満足度★★★★★
緑子の部屋
廃校になった学校がアートの総合施設のようになっていて、
その一教室での公演。終演後、劇中で使用されていた絵の作者の方と作・演出家とのアフタートークがあった。
人物と眼差し、場面、言葉、舞台美術、映像、絵がコラージュされていて面白かった。
ネタバレBOX
この劇とはあまり関係がないが、昨日あるサイトにアップされた金融破綻に関する記事を読んだ。カリフォルニア大学バークレー校の社会学者たちが連銀の議事録を分析して、連銀が自らが適用している経済モデルと独立して経済が存在する経済モデルで議論していることが金融破綻を導いたと結論していた。
それで今日この劇を観に行くために地下鉄に乗っていて、ふと新田義弘『現象学とは何か』を思い出した。その本では現象学が破綻するところまで現象学でたどっていた。現象学が不可能なのを示すのに現象学を遂行するしかないのはアニメ『スペース☆ダンディー』のエピソードにでもなりそうだな、とか。前から鳥公園には現象学のような身体に対する繊細なセンスがあると思っていたというのもある。
今回の劇を見てひとつわかったのは、空間を撮った像を同じ空間に映すと鏡に鏡を映したときと同じように入れ子が生じて消失点に収束してゆくのだが、その点の周辺には解像度をあげれば無限に入れ子された構造があるものの、現実世界には解像度の限界があって、その点の近くで構造が壊れているということである。
最後のほうの場面で言うと、大熊と井尾の同時性の番版が外れて、大熊にとって井尾は緑子となり、井尾はデジャヴと現在が壊乱されて自己同一性が崩壊しそうになっていた。緑子が消失点の役割を担っているようだ。
それと餃子の香りがしたりする生々しいところがよかった。前作の『カンロ』を見ていたので、その前日譚としても楽しめた。
(追記4/4)
井尾(緑子)が絵のなかでこちらを見ている人を指して「これは私です」と言って終わったのは、舞台のなかの井尾(緑子)を見ている観客もまた井尾(緑子)であることを予感させた。次第に輪郭を失う入れ子の環のなかに観客も投げ込まれた。
満足度★★★★
反転・身振り
19世紀末に英国で作られたオペレッタ『ミカド』を下敷きにしたオリジナル作品である。
会場には日本に関する様々な表象(『ミカド』のチラシ、三島由紀夫、アニメなど)が載った紙片がばらまかれ、舞台上にも大量に貼り付けてあった。
開演前からスクリーンに『ミカド』の映像が流れていた。
二役を演じた丸房君子さんがよかった。前にひょっとこ乱舞で観たソンハさんが発していたのに近い、強いエネルギーの内包を感じた。今後の幅広い活躍が期待される。
内容は劇団の前作『美しい星』の延長線上にある、と言うか、対になっているように思われる。以下ネタバレにて。
ネタバレBOX
去年のフェスティバル・トーキョーでの『美しい星』は、ベケットの『ゴドーを待ちながら』で神あるいはイエスを待っていた二人が三島由紀夫の『美しい星』を読む、という構造をしていた。
『ミカド』には西洋(英国)の目から見たかなり戯画化された日本の表象があるのだが、それを下敷きにした本作では、反転して、それを新約聖書の内容の表象へと読み換える、あるいは改作してしまうという脱構築的とも言える作業が行われている。前作『美しい星』での構造が反転されていると言える(チラシのデザインがこうしたニュアンスを捉えていて秀逸)(→追記(12/17))。
原作では天皇の表象だったミカドがキリスト教の神の表象に、皇太子の表象のナンキプーがイエスの表象へと転換され、『ゴドーを待ちながら』の二人に対応するティティプーの土人プー・パーとココの二人がイエスを磔にしたユダヤ人たちやローマ帝国のピラト総督、イエスと共に磔にされた盗人の表象になっている。
ティティプーの土人たちにとって神はせいぜい炊飯器を持ち歩く生ける暴君に過ぎない。彼らは神に処刑・去勢されないように法を守っているふりをしていて、法にしたがってナンキプー=イエスを殺す"かのように"身振り(演技)まではしてみたものの実は殺していないから磔のあとの復活もなく、到来した神は一人子が生きていて喜ぶ。それがティティプー版の福音ということのようだ。(→追記(12/18))
