東京学生演劇祭2015 公演情報 東京学生演劇祭「東京学生演劇祭2015」の観てきた!クチコミとコメント

  • 観劇レポ
    学生演劇祭というより、演劇祭というものには、
    なんどか観客としてかかわることも多く、知り合いを通して運営する側にたつ人の気持ちもわかる。

    だからこそ、なるべく客観的に芝居を観たいと思って楽しませてもらいました。

    ネタバレBOX

     学生の演劇祭はこれまで何度か足を運んだことがあるが、今回はそのレベルの高さに非常にうれしくなりました。Aブロックは、the pillow talkさんが静の芝居に対し、創像工房 in front of.さんが、動の芝居をなさっていて、どちらも方向性は異なるものの、世界の描き方は洗練されたものでした。Bブロックは、劇団ガクブチさんは何気ない生き方を、劇団リトルスクエアさんは思想を持った生き方を、そしてどちらもその先の生き方を描いている。すべての作品で単純にハッピーエンドとはいえない社会の本質というか生き様に目を向けている。
     舞台観の話になると、単純な黒舞台に物はないという上で、前提となるのは、客席と舞台の位置関係だけであるので、その状況で空間をどう演出してどのアングルで切り取るかで舞台の雰囲気はまた変わってくる。その点に関しては、普段どういう環境で舞台を作ることが慣れているかという個性が表れていたように思う。
     来年度以降も開催が決定されているとのこと、学生という都合、これらの団体が集まって演劇をやるのは一期一会になる。4つの多様な芝居から、自分の創作に、生き方に、何らかの影響を与えあう、そんな経験になったのではないだろうか。
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    ・観劇した団体の感想(200字以上)
     A-1 the pillow talk(早稲田大学) 「砂」
     空間を用意することから始める。この舞台では、生徒会の副会長が部長会のために部屋の準備をするところから始まる。演劇部、バスケ部、文芸部と陸上部、そして、サッカー部、女子バスケ部。そして、ネオスポーツ部。様々な思いを持った人が、「部費」のために、「話し合い」をする。「生徒自治」、自主性を重んじる校風から、ネオスポーツ部の存在がバランスを壊していく。みんなみんな結局は自分のことしか考えてないけど、やっぱりそれはふつうのことで、そんな日常を描いた芝居なのだ。また、ラストのシーンは、本当に上手に終わらせたと感じた。緊迫した空気とどうしようもないこと。それらを、部長会の終わりとともに、また、一人の人として物事を受け止めるという、いわば始まりに帰っていくような構造には、何とも言えない現実に気づかされたように感じた。
     先生は「思想をもたない権力者」で、部活としては実績が大事で、生徒会は選挙で選ばれていて、演劇部は「中の上」で。その話の背景には、退学にされたカリスマ的なバスケ部の先輩がいて、誰が悪いとか、物語の始まりとかなくて、よく考えてみれば、この物語に主人公なんていないのではないかと思える。その意味で、社会の形を高校生活というものでよく表している。ただ、大学生が高校生を演じているという部分では、機能的な会話が多くて、設定を大事にするならもっとくだらない中身のない会話があってもよいように思えた。
     A-2 創像工房 in front of.(慶應義塾大学)「僕僕僕僕僕僕僕」
     夢と現実。監獄の生活と、「僕」の島。ここじゃないどこかに行きたい。そんな話。
     徴兵制のある世界で、世の中は生きにくいと感じている「僕」の物語、もしくは、少年のいる島に少女がやってきた話、もしくはそんなことすら夢なのかもしれない。演劇なんてそんなものだとも思うが、私は、「胡蝶の夢」を思い出した。なにが現実なのか。
     少女のセリフの「世の中に合わせて、自分を腐らせる」という言葉に、妙に納得してしまった。世界が腐っているなら、私たちはそれに合わせて腐ることも生き方なのだ。
     どんな理不尽なことがあっても、それはもしかしたら夢かもしれない。
     舞台空間としては、段差が高低差を作り、上下関係と遠近感を作る。ダンスやセリフの勢い、転換のスムーズさは時間や空間の演出の技量の高さなのかもしれない。マイクという武器も用いているのは、実に爽快で心地よい。演劇的な無理を突き通すのに、これぐらいのパワーは必要だと思う。けれども、その一方で、演劇的な無理は、劇場の外では通じないから、様々な並行世界を描くには、もう少し落ち着かせる部分があってもよかったのではないかと思った。自分にとって都合の良い世界なんてないのかもしれない。でもこれは、「僕」による「僕」のための「僕」による物語なのだから、これでよいと思う。
     B-1 劇団ガクブチ(立教大学)「∫f(三人兄弟)dx」
     床には布が敷かれ、それは、室内を作り、内と外を作っている。男二人が左右に、女が一人奥に座り込んでいるところから始まる。パントマイムを多用していて、この舞台空間を役者本来の力で挑んでいる。全体的なイメージとしては、舞台空間のバランスをとても慎重に扱っている。照明の明暗や、舞台を左右に分けるなど実に器用である。
     3という数は不安定である。一人と一人が話していると、余った一人は聞き手になる。三人称だってそうだ、自分と相手、あとはそれ以外なのだから。関係の中で自分は不在になるから。でも自分は彼らの中では存在しているらしいから、その「すき間」をみつけるために、「自分探し」にでる。そこで出会う「ドッペルゲンガー」。これは想像ですが、兄弟の交換が受動的出来事ではなく、能動的な出来事として描ける可能性もあったのではないかと感じました。最後の終わり方は、能動的な選択で終わらせている。気持ちのゆがみ、可能性を消すということ、それは、私の居場所を作る物語。
     自分探しという普遍的なテーマを学生の目線で扱うことは、同世代の大学生たちにも、共感しやすい内容で、学生演劇らしいとも思える。自分の存在をどうやって維持してどう形作っていくかというのは大事で、独特のモラトリアムのなかで演劇をしていくなかで、それなりの答えに出会える気がしてくる。
    B-2 劇団リトルスクエア(上智大学)「騒擾の犬」
     下手の障子、下手前に花瓶。上手に布団、上手前に机。時代観をよく表した配置で、服装も昭和初期をイメージしたものになっていた。共産主義と漫画家、それを取り巻く人々の生きざまを切り取った作品。特高に情報を流したスパイは誰かということを明らかにするということを中心に話が進んでいく。共産主義という思想と、それを認めない世界。また、生きるということ、命を大事にするということ根源的な願い。そして、漫画家という表現者の選択。それらが絡み合って、様々な思いが物語の真実を明らかにしていく。
     会話を中心に、世界観に合わせて、話を作り上げていくという基本的な部分がしっかりしていて、どんな人でも話に入りやすい。劇全体として、ろうそくの光を使って開始と終わりを作ることで、独特な雰囲気を作っている。
     漫画家先生と恋人、編集と助手、近所の看護師と、特高。共産主義という思想のためにつながった人々の、明かされていく事実に観客は驚かされる。基本的に編集さんの勘違いで、物語は進んでいく。しかしながら、舞台が単純化されているので、舞台上にあるものから、物語の内容が想定されてしまうことに関しては、まだ、考える余地があったように思う。舞台上の物だけで完結するということは、舞台上の点と点をつないでいくようで、もう少し物語に妄想する要素があってもよいとも思う。

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    2015/10/15 14:17

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