KUNIO12『TATAMI』 公演情報 KUNIO「KUNIO12『TATAMI』」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    観客の、それぞれの状況によって、異なった深読みもできるのではないか
    特に、この内容を身近に引き寄せてしまった観客には、苦い味がするに違いない。

    (あとはネタバレで)

    ネタバレBOX

    脚本が柴幸男さん。
    何気ない日常の中にドラマを見出す作品が多いと思う。
    ドラマチックなことではなく、日常を見せるという意味でのドラマだ。

    日常は日常であっても、その当人にとっては重要なことであり、また、日常だから忘れ去り、消えて行くものでもある。
    その、一瞬一瞬が残像となってしまう日常を描くのがうまいと思う。
    だからこそ、観客は、作品に自分のことを投影してしまうのだ。

    この作品も、日常的なことで作られている。
    一見、「人生を畳む」ということで、大変なことのように見えるのだが、それを大上段に構えないところから、観客が入り込む“スキマ”ができる。

    それは、全体に流れるユーモアも関係するだろう。

    ある日息子が実家に帰ると父親が「畳む」と言い出して、実際に家具や諸々をかたづけていた。
    そんな2人の会話が作品の中心にある。

    息子世代から見れば親のこととして、親世代に近い人からは自分自身のこととして、あるいは両者についてのこととしてなど、観客の年齢や状況によって見え方が変わるだろう。
    作品が「どうすればいいのか」という問い掛けに感じて、自分の中で現実と(少しだけ)向き合うことになるのだ。

    だから、それぞれごとに深読みすることも可能だ。
    特に、この内容をぐんと身近に引き寄せてしまった観客には、とても苦い味がするに違いない。

    畳んでいく父親と息子を描いているのだが、どうも少しだけ違和感がある。

    それは、息子が父親を訪ねたときに、父親の痴呆が始まっているようなシーンが2回あるのだ。
    もちろん、ラストで明かされるように、父親の記憶を「畳型記録装置(笑)」で何度も繰り返し見ているということもあろう。
    息子の息子に「もうやめたら」的なことを言われてしまうぐらい、彼は父親の記憶を振り返っているに違いない。

    ただ、息子が、親が痴呆になって死ぬ間際までの記憶を見たいと思うだろうか?
    親のそんな姿は見たくないはずだ。
    健康で、自分のイメージにある親の姿をいつまでも見たいと思うのではないか。

    では、どういうことなのか。

    これは「自分の人生を、自分の意思により畳んだ男(父親)」と息子の話ではなく、「自分の人生を、きちんと畳めなかった男(父親)」と息子の話ではないのか。

    つまり、ロボットのヘルパーや、自宅の回りの町ごと「畳んでしまった」というのは、なんか変であり、さらに息子は実家に帰ってきたはずで、隣の町まで人間の足で一週間もかかるような場所に来たという記憶がなく、交番のあったところが急に沼になっているはずもないからだ。

    家を畳むシーンでも、ロボットが手伝うわけでもなく、屋根や壁を父親は「畳んで」しまう。
    演劇的な手法と言えば、そうかもしれないが、父親の中でのリアルと見た。

    それは、「畳めなかった男」の妄想ではないのか。
    つまり、痴呆になってしまい、もう自分では何もできずにいる男の、きちんと自分のいろいろなことを整理できずにこうなってしまったという、後悔が見せたものではないのか。
    痴呆になったと言っても、考えることはできるし、痴呆になってしまったことが苦しくて辛いという感情も、初期にはあるだろう。
    だから、「畳んだ」という妄想をしてしまった。

    だからこそ、歩けなくなり、口の中にガンが出来、食べられなくなってしまった、という現在の状況まで「自分で畳んだ結果だ」と思い込んでしまったのではないだろうか。

    「母と言い張る男」の登場も、「息子と言い張る」、今目の前にいる、まったく見たことのない男も同じだ。
    息子はもっと小さいはずと父親は思っているから、「息子と言い張る大人」と「母親と言い張る男」は、父親にとって同列の出来事になる。

    このように、「畳めなかった男の妄想」であると見てしまうと、この物語はさらに辛いものとなる。

    自分の親が後悔しないで畳むにはどうしたらいいか、自分が後悔しない畳み方はどういうものなのか、それはいつから始めたらいいのか、などという、いろんな想いが脳裏に渦巻いてしまう。

    かつて、心臓が動き出し、身体を動かすことができ、いろいろなことができるようになって今があるので、今度はそれを逆にしていく、というような台詞があった。
    また、畳むというのはなくすことではない、畳んだ後は残る、というような台詞もあった、これがヒントになるのかもしれない。
    ただし、そう思っても実際に行動に移すのには、相当高い壁がある。
    実際、畳める人は極少数派ではないだろうか、多くの人は畳めずに終わってしまう。

    自分の想いがこもっているいろいろなモノ、本や写真や家や、そんなものとどう向き合って、どう処分していったらいいのだろうか。確かに自分が大切なものは、子どもや孫にとって大切なものとは限らない。

    しかし、かたや、モノには記憶が残るのは確かでもある。
    写真など具体的モノに限らず、普段使っていた食器とかペンとか机とか、そういうモノには記憶が残る。
    正確には、それらのモノが媒介となって、残された者の記憶を呼び覚ますのだ。

    なので、劇中に出てきた「畳型の記憶装置」はまさにそれを指しているように思えた。
    実家に帰って、畳の上に寝転がって天井を見上げれば、現実の「畳型の記憶装置」が作動する。
    それは、そんな機械が発明されていなくても、すでに誰の実家にもあるものなのだ。
    つまり、それは畳型とは限らない。記憶を呼び起こすモノは、椅子型かもしれないし湯飲み茶碗型かもしれない。
    それは、モノに記憶が記録されている、と言っていいのではないだろうか。


    素の舞台のようで、そうではなく、ダイナミックさもあるし、照明もいい。
    広い空間に4人の役者だけなのに(ほぼ2人だけしかいないことのほうが多い)、スカスカ感がなく、それでいて、「畳んでしまった家」という、ガランとした空間を感じさせる、杉原邦生さんの演出と美術がいい。
    シンプルな舞台装置が、柴幸男さんの戯曲にはマッチする。

    父を演じた武谷公雄さんと、息子を演じた亀島一徳さんの掛け合いが素晴らしい。
    テンポの良さに、引き込まれるし、笑いも生まれていた。

    家具もなにもない家に、エリックサティの『ジムノペディ』が流れていた。
    サティは、「家具の音楽」と称していたから、それで選曲したのだろうか。
    音楽の家具が、何もない、がらんとした、畳まれてしまった部屋に置かれていた。

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    2015/08/29 08:24

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