「贋作幕末太陽傳」 公演情報 椿組「「贋作幕末太陽傳」」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★★

    ひとつの伝統芸能
     私はかつての前衛劇団が、ひとつの様式に収斂し伝統芸能化することに対して批判的であるが、椿組に関してはむしろその点こそが好ましいと思う。
     それは二つの理由による。ひとつは椿組の作風の背景に、河原乞食や村芝居の伝統、祭などの民衆に内在するエネルギーの噴出のようなものを感じるからだ。様式化され高尚なもののようになってしまった伝統芸能ではなく、民衆の中から必然性をもって生まれた芸能の歴史を背負っているように思う。
     もうひとつは椿組特有の演出技術が、形骸化はしておらず、その方法にも有機的必然性が感じられるからだ。群集劇の手法は無名の民への視線であり、脇役は主人公を盛り上げるだけの存在ではなく、脇役も自立した個である。それが群集劇という同時多発性によって、近代劇の物語構造を相対化している。それは主人公中心主義、物語中心主義という演劇表現への批評であると同時に、力を求める(崇める)社会に蔓延する考え方への批評にもなり得ている。

    ネタバレBOX

     ラストは、舞台上に客席が作られ、その客席から役者たちが本物の客席側を見るというもの。これは二重の意味として提示されている。ひとつは、それまでの物語の続きとして「映画を観ている観客」という場面として。もうひとつは、「役者が観客を見ている」というメタ演劇として。ここで同時に屋台崩しも行われ、それまで行われてきた劇空間の虚構性が暴かれる。それによって、観客は舞台という嘘を見るのではなく、自身の実人生、その物語を生きなければならないということを自覚させられる。
     これを後者のメタ演劇としてのみ捉えると、ありがちな「前衛の常套句」のようにも思えるのだが、前者の虚構世界が持続しているようにも見えることによって、虚構と現実が混在したものとして残る。カタルシスと反カタルシスが同時に押し寄せてくる。芝居の内容が「映画における虚構と現実」というテーマをいったりきたりしていたために、それまで積み上げてきた芝居によって、屋台崩しをしても虚構が崩れきらない。むしろ、現実こそが虚構を内包しているというようにさえ受けとることができる。

     芝居の最中、私の少し前の席で、芸能界の人間らしき人(役者とマネージャーだろうか)が、途中から席に着き、芝居の途中で出たり入ったりを繰り返していた。気が散るのも嫌ならば、芝居を観る者としての不誠実さも嫌だった。出ている役者への義理か何かで来ていたのだろう。自己顕示欲の塊とそれを利用して金儲けという人が芸能界にたくさんいるのは自明のこととして認知しているが、椿組の芝居にもそういう人が観に来るのだということにも驚いた。これは愚痴を書いているのではなく、この客席で行われていた一連の出来事が、不思議と舞台で提示されている内容と響き合っていたと(個人的体験なのだが)思った。

     群衆の1人なのに何かとても気になったのは、横山莉枝子さん。注目されない部分でも丁寧に演じていたということなのか、存在感があるということなのか、、、ちょっとわからないけれど。

    0

    2015/07/15 23:24

    0

    0

このページのQRコードです。

拡大