電光板にティティプーに伝わる悪魔の話が出ていた。鳥山明『Dr.スランプ』のガッちゃんが実は堕落した地球を滅ぼすために神から送り込まれたのにたまたま着いたところがペンギン村で使命をすっかり忘れている、というのを思わせるような話であった。それはティティプー版の福音と整合している。
思想劇としてなかなか面白いと思う。またナンキプーが苦悩している場面やミカドが現れる場面には美的な強度があった。
追記(12/17) 三島由紀夫『美しい星』における「日本における超越の不在」という問題意識では西洋の超越という観念に自らのUFOや天皇の表象を読み込むことでUFOや天皇に西洋の超越の観念の表象を読み込むことにもなっていた。『ミカド』は西洋から見た日本の天皇の戯画的な表象だが、この作品ではそこに新約聖書の超越の表象を(改作しつつ)読み込むことで新約聖書に天皇の表象を(改作しつつ)読み込むことにもなり、表象の照応関係の入れ子が反転されている。
追記(12/18)この点については保留していたが、ナンキプーのハラキリ(からの復活)は本当と見なしたほうがよいと思われる。それも身振りにしてしまうとイエスの表象からずれ過ぎてしまうし、そのほうが三島由紀夫の切腹の表象というニュアンスも帯びる。
満足度★★★★★
甘露
たまたまアフタートークがある回を観た。
ネタバレBOX
登場人物
益子、井尾、笠原は年が33前後の中高一貫校のかつての同級生。
益子はデパ地下で働いていて最近結婚した。
井尾は美術モデルで実態はニート。
笠原は地味な高校教師で男性経験がない。
大熊と佐竹は同じ職場で働く先輩と後輩。
大熊は工場で働くフリーター。井尾の友人。
佐竹はお笑い芸人志望のフリーター。
菱沼は大熊と佐竹の上司の管理職で笠原の父。
櫟は笠原の同僚の高校教師で益子の夫。
益子と井尾は最近同窓会で再会した。二人で会ってお互いの近況を話している。同窓会に来た地味な同級生・笠原の話をする。
笠原は高校教師で恋愛経験がなかったが、初めて男性(櫟、高校の同僚)とデートをすることになって益子に服の相談をしてくる。
櫟は益子の夫だが、笠原は櫟が既婚者であることを知らない。初めてのデートで既婚者であることを告げられて笠原は自殺する(?)。
大熊と佐竹は多分地下の工場か何かで非正規で働いている。それはたぶん死体を処理する工場か何かのようである。そこの管理職が笠原の父親の菱沼である。
大熊は勤務態度が悪く佐竹に仕事を押し付けているが、菱沼はそれに
気づいている。菱沼は佐竹に正社員になることを持ちかける。
大熊と井尾には肉体関係があるが恋人というわけではない。
大熊は仕事をやめるが尿と下痢が止まらなくなりトイレットペーパーをひきづって死ぬ。
笠原と大熊の死体は工場で処理される。
しかし笠原は再び登場して最初の場面の井尾と入れ替わる(井尾が益子と、益子が笠原と、スピーカーからの声で菱沼が佐竹と、佐竹が大熊と入れ替わっている)。
大筋でこうしたスレッド、断片が抽象的にゆるくコラージュされていた。ゆるいというのはひとつのイベントが因果的に他のイベントを引き起こすことがないということである。同時的に複数のイベントが並存したままで演出上の仕掛けによってひとつの像に交叉するようになっている。映画のように視線が一つではできない舞台ならではの演出である。
舞台の前面はダイニングやトイレなどの人間の生活する場のセットになっていて、舞台の後方のずっと広い空間は記憶、空想、意識下あるいは無意識、それと大熊らがいる工場のように使われている。舞台前方には穴が空いていて地下は工場である。
後方に一度も行かないのは益子だけだが、その代わり益子は上の天井につながる梯子に登ることがあった。
笠原と櫟の会話が後ろの壁上方の垂れ幕(あとで巨大なトイレットペーパーにもなる)に文字で出ていた。それは益子がパソコンに打ち込んでいるかのようになっていて、笠原と櫟の関係を益子の空想であるかのように宙吊りにする効果があった。
トイレからでてきた佐竹と菱沼の会話で彼等の世界の状況や彼らの仕事が死体を処理しているらしいことが垣間見える。佐竹も下痢をしているが、それが大熊と同じ状況なのかはわからない。
