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ジョージ・イブラヒム(アルカサバ・シアター)[パレスチナ]× 坂田ゆかり(演出)× 目(美術)× 長島 確(ドラマトゥルク)『羅生門|藪の中』
観てきた!クチコミ一覧
クチコミとコメント
公演情報
フェスティバル/トーキョー実行委員会「
ジョージ・イブラヒム(アルカサバ・シアター)[パレスチナ]× 坂田ゆかり(演出)× 目(美術)× 長島 確(ドラマトゥルク)『羅生門|藪の中』
」の観てきた!クチコミとコメント
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アキラ(1498)
満足度
★★
パレスチナと「藪の中」
「藪の中」の出来事を傍観している者も、同罪である。
ネタバレBOX
パレスチナの俳優さんたちが、芥川龍之介の『羅生門』『藪の中』をもとにした、黒澤監督の映画『羅生門』をさらにアメリカで舞台化された作品を上演するという。
その前情報からは、たぷん「視点(立場)が変われば、見えるものも変わってくる」ということに収斂されるのではないかと思った。
パレスチナで起きていることの捉え方ともリンクしてくるのではないかと思ったからだ。
しかし、演出は日本の人が行う。
それは違ううのではないか、と思ったのだが、果たしてどうなのだろうか、興味津々で劇場に足を運んだ。
思った以上に『羅生門|藪の中』であった。
舞台は「いつ」の「どこ」なのかははっきりさせていない。
させていないが、地名は京都のままであり、登場人物の名前も「たじょうまる」と日本名のまま、しかし取材に訪れた男がことの顛末を語るというところで、現代めいてくる。
3人が雨の中、羅生門にいて、夫婦者が襲われ、夫が死んだという出来事について語る。
その展開はご存じのとおりであり、夫婦者もそれを襲った暴漢も「自分が夫を殺した(夫は自殺した)」と主張するのだ。
ここで、「立場が変われば、見えるものも変わってくる」ということが浮かび上がる。
しかし、「自分が殺した」と訴える人々の「声」が、私には届いてこない。
台詞が日本語でになく字幕であった、ということではない。
「なぜ、自分が殺した」と「主張するのか」あるいは「主張しなければならなかったのか」が伝わってこないのだ。
各々が自らのことを語る前に、その状況を見せる。
そして、どうだったかの説明を延々とモノローグで行うのだが、それが「単なる状況説明」にしか見えない、聞こえないのだ。
「立場が変われば、見えるものも変わってくる」というのは、「見えると主張するものが変わってくる」である。
嫌でもパレスチナ問題とリンクしてしまう。
そうであればなおのこと、その「立場」は非常に重要ではないのか。
それが「切実なもの」として伝わってこなければ、せっかくの戯曲が活かせないないのではないか。
「パレスチナの俳優さんたち」が演じている「意味」を考え合わせると、とても大切なことだっではないかと思うのだ。
もちろん、「パレスチナの俳優さんたち」でなくても、「演劇」として、それはとても重要なことではなかったのかと思うのだ。
「立場」をあえて軽く見せる意味は、今回の作品にはないだろう。
そういう意味合いがあれば別だが、ここでは違うと思う。
だから、ラストの独白も響いてこない。
アメリカの演劇は知らないが、この作品のラストは、芥川の原作も黒澤の映画と異なるところがある。
すなわち、羅生門のところで話す3人さえも、「自分が(夫または妻を)殺した」と言い出すのだ。
これがこの舞台の肝ではないだろうか。
つまり、「立場が変われば、見えるものも変わってくる(見えると主張するものが変わってくる)」の先にそれはあり、自分たちも、夫婦者と暴漢という、「他人の出来事」を、「ただ見ているだけ」と思っているのだが、実は「自分たちも“それ”にかかわっている」ということに、「気づかされてしまう」ということなのだ。
この問題提起は非常に重い。
つまり、「パレスチナ問題」は「パレスチナの問題である」と、どこか遠い出来事と思っている私たち、日本の人たちに鋭く向けられたメッセージだということなのだ。
「パレスチナ」という「藪の中」で起こっていることを傍観している者にも、そこで起こっていることへの「罪」はある、ということ。
「あななたちも、ここにかかわっているのだよ」と舞台の上から叫んでいるのだ。
私たちは、そのメッセージを、この作品からとらえることはできたのだろうか。
彼らは「私たちは新しいアラブ人」であると宣言したのだ。
ということで、とても大切なことを伝えるはずの作品なのだが、その肝であるところの、「他人事ではない」というメッセージを伝えるまでの、それぞれの「立場」の「主張」が伝わってこないことに非常に苛立ってしまった。
3人のモノローグはそれだけ大切なものだったのだ。
演劇作品としても、肝であるはずだ。
演出家を日本の人にすることによって、日本の観客に近くしようと思ったのだろうし、問題を「パレスチナ問題」1点に絞りたくなかったのだろうとは思うのだが、ここはやはり、皮膚感覚で「それ」を感じているであろう、パレスチナの方たちに演出してほしかったと思う。
それは、「アラブからの“見方”」であっても構わない。
いや、日本に来て作品を見せるのだから、「アラブからの見方」でいいと思うのだ。
シーンの展開にあるダンスは、あまり良くなかった。
音楽は歌詞があるのだから、「そのシーン」で「何を歌っているのか」が非常に気になった。
大切に「台詞」のひとつではなかったのか。
歌詞も字幕に入れてほしかった。
ところどろこに「日本語」が入って、少し笑いを誘うのだが、それは余計だと思った。
外国のバンドがライブで「コンニチハ」と言うのと同じレベルだから。
そんな「サービス精神」はいらない。
また、ラストの独白も日本語なのだが、イントネーションや言葉の切り方などがうまくなく、私はうまく聞き取れなかった。
「藪」はいたるとこころにある、という主張が、だ。
字幕があるのだから、字幕で押してほしかった。
日本語でしゃべれば、日本の観客に近くなるわけではない。
美術は非常に美しい。
しかし、舞台の上の出来事との必然性が感じられず、せっかく美術が作品に活かせてないのが残念だった。
演劇としては、褒められた出来ではない。
その原因は、言ってしまえば、「演出が悪い」のひと言に尽きる。
パレスチナの彼らと同じところに立て、というのではない。
それは無理だ。
無理だとしても、演劇としての「肝」を外してしまえばダメだろう。
そこは、パレスチナの人も日本の人も同じはずだ。
『羅生門|藪の中』の面白いところをきちんと伝えてくれさえすればいいのだ。
来年も彼らが来るのならば、「彼らの作品」を見てみたいと思った。
PPTは、非常に美しい美術を担当した2人が出演した。
内容は、驚くことに当日パンフに書いてあることと、ほぼ同じ。
司会者は当然当日パンフの内容を知っているのだから、別の視点から、舞台作品について引き出すべきだろう。これも残念。
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2014/11/08 06:39
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