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炎 アンサンディ
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クチコミとコメント
公演情報
世田谷パブリックシアター「
炎 アンサンディ
」の観てきた!クチコミとコメント
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アキラ(1498)
満足度
★★★★★
原罪・贖罪・復活
沈黙の意味
沈黙の重さ
沈黙の向こう側
ネタバレBOX
重苦しいテーマと表現の舞台だ。
余計なセットや装置は一切排し、舞台の上の役者と台詞に集中させる。
すでに死んでしまった母・ナワルからの遺言で、双子の息子と娘は、戦争で死んだと聞かされていた「父」と、その存在すら知らなかった「兄」を探せと命じられる。
彼らは反発しながらも、母の母国である中東へ旅立ち、2人を探す。
ストーリーとしては、物語の進行とともに、いくつかの疑問を解き明かしていくような、ミステリー仕立てになっている。
すなわち、
「父はどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか」
「兄はどこにいるのか、生きているのか死んでいるのか」
「なぜ父と兄を、今になって双子の娘と息子は探さないといけないのか」
「なぜ双子の娘と息子は、母を嫌っているのか(息子に至っては、母をクソ呼ばわりしているほど)、つまり、双子はなぜ、母に愛されていなかったのか」
そういう疑問、つまり、「ストーリーの中の疑問」が最初のシーンからわき上がり、観客は双子たちとともに、母がたどってきた「彼女の真実」を見に行くのだ。
さらに、疑問は湧く。
言わば「ストーリーの外の疑問」だ。物語の進行とともに、観客の心に染み出てくる疑問と言ってもいい。
すなわち、
「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか。“父は死んだ”と言っていたのだし、兄は存在さえ伝えていなかったのだから、真実は墓まで持っていけばよかったのではないか」
「彼女(母・ナワル)は、なぜそのような酷い目に遭わなくてはならなかったのか」
ということである。
それらが、この作品の本来のテーマと重なる。
そして、それにラストで気づかされる。
レバノンが母・ナワルの故郷であろう。その地名は作品中に出てこないが、フライヤーなどや作者の履歴からそれがうかがえる。
ナワルは十代に愛する男と出会い、身ごもるのだが、男とも子どもとも引き離されてしまう。
それは、宗教の戒律によるものではないのかと思っていたが、彼女や祖母の胸に下がる十字架によって彼女(ナワル)たちはキリスト教徒だとわかる。
そこで、レバノンで起こったキリスト教徒とイスラム教徒との凄惨な戦闘を思い出す。
つまり、「同じところに住み、同じ民族が殺し合う」という、劇中に何度も繰り返される台詞に行き当たるのだ。
さらに劇中では「私があなたの母(父)であってもおかしくない」という台詞が2度も出てくる。それなのに、殺し合うという現実。
終わることのない、復讐と殺戮の連鎖。
これがこの作品のひとつのキーワードとなる。
ナワルが子どもも身ごもったあと、祖母に「読み書き、計算ができるようになって」「自分(祖母)、母、あなた(ナワル)へと続く“怒り(悲しみ)の泥沼”から抜け出せ」と言われる。
そして、祖母は「自分が死んだら、その上には何も置くな」「お前(ナワル)が文字の読み書きができるようになったら、この場所に戻ってきて、墓標に私の名前を書け」と命じる。
これはナワルが双子の子どもたちに遺した遺書とまったく同じであり、それがこの作品の全体を包む。
すなわち、ナワルの埋葬方法は彼女の祖母のそれと同じ。
「棺桶には遺体を入れず裸のにまま埋葬すること、空(上)を向かせるて横たえること、参列者がそれぞれバケツ1杯の水を自分の遺体にかけること、埋めたあと、その上には何も書かず、何も置かないこと、そして、あることを達成したときに初めて墓標を立て、自分の名前を書くこと」である。
なぜ、ナワルは祖母と同じように、そうしたのかが、「ストーリー外の疑問」のひとつ、「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか」の回答となる。
ナワルは、強い女性だ。強くなったと言ってもいいだろう。「言葉」を知ることで、怒り(悲しみ)の連鎖(泥沼)から抜け出すことができたからだ。
連鎖から抜け出すことができたとしても、彼女たちを取り巻く状況はまったく変わらない。
復讐と怒りと殺戮の連鎖の中にいる。
しかし、彼女はそうした連鎖の外に出ることができたので、「復讐のため」に「相手を殺す」ことはしない。親友のサウダが自分の家族や親族が殺されたときに復讐しようとするのをとどめるのだ。
だから、のちにわかる収容所の中で拷問を受けていても、ナワルは歌うことができたのだ。
しかし、彼女も人を殺している。
それを忘れてはならない。
殺した相手は、子どもや女ではないし、民間人でもない。
「連鎖を止めるため」という大義名分はあるのだが、やはり人を殺したことには変わりがない。
