丘の上、ただひとつの家(全公演終了・ご来場ありがとうございました) 公演情報 鵺的(ぬえてき)「丘の上、ただひとつの家(全公演終了・ご来場ありがとうございました)」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★★

    丘の上にある「家(家族)」は下から眺めていたほうがいいのか
    「家族」は見た目より「丈夫」なのだろうか。

    そして、「母」の重さ。

    ネタバレBOX

    客入れに音楽なく、きついな、と思っていたら、作品自体がそこから始まっていたようだ。
    なかなかキツイ。
    身じろぎもできないほどの緊張感。
    惹き付けられるので、身じろぎすることもないのだが。
    暗転に救われた。
    シーンの長さと暗転のタイミングが抜群なのだ。

    普通、110分程度の舞台で、これだけの暗転があると、苛つくこともあるのだが、暗転で今、舞台で起きたことを反芻できたりするのだ。
    それによって、物語が観客の中で広がっていくようだ。

    帰宅してフライヤーの裏を、あらためて読んだら、作・演の高木登さんの体験が書いてあった。この作品とは違う出来事なのだが、高木登さんは「自由を取って」「会わなかった」らしい。そして、「自分のしなかったことをする人々を書いてみたいと思う」と記していた。

    そこで少しだけ合点がいった。

    劇中、最初から最後まで思っていたのは「なぜ、この姉(愛)は、こんなに脳天気なのだろうか」ということだ。
    結局自分のことだけを考えて、母に会うことにして、周囲を嫌な思いにしていくのだ。

    彼女が母に会いたい本当の理由は最後にわかった。
    しかし、それにいろいろな人を巻き込むことはないだろう、と思ったのだ。

    高木登さんにとって、こんな「迷惑な家族(兄弟姉妹)」がいたら、彼の考えている「自由」を手にすることはできなかっただろう。
    それが彼の考えた「しなかったことをした人々」なのであろう。

    姉・愛には、「母」という存在が、自分にとって大きくなりつつあった。
    つまり、結婚して「母になる」という可能性が出てきたからだ。
    だから、「母」に会って、「ホントはいい人だった」と思い込みたかったのだろう。それは、「母となる自分」が、記憶にある「最低な母」と重なってしまうから、それを払拭したかったのだろう。

    幼いときに別れたきりであり、母は想像の中にしかいなかったので、「実は母はいい人」で「自分を愛してくれ」、さらに「母となる自分を励ましてくれる」のではないかと、どこか(甘い気持ち)望んでいたのだろう。そこをもう1人の妹・遙(はるか)に見透かされてしまうのだが。

    この作品は、「母」の話である。「女性」の話と言ってもいい。
    「命」と直接的に向き合う性だからこその「恐怖」があるのかもしれない。

    この舞台では、一体何人の子どもが殺されていったのだろうか。
    置き去りにされて殺された乳児が1人、堕胎され殺された赤子が3人。
    恐ろしい話だ。

    これらは大切なエピソードなのだろうが、後から後から「実は」と出てくるところが、物語として残念ではある。
    さすがに「弁護士まで?」となってしまった。

    「血」の話から少しそれてしまった気分だ。
    女性弁護士にしたのはそういう意味だったと思うのだが、姉の夫のような立場、しかも「女性」としての立場に徹したほうが、しっくりしたと思うのだが。弁護士の堕胎エピソードまで出てきてしまい、やや話が作り物めいてしまったのは、残念。

    彼女のかかわり方は、最初のほうから、深くかかわりずきていたことが、それの伏線にはなっているのだが、あくまでも「他人」の「視線」がほしかったと思うのだ。

    この物語には、ひょっとしたら「母」は登場しないのではないか、と思っていた。
    なぜならば、ハードルが上がりすぎていたからだ。

    しかし、安元遊香さん演じる母は出てきた。
    化け物でもなく、いい人でもない、丁度良い塩梅の佇まいだ。

    その曖昧さに、母に会いたかった姉妹は少し戸惑ったのだろう。
    徹底的に糾弾することも安心することもできない。

    その不安定さがラストまでいく。

    舞台の上や下にあったイスは、脚がまちまちであった。
    座ることはできるのだが、脚がバラバラなデザインや素材であったり、背もたれが切り詰められていたりと。
    イスの4つの脚は、まるで4人の子どもたち、バラパラのようであって、イスという「家族」のようなものを形作っている。

    見た目よりも「丈夫」である。

    それがこの舞台からのメッセージではなかったのだろうか。

    この物語では誰も得をしない。
    母に会って、なにがしかの結論を欲していた姉も、結局は満足できる答えを見つけられないまま。

    しかし、言えるのは「会ったから」「一区切り付けられた」ということ。

    遙(はるか)姉弟は、自分たちの過ちを、きちんと「言葉」にすることで悔やむこともできたし、「恨みだけ」で生きてきたような、姉も憑きものが落ちたのではないか。彼らの今後の関係についても道筋が見えてきた。
    妹の遙(よう)も、面と向かって母に言うことで、気持ちの整理がついていく端緒を見つけたのではないか。おまけに誰も知らずに抱えていたことまで吐露できてしまった。
    弁護士も、自分をさらけ出し、自らの「過ち」として、「言葉」にすることで、先に進むことができるのではないか。

    それらは、あまりにも「痛み」が伴う作業だったが、それを通り抜けるには、それ相応の苦悩が必要だったからだろう。

    会わなければよかったと後悔する。
    会わなければ、「丘の上にある家」のように、見上げているだけで想像できる「家族」であったのに、と。

    そして、ラストシーンにあった、さり気ない台詞にすべてが示されていた。彼らが「家族か否か」が。

    すなわち、「次、会うとしたら」「母が死んだときだろう」。
    つまり、「葬儀」には「集まる」ということなのだ。それは「家族」として。
    それには、誰からも異論は挟まず、当然のことと受け止めていた。

    「もう会いたくない」という関係であったとしても、「家族ではある」ということは、ここで確認されたと言っていい。
    つまり、「家族になった」ということなのだ。

    父が母に渡してほしいと願った指輪は、ちょっとよさげなエピソードっぽいが、実は、父の恨みの想いが込められているように感じてしまった。
    それは、愛と遙(よう)姉妹が母と別れたのは幼い頃であった(聞き間違いでなければ長女が3歳)。なので、「悪い母」のエピソードのほとんどは、一緒に暮らした「父」からのものだろう。それを幼い姉妹は、自分たちの記憶と勘違いしてしまうことは、幼児だからこそあり得る。
    したがって、父は母を良く思っていない。

    指輪を姉妹に持たせて、母に会わせるということは、父の母への最後の 意趣返しではなかったかと思うのだ。
    それは果たすことはできなかった。
    母はそれを感じることができない人だったから。父は、そんなことは知っていたはずなのに。

    姉・愛を演じた高橋恭子さんは、この舞台にあって、1人だけ育ちが良いように見えてしまうほど、脳天気に見えた。しかし芯の強さも感じる。一番イライラさせてくれた(笑)。そこがうまい。

    弁護士を演じた生見司織さんは、前半クールでありながら、時折見せる「ビジネスを外れた」言動とのバランスがとてもいい。激高しているようで、少しクールなところも。
    母の愛人を演じた井上幸太郎さんは、なんともゲスい感じがいい。
    弟・太一を演じた古屋敷悠さんは、とてもナイーヴな引いた演技が好印象。

    そして、フライヤーである。
    「母の葬儀に集まった家族と関係者たち」である。
    帰宅してフライヤー見て、「おっ」と思った。

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    2015/02/14 06:06

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