笠原と櫟がデートで観覧車に乗る場面では二人が舞台奥の上階の窓のところにでてきた。となりの窓に菱沼がいて客席を凝視していたのは、この後の場面で窓のあいだの垂れ幕を佐竹とひいていくことからすると、客席に処理すべき原料が集められていたということである。
櫟が既婚者であることを告げたあたりで、前面の舞台の穴からテーブルと椅子がせりあがってきて、上手側のテーブルが斜めなって、テーブルのうえで寝ていた井尾がすべりおちた。
井尾と大熊は環境の変化を気づいた様子もなく同じように過ごす。
大熊が、一万年後に人類がいるのかどうか考えている変わった女友達がいるという話を井尾にしていた。井尾が同じことを考えていたので大熊が言っていたのは井尾のことのように思われる。
大熊がトイレットペーパーを引きずって死んでゆくとき、菱沼と佐竹が大きな白い垂れ幕の帯を巨大なトイレットペーパーのように舞台上方奥から客席のほうにずっと敷いていった。それは観客に大熊と同じ運命をたどることを告知しているようだった。客席まで来て方向を変えて後ろの工場のライン(もっと前の場面で大熊、佐竹、菱沼が静かに設置していた)につなげられた。
大熊がトイレットペーパーをひきずる様子を笠原がカメラで撮影していた。その意味はわからないが、大熊が死んだあたりで笠原も下手側の自宅のところで死んでいた。
井尾が斜めになったテーブルの上で猿のような格好でいろいろ喋っていた。終始アンニュイな様子の井尾の頭の中身は支離滅裂であった。益子はそれを梯子の上方から見物していた。
井尾は上演中の大部分の時間、上手側のテーブルにいるのだが、カップラーメンを食べるかテーブルの上で寝ているかしかしていなかった。益子は冒頭の場面で井尾をすごいすごいと言うのだが、彼女が軽蔑するルミネで服を買い漁る女たちは井尾の同類であって、井尾のことも冷たく見下している。
益子と櫟が部屋の壁の亀裂から入ってくるアリの行列の話をしていた。アリを殺しても殺しきれずわいてくるという。櫟はパンやシチューに入ってしまったアリたちをたんぱく質だからと食べている。その話をしている彼等の視線はセットをぐるぐる周回している井尾に向けられていた。彼女の姿がアリと重ね合わされることで、舞台奥の工場のラインで処理されている死体が何になるのかが示されていた。井尾が周回しているところの一部は佐竹と菱沼が巨大なトイレットペーパーを敷いたあとにトイレのドアをはずしてテーブルにたてかけて作ったものであり、セットの一階部分は工場のラインのイメージが重ねられているのである。一方、益子と櫟はそれを上から眺められる2階部分にあがっている。
櫟がアリ入りのパンやシチューを食べるのと井尾が添加物や容器の石油が浸み出したカップラーメンを食べることも平行していた。
益子と櫟は内面を欠いた功利的な存在に見えた。彼らが当面生きのびる者たちである。
井尾と益子が一万年後の未来の人類の姿はどうなるか、日本人は存在するか、といったことを話す。計算上日本人は千年後には絶滅している、未来の人類は今の自分たちから見たら奇形に見える姿かもしれない、生殖能力が衰えた個体を生む種は種として絶滅を望んでいるのではないか、いずれにしてもそれはそれでいいのではないか、といった内容。途中で弁当を食べ始めてピクニックに来ているふうになって、益子が私たち本当はこんな会話してないから、と言う。そこに笠原も合流する。
そこから最初の場面に戻ったかのようになって人物が入れ替わっていた。それの意味は不明だが、夢落ち的な効果は殆どない。これも含めて現実か空想かを宙吊りにしておくような演出がされていたわけだが、現出してくる世界の不気味さは宙吊りにされようもなかった。
最初は下手側の席で見て台詞が聞き取れなかったり部分的に見えなかったりしたので、もう一度上手側で見てデテイルを確認した。
最初に観た回のアフタートークでアウシュヴィッツや311の話を聞いたら、全体を日本人が確実に絶滅(蒸発)してゆく運命であるというパースペクティブのもとで観たほうがよいと思われた。それは内臓が崩壊し、尿と下痢が止まらなくなって、トイレットペーパーをひきずって死ぬことで暗喩されるような運命である(鳥公園の以前の作品でも、月経の血や精液、尿といった身体から排出される液体のイメージが際立っていた)。絶滅にいたる過程で人の死体を工場で食料の原料にするような経過があることが示唆されている。
