満足度★★★★
戦争は大多数の「普通の人」が行ってきた。
なぜ彼らはそれを実行したのか、誰が、何が、彼らをそうさせたのか、観客は考えなくてはならない。答えが出なくても。
それが次の戦争につながらないためにも必要なのではないか。
(以下ネタバレBOXに書いています)
ネタバレBOX
1947年、刑の執行を待つBC戦犯の死刑囚が収監されているシンガポール・チャンギ刑務所。
そこには泰緬鉄道建設のためにイギリス兵捕虜を収容していた収容所の看守だった朝鮮人軍属と日本兵、彼らのかつての上官、ニューギニアで戦っていた下士官がいる。
彼らがなぜ死刑囚になってしまったのか、の問いかけは重い。
観た者はそれを考えなくてはならない。
この作品の優れているところは、「誰かのせいにしない」ところではないだろうか。
つまり戦争責任がどこに(誰に)あるのか、というところに向かいがちな物語を「個人の問題」として示したことにあると思う。
彼らが死刑囚になったことの理由には、当然「戦争」があるのだが、その戦争はどうして始まってしまったのか、の答えは「自分が自分にとっての最悪の選択をしてしまった」という朝鮮人軍属・ナムソンの台詞に重なる。
マクベスは3人の魔女にそそのかされたが、戦争をそそのかした魔女はどこにいるのか、外にいるのか自分の内にいるのか。両方にいるのか。マクベスのように。
観客はナムソンの言葉をそのままにしてしまってはいけないのではないか。
すべての登場人物がそれぞれの背景を持っている。
朝鮮人軍属たちも家族のために志願した者や半ば強制的に連れて来られた者もいる。
日本兵も朝鮮人軍属たちに暴力を振るっていた大尉もいれば、文字の読み書きもできないような兵隊もいるし、ニューギニアで過酷な撤退をしてきた下士官もいる。彼らの想いはさまざまであり、そのさまざまさが、日本が行ってきた戦争の一面を見せる。
無実を主張する日本兵は実は凄まじい拷問を「見ていただけ」だと言う。それは無実なのか。
上官に命令されてやったことであるという朝鮮人の軍属には罪があるのか。
はずみで村長を切りつけて殺害してしまった下士官の男はどうなのか。
戦犯の1人ひとりが悪人ということではない。普通の市井にいる人たちである。親もいれば妻も子どももいたりする。
その大多数の「普通の人」の彼らがしてきたこと、なぜ彼らはそれを実行したのか、誰が、何が、彼らをそうさせたのか、観客は考えなくてはならない。答えが出なくても。
「誰が」「どうして」「なぜ」「なぜ」「なぜ」の問いは続く。その問いを考えることが次の戦争につながらないためにも必要なのではないか。
したがって、とても苦しい作品である。
この作品ではチャンギ刑務所の様子もきちんと描かれている。
日中は雨だろうが、太陽が照りつけていようが独房の外に出される。食事は2回。朝はビスケット2枚とお茶。夜はおかゆのようなものだけ。しがって収容者は常に飢えている。
連合軍看守による刑務所収容者への暴行は日常茶飯事。しかも弱い少年兵のみを夜中に集中的に暴行するという陰湿さ。
最も驚いたのは、セットの仕様かと思っていた、独房と死刑台の近さ。
実際に処刑執行される音が収容者たちにしっかりと聞こえたほどの近さだったらしい。
こうしたことが勝者である連合軍看守たちの「報復」として行われていたという。
こうなると「誰が」「何を裁いた」のかがわからなくなってしまう(そもそも「戦犯」とは「何なのか」ということもあるのだが)。
そのあたりも単なる戦争責任を追及するだけの作品とは違うところではないか。
人を殺すことが正当化される戦争はそもそもが歪んでおり、そこには正義はまったくない。戦争が終わっても。
作・演出の鄭義信さんの父親は旧日本軍の憲兵だったことで、戦後「対日協力者」として村八分にされたこともあるという。その鄭さんが描く朝鮮人軍属への想いはまた特別のものがあったに違いない。
この作品は韓国で初演され、中国でも公演が行われ、今回、新国立劇場で上演をするのにあたり大幅に改訂されたという。
オリジナルの形でも観てみたいと思った。
朝鮮人戦犯の1人を演じた池内博之さんは熱演だったが、先に書いたとおりに食事は生きるために最低限しか与えられていないので、カラ元気があったとしても、その後でぐったりする、などという様子が必要だったように思う。ずっと元気なので。
元大尉役の浅野雅博さんは、きちっとしていて日本兵の部下に慕われていたが、実は朝鮮人軍属を蔑み体罰をしていたことがわかるという展開にふさわしい雰囲気が出ていた。つまり軍服をまとっている=建前のみでしか生きられない男が、だ。
満足度★★★★★
「生きていること自体が罪であり、あるいは罰である」のか?
