らませ、虚実がない交ぜになった演出でそれを表していた。

    それは、成長期における児童から少年への端境期でもあり、彼の世界が広がり、虚実で表されているように、狭間でもがく少年の姿なのだ。
    そし、虚実の、この両者の世界の対比が、「演劇」であった。

    そして、第二次性徴的な発育とともに、アレのでっかい作り物が2つの玉を従えて登場するのも、少年期への扉であり、もがく少年の姿でもある。さらに言えば、そうした演出は、「演劇的な楽しさ」でもある。やっぱりこれは「演劇」だったのだ。

    少年の成長と大人の自分との対比、それを「演劇」という手法で、虚実という形にし、さらに時間と空間を交差させて見せていく手法は素晴らしいと思った。

    舞台の上には「情熱と青臭さ」が炸裂していた。
    「ああ! 演劇だ!」と思った。
    作品ごと抱きしめてやりたいほどの「情熱と青臭さ」の愛おしさ。

    久しぶりに観ていて熱くなった。
    意外と言うか、実に「真っ当」で、「オーソドックス」な「演劇」がそこにあったと言っていい。

    キャラということでは、小角まやさんは、アマヤドリなどでのイメージでは、作品中の保健の先生タイプなのだが、小学生・鈴木くんでは、観たこともない爆発感があった。(当たり前だけど)その姿にはためらいも何もなく、実にストレートで、キラキラし素敵であり、ぼく役の百花亜希さんとのコンビネーションは抜群だった。

    百花亜希さんの健気な姿と視線には、グッと来るものがあった。
    特に家のシーンから「何もない」と苦悩するシーンや、“あの子”を連れ出すあたりのスピード感と熱量は素晴らしかった。

    ジャージ先生の東谷英人さん、柏倉先生の井上裕朗さんの台詞のバトルは良かった。井上裕朗さんのねちっこさは、たまらない。本多先生の井上裕朗さんの苦悩を抑えた感じもいい。

    保護者会の代表的な渡邊りょうさんの、最初は柔らかくって、本多先生に詰め寄るところの、目の恐さは、なかなか。モンペにしか見えない大原研二さんも迫力があった。DVのエピソードが効いてきて、恐さが増した。
    ホームレスな人とスクールカウンセラーを演じた中田顕史郎さんも良かった。ツバが盛んに飛んでいた。熱い台詞がいいのだ。

    この日はプレビュー公演だったので、これから回を重ねるごとに、さらに良くなっていくのではないかと思う。

    ラストに谷さん(?)が何か言葉を発していたようだが、聞き取れなかったのは残念。
    オープニングのパートを受けての、つまり、作品を括る大カッコの閉じの部分にあたるのではないかと思ったのだが。

    『演劇』というタイトルは、結局「どうなのよ」と思ってしまった。
    公演中、「演」という単語が出るたびに意識してしまうし、少々直接的すぎないかと思った。
    「演劇を見慣れた皆さまへ。−これは特殊な「演劇」です」も大げさすぎやしないか、とも思ったが、まあキャッチフレーズなのでしょうがないか、とも。

    逆に「演劇好きで、気になるのならば、演劇っぽさ満載なので観たほうがいい!」というのが結論である。

    「演じる」あるいは「演出する」ということで言うと、役者さんや演出の人たちは、この作品をどう見るのかが、非常に気になった。

    劇場に行ってから知ったのだが、活動休止公演だと言う(HPに大きく書いてあったのに、まったく見てなかった・笑)。
    これを見逃すとこの先2年は見られないことになったので、観て良かったと思った。
    2年という期間限定なので、どこかに行くとかなのかな。

    そして、蜷川さんの訃報を、この作品の前説のようなオープニングで知った。
    テレビや写真で見る最近の蜷川さんの姿は痛々しくって、心配していたのだが、衝撃だった。オープニングで観客とともに蜷川さんへ15秒間の黙祷を捧げた。

    まだまだ書きたいことはあるのだが、これぐらいにしておく。

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    2016/05/14 08:55

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