舞台の前景では夫婦や友人関係がなす人間的な生の薄膜が、地下・舞台奥には非人間的なハードな深層があり、薄膜には穴が空いているが、そこから深層が侵入してくる。
絶滅の予感のもとで人間的な生がいっそう儚い貴重なものに見えつつ絶滅の兆しもそこはかとなく現出している。この劇自体もそんな兆しのひとつになっている。
鳥公園は乞局経由で見るようになったのだが、今回はトイレがあったりするあたりなどが乞局を思わせる。
会場のロビーにちょうど岩波ホールで上映中の映画『ハンナ・アーレント』のチラシがあったのが偶然とは思えない。というのもアーレントは歴史上最悪の大虐殺に加担したアイヒマンにありふれた凡庸さを見いだしたのであった。この劇には類似のモチーフがある。
現代日本の自称哲学者
公演の説明にあるとおり『地下室の手記』のモノローグがネットのストリーミング放送になっている。
安井順平さんの面白さが満喫できた。
ネタバレBOX
もっと病的な人間の話(例えば秋葉原の歩行者天国に車で突っ込んだ人みたいな)かと思ったら、ニコ生の生主にいそうな人の話であった(原作は大学に入った頃に読んだ)。
風俗嬢とのエピソード以外はいかにもありそう。
風俗嬢とプライベートで関係したあとに金を渡してしまったところで漂うダメぽ感がよかった。
チラシにあった「現実との衝突」という要素はないような気がした。
満足度★★★★★
イキウメの公演を見るのは震災後に観た『散歩する侵略者』以来だが、そこでは垣間見えなかった意識があるように思われた。
イキウメのメンバーもよかったが、客演の池田成志さんがとてもよかった。
ネタバレBOX
これまでイキウメで観たのは話としてはウルトラマンで言うと実相寺(ウルトラセブン)ぽい感じで、宇宙人とか異能者がいて、それが既存の社会におかれてどうなるのかというのをとても整合的に考えているように見えた。今回の作品は謎の柱によって諸都市が崩壊した経緯と、そのあとに人々が形成した共同体が交互に描かれていた。異常な状況に適応した共同体から次の社会への萌芽がありつつ、様々な相克があって、そうした考察が現今の日本の姿とも重なって見えた。そうした意識において、これまでのイキウメの作品から「進化」(cf じべ。さんの観た)したものになっているように思われる。
満足度★★★★★
重層的な
豊富なアイデアが投入されていて面白く見られた。
(追記)
一度目は構造のほうに気がいってわかった気がしなかったので、もう一度観てみた。
ネタバレBOX
三島由紀夫は超越が不在の日本で超越をいかに導入するかということと格闘していたと言う。
ベケットの『ゴドーを待ちながら』の2人組がメタ視線として配置されていて、この公演が自己言及されて埋め込まれている。
自らを宇宙人と見なしている登場人物たちは、宇宙人という役を演じている役者の身体性を持っていて、演者としてのメタ視線が埋め込まれている。
またそうした意識でこの作品を演出している演出家の発話もゴドーの二人組が発話して演出家のメタ視線も埋め込まれている。
本編の最後のほうでゴドーの二人組が登場人物たちに台本を配って、役者はそれをそのまま読み始めることで観客が観劇しているというメタ視線も埋め込まれる。
エピローグでは屋上にあがって(というのもメタ視線の隠喩ぽい)、ゴドーの二人組が待つのをやめるかどうかでもめているのを登場人物たちがコロスというメタ視線になって囲んで高みを求める人間の性を描写する歌を歌う。
というわけですべてがメタ視線から演劇化されてゆく感があった。
原作では最後に空飛ぶ円盤が登場してベタに着地するのだが、この作品はベタに着地した感じがないという点でベケット化されている。重層的な演劇化するメタ視線だけで成立していた。
日本には超越がないがゆえにメタが簡単に発生する、といった含意があるんだろうか(でてくる宇宙人がサヨクやウヨクと対応しているように見えた)。それとも超越が不在なゆえにメタが超越と錯視されるということだろうか。エピローグでゴドーの二人組がもめていたのが何かを意味していたのかもしれない。
ちなみに『ギャラクシー・クエスト』という映画では宇宙人が地球人のネタをベタと勘違いして全てがベタになる。