「罪と罰」を背負いながら、それを超越しようともがき苦しみながら、身体と心を動かしていくことが「舞踏」である。
ネタバレBOX
今までは毎回オリジナルの曲だったのだが、今回は全編にクラシック音楽が流れ驚く。
なかなかの大ゲサ感がタマラナイ。
テンションが上がる曲が多い。
アフタートークで「なぜオリジナルの曲にせずクラシック音楽に?」の問いに対する麿さんの答えにはのけぞってしまった(笑)。ここには書かないけど(笑)。
この数年の過去作品に比べるといろいろそぎ落としソリッドな印象。
「生きていること自体が罪であり、あるいは罰である」という根源的なテーマに収斂されていくようだ。
この数年のテーマにも関連し、ここにたどり着いてくる。
今までの作品に溢れていた猥雑さやユーモアは少しだけになった。
新境地なのかもしれない。
全編の底流にあるのはドストエフスキーの『罪と罰』らしいが、それはあくまでも舞台上の入口にすぎない。
麿さん曰く「我々がこの世に生を受けたということは、精子のときに1億の生命を押しのけてきたことである」「ジェノサイドを経てきた」。それは罪なのか、あるいは生を受けたことは逆に罰なのか、そうした答えのない問いが舞台の上で繰り返される。
新国立劇場・中劇場の、広い舞台が無駄なく使われた。
回り舞台が延々回るのを初めて観たのではないか。
あらゆる角度が「画」になり、シーンの切り替えに効果的。
延々と回る舞台は地球そのものと人の営みだ。時間が流れ罪や罰が今も続く。
「身体的には止まっている」シーンが多く、舞踏は単に踊るだけではないことを示した。
白・麿赤兒に紐付けられた黒・麿赤兒。どちらがどちらを操っているのか。
舞台には1人悩む青年がいて、銃を社会に向けて構える。
引き金は引けない。自分の頭に銃口を向けても引き金は引けない。
罪や罰はそんなことではないのだ、と言っているようだ。
白&黒・麿赤兒はそうした諸々の苦悩をすべて背負っているようだ。
罪も罰も背負いながら、それとは超越したところにいる。
麿さんは、シンプルな動きなのに求心力がある。歳を重ねることで昔のような動きができないのだが、それは当然のことである。しかし今の老人の身体も「舞踏」のひとつの姿だ。
黒&白の麿赤兒さんを中心に大駱駝艦のメンバーがそれを囲んでいる様子は、しぶとく生き続けてる舞踏を称えているようであり、宗教的でもある。「罪と罰」を背負いながら、それを超越しようともがき苦しみながら、身体と心を動かしていくことが「舞踏」である、と言っているようだ。
鉾久奈緒美さんの壊れた人形のようなエロチックさ。
我妻恵美子さんと高桑晶子さんとのコンビは健在。やはり良い。
さらに1人で大駱駝艦の猥雑さを象徴した、我妻恵美子さんの強い存在感。ご本人は小柄なはずなのに舞台の上ではひときわ大きく見えた。
満足度★★★★
「どんなことをしても生き抜く」が「戦後の奇跡的な復興」につながったのではないか、を感じた。
三好十郎の作品はどれも骨太である。
したがって生半可には扱えないのだが、今回は自分たち用に脚本を書き直すことで、自分たちができ、観客に伝えられることができる作品に上手く仕上げていたと思う。
ネタバレBOX
少し固いのかギクシャクしたようなやり取りが続き、どうなるものかと心配したが、先生の義理の弟が出てきたあたりからようやくエンジンがかかったような印象。
一気に面白くなってきた。
自らに「一人分の戦争責任がある」として、学校を休職し、ヤミの食料は食べない先生は強いと思っていたが、どうやらイヤなモノから目を背けるようなところがあるようだ。家の建築代金を取りに来た女とのやり取りでそれが現れてしまった。取り立ての女の前から姿を消すように防空壕に降り、対応を同居する女性に任せてしまう。
それが先生の狡さであり、戦中の行動、つまり戦争に反対と考えているのだがそれを表明することができなかった先生の行動に重なってくる。
