「ザ・シェルター」「寿歌」2本立て公演 公演情報 加藤健一事務所「「ザ・シェルター」「寿歌」2本立て公演」の観てきた!クチコミとコメント

  • 満足度★★★

    面白かったのですが…。
    いつもながら加藤健一さんんの説得力ある演技は素晴らしかったです。



    ネタバレBOX

    「ザ・シェルター」は閉所に閉じ込められた或る家族のはなしですが、なぜ核シェルターじゃなきゃダメなの?とか、コンピューターって補助の電源ぐらいあるでしょ?とか、携帯とか無線とか有線の電話とかとにかく連絡をとれる手段ぐらい考えて作られてるはずでしょ?とか、いろいろと些末なことが気になって、家族の会話に集中しずらかったです。古い脚本の再演ということなので、そのあたりは仕方ないのかもしれませんが、今を生きる私たちが観ても違和感のないように演出してくれていたら、もっと観やすかったと思います。「寿歌」でも言えることですが、当時の脚本をそのまま再演するということの意味がわかりずらく、311以降の演目として、もうすこし敏感に世の中の空気を感じて選ばれた演目であることを期待していたので、すこし残念でした。
    あちこちとても面白かったですし、加藤健一さんの間合いにはいっぱい笑わせてもらったのですが。

    「寿歌」については、ただただ生きている、というか死んでいる、というか、目的があろうがなかろうが、どこかへ行くしかないから歩くしかない、みたいな、前へ進む、それだけ、といったあたりが、時代の空気感とか些末なこと、大きな出来事をも超えて普遍的なんだと思えて面白かったです。
    生きながらにして死んでいる人たち、死んでいることに気づけないままに彷徨う人たち、そういう人たちのどこへともなく進む姿を、ただリヤカーを引いて歩くことで、それ以上でもそれ以下でもないものとして表現しているあたり、面白いとおもえたのです。
    ほんとうに大変なときに人はああいうふうになるのだろうな、と。悲壮感なく歩く人の姿にリアリティを感じました。

    2本とも面白かったのですが、もうすこし踏み込んだ内容であって欲しかったというか、古い脚本の再演もいいのですが、今だからこそ、といったものを舞台の上から投げかけて欲しかったと思うのは、期待のしすぎでしょうか。

    という上記感想に、「寿歌」は「市民の安全な生活が崩壊した世界(現在)における役者や戯曲家の営為(観客が亡者だけなのにそれでも上演を続ける座長)という点で今再演すべきと考えたのではないかと」という指摘をいただいて、今「寿歌」が再演された意味をそういう視点から再考してみましたら、すっきりと腑に落ちた気がしました。
    ゲサクの生き様を演劇人、表現者としての在り方とみれば、なるほど、と思えます。表現者として今の世界へなにを発信できるのか、どういう姿勢で発信しつづけていくのか、ということなのだとおもいました。

    そういう視点から、今この「寿歌」を上演した意味を考えると、加藤健一さんの気概のようなものが感じられる演目であったのだと、今更ながらに理解できたのでした。

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    2012/03/12 15:26

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