テキストを提示することに依存した結果ややリズムが足りないと思われる。ラップのところが印象的でよかったから、かえってそう思ったのかもしれないが。難解なことを教えてくれるのは殊勝だが、それでももっとポップでいいと思われる。初期の『さららばい・モミの木』はやたらポップだった。あのポップさは貴重。
(二度観た)
一度目は構造のほうに気がいって、あまりわかった気がしなかったので、もう一度観てみた。
今回は三島の『美しい星』自体の家族劇という側面が感じられた。一方でキャーバ危機を背景として行われる核の議論には個人的には全くリアリティを感じなかった(日常的に内部被曝を恐れているにもかかわらず)。
演出上で最初観たときと大きく変わっていたのは客に紙が配られて、演出家がそこにある文を読みあげたところである。演出家が読み上げることで上で書いたメタ視線の取り込みにまとまりがついたように思われる。読みあげた文の内容も面白い(三島『美しい星』第8章の重一郎が羽黒らにする話の一部をベースにしたもの)。人間という存在が反政治的な空虚をもち、それが反政治的な連帯を可能にすると言う。これは劇中の台詞にもあるような政治と美という一見分裂した二つの極(大杉家の兄妹にも象徴される)を架橋しようとした三島に対するひとつの反駁のように聞こえた。
劇中で『小説家の休暇』にある三島の演劇論が言及されていたが、後でそれを読んでみると、この舞台は三島の演劇論を実験する舞台であったように思われてきた。『美しい星』の登場人物たちを宇宙人を演じる演者と見立てることで、それを舞台化すると俳優が俳優を演じるという状況が生じる。『小説の休暇』七月十日にある三島の俳優の定義「芸術家としての俳優は、内面と外面とが裏返しになった種類の人間、まことに露骨な可視的な精神である」に照らせば、内面と外面との反転を再反転させねばならないということである。再反転して何かねじれが生じてくるかのかと言うとそうではない。三島が言う俳優と批評家の類似性から言うと批評の場合は批評の批評も別個の批評として勝手に増殖して収拾がつかない(批評の不毛性)のだが、俳優は肉体があるおかげで「批評と別の方向」をたどる。つまり俳優が俳優を演じても増殖しない。台本を読む俳優を演じる俳優は俳優のままであった。微妙な効果として演技が臭い演技になって家族劇向きにはなるようだ。
以下雑多な印象
・ゴドーの二人の台詞には『小説家の休暇』からのテキストがimplicitにも挿入されていたように思われる。二人は風貌からしてロシアのSF映画『キンザザ』にでてきそうだった。
・羽黒一味が世界的に流行しているPSYの江南スタイルのダンスを踊っていた。
・ダンスと言えば金沢の竹宮の舞いもあった。三島の作には竹宮の後日譚が欠けているように思われる。竹宮もやはり金星人でないと辻褄が合わない。結末から逆に見ると、竹宮と暁子の交流にのみ宇宙人の宇宙人性が表出しているのである。
・劇中でかかっていた曲はYesのArriving UFOに似ていた。
・『美しい星』はウルトラセブンと雰囲気的に似ている。暁子は地球に残ってウルトラ警備隊のアンヌ隊員になるのではないか。
というわけで三島の『小説家の休暇』の演劇論を『美しい星』で実験するという企図のもと『美しい星』で空飛ぶ円盤を待つ人々をベケット『ゴドーの待ちながら』の待つ二人と対照することで、超越的なものをめぐる世界の俯瞰図を示していた。また三島における政治と美のあり方や『美しい星』を通じた技術論にもふれていた。オーバーフロー気味なのは否めないものの、三島由紀夫という人物の総体性を呼び起こそうとする果敢で稀有な試みのように思われる。(ので満足度を4点から5点にあげた)
満足度★★★★★
終わりがなさそうな渋滞
原作は読んだことないが、劇として完成度が高いと思われる。日曜の午後の高速の上りの渋滞で足止めというよくある光景からカフカ的、と言うか日本のスノビズム的な不条理の境界線にいたる。
ネタバレBOX
ツイッターでビューティフル・ドリーマーを想起したという人がちらほらいたので、何か壮大なSF的虚構で収拾されるのかと思っていたら、そんなことはなかった。
渋滞にはまって一晩すごすぐらいならありそうだが、季節が変わってくるあたりで急激に不条理な世界に見えてくる。