人を殺すときには、殺人鬼でもなければ、大義名分が必要だ。
「復讐」も立派な大義名分だから、ナワルの行動も、個人的な復讐のため相手を殺したいと思っていたサウダと同じことなのだ。
ここに「ストーリー外の疑問」のもうひとつ「彼女は、なぜこのような酷い目に遭わなくてはならなかったのか」の回答があるように思う。
それは「人を殺したから」その「罰」として酷い目に遭った、のではない。
もっと根源的な意味であり、世の中のすべてのことを含めた、象徴的なものであろう。
すなわち、「原罪」。
つまり、彼女たちが信仰しているキリスト教における、すべての人が持つと言う「原罪」ではないだろうか。
人は誰しも「罪」を背負っていて、彼女(ナワル)もその1人であり、その罪により、試練を与えられたということではないか。
ナワルは、それに購うために、人々の罪を背負ったのではないか。
ナワルはもちろんキリストではない。
生身の人間であり、「女」であり、「母」でもある。
新しい生命を宿すということが、ナワルの宿命であり、「贖罪」でもあった。
このキリスト教的な感覚は、先の「母は、なぜ双子の子どもたちに、真実を伝えなくてはならなかったのか」にもかかわってくる。
すべてを知ることができなければ、贖罪はない。
ナワルも祖母も、土中に埋葬され、その墓碑銘が書かれるときに、「復活」する者がいる。
ナワルが学び知識を得て、祖母の墓碑銘を書いたときには、「ナワル」が「復活」した。
そして、彼女(ナワル)の子どもたちが「知ったとき」に復活するのは、ナワルではなく、彼女の子どもたちなのだ。
子どもたちとは、双子だけでなく、彼らの「兄」も含まれる。
このところは、正直に言えば、きちんと理解できたわけではない。
「復活」とは何か。
この物語自体、「一体、何が悪かったのか」という問いかけは、無用である。
双子の娘が尋ねた老人の問い掛けと一緒であり、それはどこまで行ってもキリがないのだ。
さらに言えば、孤児院の医師が言う、誰が誰を殺したから、誰を殺すという、復讐の連鎖のようにキリがない。
キリがないから、ここで断ち切ることにして、新たに始めることにした。それが「復活」ではないか。
「知る」ことですべてを受け入れ、「知恵」(祖母が糸口を授けた)で解決の糸口を見つける、それがこの作品のテーマだったのではないかと思う。
ラストに、「父」「兄」がことの次第をすべてを知ることは、彼を非難するためでなく、ナワルが自ら「自分の息子をいつも愛する」と誓ったにもかかわらず、(そうとは知らず)呪ってしまったことも含めて、彼に知ってほしかったのだろう。
それは双子対するものとまったく同じ意味であり、彼も双子と同じ地平に立たせるということである。その「地平」にはナワル自身もいる。
その「地平」とは、すべてを「愛する」場所である。
ナワルの子どもたちも、そこに立って(たぶん)そうできたのではないか。
ナワルがこの事実を知ってから5年間ひと言も言葉を発しなかったのは、恐ろしい事実に言葉を失っただけでなく、その先に行こうとしたからだ。
そしてたどり着いたのが「こうやって一緒になったからには大丈夫」だった。
双子も、その真実を知り、母の沈黙の意味を知ることで、母・ナワルと同じところにやっと立てたのだ。彼らも「沈黙」ののちに。
そして、「母の沈黙」に耳を傾けることができた。
「父」「兄」も、時間はかかるだろうが、そこにたどり着けるだろう、と示唆するラストは美しい。
彼(ら)の席がきちんと用意されてあり、そこに這ってたどり着くのだ。
そして、すべてを包むのは「母」(の「愛」)なのだというラストでもある。
「こうして一緒にいるのだから、大丈夫」というナワルの結論は、彼女の愛した男の最後の言葉「一緒にいることは美しい」であることが哀しい。
「1+1」が「1」になることがあるのか? の問い掛けの意味を知ってしまった双子たちの姿も悲しい。
戦争は、たぶんもうしばらくは、なくならないだろう。
この作品は、戦争の悲惨さを描くとともに、断ち切る強さ、知ることの尊さを描いている。
母・ナワルは強い。だからこそ、自分の子どもたちもそうあってほしい、とすべてをうち明け、それを彼らの手によって明らかにしてほしかったのだろう。
文章で書くよりも、体験してほしかったのだ。
実際に人に会って、話して、土地を体験して。
「罪」と「贖罪」の間には「知ること」があり、「贖罪」と「復活」の間には「赦し」(愛)がある。
ナワルを演じた麻実れいさんは、背筋をしっかりと伸ばしているような強さを感じた。十代のナウルは少し厳しかったが。
ニハッドを演じた岡本健一さんは、スナイパーとしてのクレイジーさが舞台の上で異彩を放っていた。ラストの衝撃が心に響く。
ナワルの友人サウダを演じた那須佐代子さんは、ナワルの唯一明るい表情の時代を助け、健気な印象が良かった。
※キリスト教に関する、非常に薄い知識で書いているので、本来の意味から外れているかもしれないが、そこはご容赦を。
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2014/10/03 16:54
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