ヤミを食べないとしても実際は食べているようだし、休職していても歴史の研究をしたいなんてことを言っていたりする。「御用学者」と言われれば、自分には「一人分の戦争責任がある」と言いながらも、それにつばを飛ばしてに反論する。
かつて別の劇団で同じ演目を観たことがあるが、そのときには「頑な人」という印象が先生にはあった。
しかしこの公演の先生には、戦中も戦後も理由をつけて「逃げている」ように見えてきた。
そして家族や周囲には迷惑を掛けているのだ。
先生宅には次々と登場人物が現れてくるが、いずれも戦後の日本人を象徴するような人ばかりである。
特攻帰りで自暴自棄になりながらも逞しく生きる者、特高に捕まり逆に獄中で共産主義を固め、その道を邁進しようとする者、何も考えられずに右往左往している者、正気を失い惚けてしまった者等々。
その人々が混じり合い、ぶつかり合いながら現在の日本を作ってきたのではないだろうか。
先生の主張する歴史の見方(「外からの力がない歴史観」)は興味深い。それは理想であろう。歴史は過去を語るということなので主観が入ってしまう。主観には外からの力は入らざるを得ない。したがって先生の理想は達成することはできないのではないか。
その「理想」を求める先生という存在は、浮き世離れしていると言っていいかもしれない。
先生とその息子たちは驚くほど議論好きだ。議論をしたいだけなのだろう。
その議論は、娘の「大切なのは(議論ではなく)人と人との信頼」という一言にかき消されてしまっている。しかし彼らの耳には届かない。
その議論は今も続いているのではないだろうか。その「問い」の「答え」は未だ見つかっていない。
先生宅のパンをすべて食べ、犬小屋にいたところを捕らえられた男は、一言も発しない。
先生たちの議論をぼうっと観ているだけ。
そして議論の末の乱闘の後、誰にしているのか頭をしきりに下げる。
この男とその様は、戦争という大きな問いに未だ答えを見出せないまま、とにかく頭だけ下げている現代の私たちの姿なのかもしれない。何が悪かったのかを、きちんと突き止めないままに、とりあえず頭だけ下げている姿。
以前観た『廃墟』は2時間半を超えていたと思う。
フライヤーや当日パンフに「上演台本」とあるように、原作に手が入っているようだ。
先生の弟は、少し軽薄なぐらいのノリの良いもっと軽い人だったように思うのだが、その「浮かれた」ようなトーンは控えめになっていた。
先にも書いたとおりに、先生宅に登場する人々は終戦後の日本の縮図のようだったので、新しい文化に触れ、自由になったという開放感から浮かれてしまった人もいたほうがよかったように思う。議論好きな先生と息子たちの対比としてもそのほうが印象深いと思うのだ。
また、長い台詞が整理されていたり、現代の観客が耳で聞いてわかりにくい言葉は削除されていたようだ。
さらに劇場の構造に合わせて先生宅を「屋根裏部屋」にしていたのではないかと思う。
いずれにしても上演台本にしたことで、観客としてはヘンに引っかかるところがなく、作品に集中できたのではないだうか。
つまり、今回は自分たち用の脚本に書き直し、自分たちができ、観客に伝えられる作品に上手く仕上げていたと思う。
先生には静かに「生きること」を放棄しているような「ズルさ」があるのだが、彼以外は「どんなことをしても生き抜く」という気概が溢れていて、それが「奇跡的な戦後の復興」につながったのではないか、ということがうかがえた。
当日パンフには役者名のみで役名がないのでどなたが演じたのかはわからないが、先生の弟役の方がいい感じではあった。あったのだが、先に書いたとおり先生の弟のキャラが少し異なっていたので、後半はあまり印象に残らなかったのが残念。
また先生と2人の息子たちの激しい議論のテンポがとても良かった。しかし激論のときにのみ面白く、そうでないとき(冒頭とか)にもっと観客を惹き付けてほしいと思った。
先生のところに同居している女性役の方の微妙な位置づけが上手く出ていたと思う。