何で渋滞にはまったままでいるのかという問いは中にいる限り起きて来ない。カフカの門の前で待ち続けてしまう人々の日常からは非常時が締め出されている。そういう日本のスノビズムの姿が現出。
タイトル通り
前からフェスティバル・トーキョーの出品作をいくつか見てきたのだが、それらに共通する抽象的な前衛さがあって、文脈を共有していないとわかりづらい、と言うか、わかりづらいようにできているというか、前衛さを観賞しあう人たちのサークル向けというか。
それでこの作品だがタイトル通りの作品であった。乞局(コツボネ)っぽいシュールな共同体と女性の身体感が現れた散文とが混在。雑多なまま結晶化せず、宙に浮いたままな感じ。
ネタバレBOX
身体・物が隠喩、言葉が物的、という転倒が起きている。
例えば、アナルセックスの感覚を物理的に説明してみせる一方で、天井に吊るされたバケツから白い液が溢れてダラダラと垂れ続けているといったふうに。
満足度★★★★★
9月21日
台風で電車が止まって三軒茶屋から新宿まで2時間近くかかってやっとたどり着いたというのに、ネタ作りに原発周辺に行ったとかアホすぎる(これを見に来ている自分も含めてw)と最初のほうでは思ったものの、今回も意外な作品だった。
主演の佐藤みゆきさんとドラマターグの中田顕史郎さんがいいです。
ネタバレBOX
ちょっと「脳内ニューヨーク」という映画を想起したが良いドラマターグがついていてよかった。
満足度★★★★★
アンチクロックワイズ
ひねりすぎとも言えるほど台詞と場面が何重にも折り重ねられているのが面白かった。
ネタバレBOX
最新作に対する批評に気を病む作家の葛河。灰色の柱がいくつも出てきて灰色の服を着た青年と女が葛河を見つめる(以下、彼らが現れるときは柱も出て来る)。赤ん坊の形をした人形らしきものを作る妻悦世と人形作りを指導している近所の医者梶原。梶原は悦世が作ろうとしている青年の人形に取りかかることを促す。赤ん坊は青年の原型のようでもある。悦世は葛河の最近の作品の出来が気になっている模様。お手伝いで葛河に気がある希緒が赤ん坊の形をしたものの仕上げ。悦世は希緒に葛河に今朝渡したものについて何か言ってないか聞く。担当編集者野口。赤ん坊の形をしたものは夕食のおかずのようだ。
葛河は悦世が梶原から渡されたメモに出ていたネットの素人批評サイトでも自分の最新作が酷評されていることを知りショックを受ける。バーで知り合った速記者の女満智子を突き落として殺した容疑で滑川らがが事情聴取され、そのあたりから時間の番版が解けた感じ。その女は作家の大ファン。取調べをする刑事安倍と若山。禿げの若山は猫を探している。取調べを受ける野口の話も調書もだんだん変化してゆく。満智子の部屋で葛河が話す小話は、満智子が階段から落ちる白昼夢を見て思いついた後日譚。植物状態の満智子に恥ずかしめる話。満智子はその話を気に入る。葛河は彼女からも最近の作品を酷評され激高し、階段から突き落とす。最新作のなかの登場人物、たぶん、「公園に迷い込んだ素性がわからない女」が葛河の前に現れる。葛原は女と前に会ったことがある気がする。このあたりから時間と言うか因果の連結が逆流した部分を現れてきたようである。野口の携帯の電話がずれ、供述書が消えてゆくなど。安倍は、何かが入ってきた、と言う。安倍は若山にとにかく動けば何かわかると説いて2人で夜の街に出てゆく。
女と葛河は公園に行って「革新的な時間理念を持つ青年」らしき男と会う。そこで観念的な議論。青年が女をふり払ったときに女が右膝を擦りむく。希緒が公園に来て一緒に去る葛河に青年の「今夜はもっとひどいことになるぞ」との言葉。青年が誰か見ているという。それを確かめるために青年と女は公園から出てゆく。
野口は誰かから電話を受けて満智子が倒れているところに行く。満智子は起き上がるが頭が割れている。野口はそれを見て感動。脳がこぼれ落ちて、それを掬った手をぬぐう満智子の姿にも感動。安倍と若山が公園から作家の家に行くと、希緒が手首を切って自殺。安倍らが人形のようだと言う。輪郭がくっきりとしてきた青年と女。女の右膝の傷が悪化。若山と遭遇。女を病院に連れてゆこうとする若山に青年が鉄パイプで襲いかかる。
