KUNIO12『TATAMI』 公演情報 KUNIO「KUNIO12『TATAMI』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    終演後も残りたい造語「畳む」
    人生を畳む、とは、時間経過とともに広げ過ぎた(自分に帰属する/関わる)空間や、そこにある増え過ぎた物たちを、片付け、元のサイズに戻す。そうして自分が「散らかした」ものを「片付け」て人生を終えるという意味。
    情報は日々流される。諸々のメディアを通じたそれらは時代を追うごとに加速して増加し、接触可能な情報はネットに溢れ返っている。エントロピーは21世紀に入ってなお増大し続ける。
    そうして「大事なこと」の大事さが薄まり、ONE OF THEMにしか過ぎなくなる。これが被災者や原発やオスプレイやヘイトや冤罪を忘れさせている元凶だとしたら、せめて自分が散らかした情報や物は、片付けようという、いじましい公共精神に富んだ「偏屈者」が、主人公である父だ。
    この話は、ずっと「畳もうとする」父と、息子のやり取りで進む。「畳む」ことの限界に突き当たったりもして、物語としては迷走するが、この「畳む」発想の強烈さが、父子の物語の帰趨への注視を続けさせる。
     装置は面白い。TATAMIと印字された一畳スペースの枠に、父は寝る。だだっ広いKAAT大スタジオ一杯に布が敷かれ、何もなくなった時点を表わしたりする。そうした演出は悪くない。
    が、お話のほうに一抹の疑問ありだ。

    ネタバレBOX

     あくまで「たたむ」着想から出発しての話だが‥‥
     父が貫徹しようとした方針は、それなりの動機あっての決意だ。従って、それは理性の働きによってなされることだろう。そうなると、「全てを畳もう」などとパラノイア症状を発して行くのは、畳むビジョンの限界とも言えるが、畳む事の困難さは、先刻承知ではなかったろうか、という気がするのである。
     だから、困難でも「動機」ゆえに貫徹して行く態度を父はゆずらず、息子も最終的には認めざるを得ない、という方がドラマとして自然ではないか、その価値があるはずではないか、と思うんである。
     だがこの劇では父親の試みは破綻を来たし、涙し、息子も父の「惨状」に涙したりするのだ。いや、あの涙は「決別」に対してだろうか。私は思うんだが、歴史ドラマなんかでよく「決意した男」が泣く場面がある。あれは「本意ではないがそれが道理だから」それをやると決めた心情だ。「本意でない」事を強いる道徳や倫理観、制度やしがらみが、昔は強くあったという事で、それは正しいだろう。
     だが、「畳み」はこの父オリジナルのはずだ。もちろん、「そうせざるを得ない」心情に追い込んだ倫理観は、想定はできる。だが、父は心に決めた事に従う「自由」を手にした。体制や無言の力がそうさせたのでなく、むしろ抗う側に立ったはずの父が、なぜ息子から憐れまれ、涙され、自分も涙してしまうのか‥ 結局のところ「たたむ」意志など痴ほう老人の「症状」でしかなかった、という結論が、導かれてしまっているのは、「畳み」という着想じたいの敗北宣言でしかない。
     個人の試みを敗北させるような「現実」への告発を含む、と仮に言うなら、作りとしてはかなり不親切だ。息子さえ理解できなかった「畳み」を、観客は、自分もやってみようとは露思わないだろう。
     そもそもこれは、個人がやる事ではない。散らかしてしまった放射能について言うなら、巨大な金を動かす東電が、被災者への賠償金をけちったり身内の給与を保障したりする前に、まず「たたむ」べきだろう。‥こういう論理を導き出すのを観客に委ねた「超遠回しな」比喩がこの舞台、とは解釈しづらかった。
    劇中何十回と「俺は畳む」を連呼した父の姿は、哀れな姿でなく「勇姿」として焼き付けたかった。 

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    2015/09/07 02:22

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