それとシンプルなのだが、微妙な加減で徐々に暗くなっていく室内と、電球の明かりの様子、さらにその中で、観客の観劇の邪魔をせず登場人物をきちんと照らす照明がとても良かった。
満足度★★★
もがき苦しむ若い時間。それを「世界の終わり」で表す。
前半は彼女たちの言葉がイカニモなので「誰かに作られた」台詞を言わされているように感じてしまった。
演出が悪いのかな、とも思ったり。
なんかもやもやしてしまった。
311のエピソードには聞き入ってしまったが、なんか作品全体とのバランスが悪いような。
が、歌は楽しいし、とても活き活きしているのが良い。
文字通り「素顔」になる後半からはとても素敵な舞台になっていった。
彼女たちが彼女たち自身になっていくようだ。
全体がこの感じだつたら、もっと面白かったのではないかと思うのだが。
満足度★★★★★
あひるなんちゃらには外れなし(※個人の感想です)。
いつもはへへへ笑いなのだが、今回は結構大笑いした。
ホントに背中が腫れていた。というかカジモドだよ、あれ。
突っ込みの堀さんはすでに名人芸の域に達しているのだが、さらにその上を行っていた。というか、ヤバイのレベルに(笑)。
&根津さんいい味だよね。
満足度★★★
テンポ良く、ダレることなく見せてくれるのだが、ゴールまでが一直線すぎたような印象。
「頭上10センチ」ぐらいのところを行ってほしかったような……。
ネタバレBOX
余命宣告を受けた男が、直前に参列した葬式から「(あのような葬式ではなく)感動できるような葬式をあげたい」と思い、妻や友人、兄弟を巻き込み、新しい葬式の形を模索していくという話。
なかなか思うようないい案が出ず、苦労しながら葬式のリハーサルまでもっていこうとする主人公たちの悩める姿に、この話の行く先が見えてきたように思えた。
「いろいろ考えても実際は……」という結論だ。
そこへどう向かうのかと思ったのだが、本人や妻がいろいろイメージを出しても現実的な限界やアイデアの不足でなかなかいい企画にはなっていかない。
もし実際に「自分らしい葬式を」と考えたとしても、いままでの葬式の概念や家族、親戚、友人たちの考えや想いから、それほど奇抜なものはできないだろう(劇中でも葬儀社の人が葬儀内で行われることの意味を示していたりしていた)。
その意味で、リアルな反応が舞台の上にあったと思う。
とは言え、これは演劇であるので面白さは必要だと思う。もちろん「面白おかしい」いう意味だけの面白さではなく、「考えさせてほしい」と思うのだ。
それには何か少し足りないような気がする。
つまり、ある一定の年齢になると、葬式に参加することも多くなり、「自分の葬式だったら…」と考えることもあるようになる。その「自分だったら」の範囲を超えない程度の内容がこの作品にあったと思うのだ。
もちろんそれは「ピラミッドのような墓にしたい」とか「感動できるような」と言った本作品の主人公と同じ考えを持つということではなく、思考の過程みたいなものが想像の範囲内にあるという意味だ。それは「リアル」ではあるが、演劇の持つ「リアル(な面白さ)」とは違うのではないかと思うのだ。……うまく言えないけど。
葬式を、人の死を、扱うことで、作者自身にリミッターがかかってしまったのかもしれない。なのでどこかで少しだけそのリミッターを外してみてもよかったように思えるのだ。
彼の考えている式が、冒頭の2つの式に酷似してくるなんてことがあったりもするので、あらゆる呪縛が彼らの「新しい葬式を阻む」というようなものとか……それは違うか…。
とにかく、観客の想像の少し上を描いてほしかった。そう、「頭上10センチ」ぐらいのところを(笑)。
到達する先が見えたからは、単に「見えている」ゴールを目指しているようにしか思えず、面白さはそれほどでもなかったのが残念だ。
以前ガレキの太鼓は春風舎を教室にして観客を参加させたように、葬式に参加させてもよかったのではないか、なんてことも思った。