満智子は梶原の病院に運ばれて植物状態。葛河が作った小話通りの展開。梶原が野口に悦世が人形を作っている動機を話す。夫のように無から世界を作り出したいと言う。(最初のほうで希緒にいてもらうのは夫のためという会話があったような)。野口は既視感を憶える。野口は梶原に人形を作っている部屋を見せてもらいそうになるが、野口が断る。(※このあたりの話の順番を忘れた)
梶原は野口に葛河と満智子の間には何かありそうだと言う。安倍が病院にたどり着くが梶原に役割を終えていると言われて消える。
葛河は病室で、満智子が実は妊娠していて、その子供が後になって自分の前に現れたという小話をする。それが実は満智子だと言う。満智子が植物状態になったのは自分ではなく葛河だと言う。葛河は書けなくなっている。植物状態の葛河に母親の復讐だと言う。悦世が満智子に葛河が父親だと教えた。悦世は葛原に自分はずっと傍にいたからと言う。
病院に寝た女。それを見守る青年。離れて座る若山。葛河も現れる。青年の独白。出てきてひどいことになったと悔やむ。女の独白。あなたがたに会えたんだから出てきてよかったと言う。
葛河が茫然としている後方にいる若山は本を手にしていて、それを葛河に渡すときに、猫はどうなったのか聞く。葛河は観念的な答えをしたような。
朝の食卓。葛河と悦世。葛河の前には妻から渡された(若山から渡された)本が置いてある。
最後にテーブルに座る葛河を他の登場人物が囲み、葛河が彼らを順に見ていって終了。
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基本的な作品構造はマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(長塚圭史には同名の戯曲があるようだ)のように時間が円環をなしていること。因果律がアンチクロックワイズになっているというより円環を通じて現在が未来としての過去を変えてゆく。時間が大きな円環をなしていることによって無数の小さな円環が生じ、アンチクロクワイズな状況になる。
「ホイヘンスの原理」で満ちた時間の環。時間の環のなかで劇自体が作中で言及される「さよふけ何とか」という小説にもなっている。このような何かと何かの重ね合わせみたいな状態は登場人物にも波及して、彼らは現実の人物であるとともに「さよふけ」のなかの登場人物でもある。青年は悦世が作ろうとしている青年の人形であるとともに「さよふけ」のなかの「革新的な時間理念を持つ青年」でもある。希緒は葛原家のお手伝いさんであるとともに、悦世が作った自殺した女の人形のようでもある、それととも「公園を訪れる女」のようにも思われるのだが(と言っても性格がかなり違う)、梶原の病院を看護婦姿で通りすぎることもある。満智子はバーで男を漁る速記女であるとともに、速記女の母でもあり、生きているとともに死んでいる。女は「さよふけ」の「公園を訪れる女」であるが悦世が作った女の人形のようでもある。「さよふけ」は葛原の作品であるとともに悦世の作品のようでもある。
事象が波紋と波紋の重なりで存立しているという事象描像。青年と葛原の問答もこうした描像についてなされていたように思われる。
時間の環のなかで記憶は持続せず残像のようになって消えてゆく。安部がこの点について自覚的な役割。安倍と若山は時間の環から事後にあるかのような形で環のなかに入っているので、彼らの時間性が浮揚したようになる。野口の場合は後になるにつれて「さよふけ」の記憶が残像化して既視感として現出する。若山は猫がいなくなったことの残像、あるいは「さよふけ」のなかで猫がいなくなったことのみに引っかかっている。
悦世と梶原はこの作品のなかでの二つの固定点。彼らの記憶は変様しないし白昼夢も見ない。
葛原は生々しい物語を作り出すのを本領とする作家だが時間の環のなかで悦世や満智子の欲望に時折転移して小話を繰り出すだけの受動的な存在として翻弄されている。
舞台空間は抽象化されていて、セットはテーブルと椅子と、移動式の灰色の柱のみで、しばしば複数の場所が同時平行。
音楽はシンプル。葛原の書斎では時計の音が。満智子が出てるシーンで異界的な音。
照明は明暗・陰影を出す感じで構成。場面転換で暗転。