少し面白いなと思ったのは、主人公の行動(葬式のリハーサル)に関して反対するのは男だけ(友人・兄弟だけ。葬儀社の人は別)というところだ。妻や主人公の友人の妻は積極的に参加していく。私が頭の中で同じことを考えたら、たぶん女性のほうが葬式のリハーサルを嫌がりそうに思えたから。
ラストはなんか気に入らない。
確かに「死」は無慈悲だし、(ほとんどの場合)予測は不可能だ。しかし妻の弟をストーリーのためだけに殺すことはなかったと思う。
リハーサル中に死体役だった本人が息を引き取っていた、というほうが物語の行き着く先としては意味があったのではないかと思う(その「意味」とは私が勝手に考えたもので、作者の意図とは違うかもしれないのだが)。
リハーサルをやってみたものの、実施内容は不完全でまだ決まっていない。さらに本人も迷ってしまっていた。そんな中で主人公の本当の葬式をどうあげたらいいのか、こんな中途半端な形でいいのか、のような葛藤やもやもやが者たちに降りかかってきたのではないか。
主人公の妻を演じた村井まどかさんの、夫に対して冷めているはずなのに、彼のためになんとかしようともがいている姿が健気でもありよかった。
主人公の友人の妻役の石川彰子さんの、積極的さにどこか面白がっているような感覚もよかった。
満足度★★★★★
『紅白旗合戦』のテーマ(卒業式の日の丸・君が代)が装いも新たに再登場なのだが、今作のほうがテンポもまとまりも良くとにかく面白い。
ラスト(解決方法)は想像の範囲内だが、笑わせてラストまで一気に駆け抜ける。
ネタバレBOX
国府台高校という実在の高校が舞台で、その学校の校風が背骨にある。
「卒業式における日の丸・君が代の扱い」がテーマで、生徒と学校側がバトルするという作品。
ただし、「イデオロギーは少し脇に置いての、バトル」というところがミソ。
日の丸・君が代の扱いについて、どうするのかきちんと決まらないまま(学校側も生徒側も「決まっている」とは主張するのだが)式当日になるという切迫感がいい。
卒業式が進行しながら「日の丸を掲げる・掲げない」「君が代を歌う・歌わない」のバトルが続いていく。
生徒と学校側だけでない、PTAや卒業生(この高校はこんな、母校への思い入れの強すぎる卒業生が多そうだ・笑)という第三者が邪魔をするように加わってくる様も面白い。
学生時代、学校の行事に必死になりすぎるのはダサイと思っていた派なので、生徒会長の頑なさには少々イラ立ってしまった私(笑)。
生徒側も学校側も「顔が立つ」ような「理由が付いた結果」に落ち着くことが最終的なゴールということはわかっているので、どう無理矢理にその体裁に押し込められるかがポイントになっていく。
なので、「日の丸・君が代問題」の終着点(屁理屈点とも言う・笑)は見えている。だからそこまでのプロセスを楽しむ作品だ。
卒業生代表の甲田がソレに気がつくか? が後半のポイントになってくるのだが、前半で察しの悪さ(ボタンの件)が伏線になっているので、「気がつかない」というもう一波乱あるかと思っていたが、あっさり気がついてしまったのが少し……。
察しは悪いが、ヘンにところで気がつく、のような伏線にして「そこで気がつくのか!」のようなぐらいなほうが、バカバカしくてよかったかも、などと思ったり。
……アガリスクの恋愛はいつも「片思い+察しの悪さ」で成り立っているような(笑)。
ラストに卒業式実行委員長の一段落感と、新たな火種の勃発感を入れたいのはわかるが、そこのテンポがイマイチ。
ラストまで一気に来たのだから、一拍置いて、キレ良くストンと落としてほしかった。
また「入学式」よりは、もっと切迫した問題、例えば「卒業式が終わって生徒が退場するときの退場方法」などという、すぐにでも対策を考えなければならないものが起きるなどのほうが良かったように思う。さらに屁理屈で対応しようという委員長の気持ちが見えたりするほうが面白かったのではないだろうか。
作・演の冨坂友さんにとっては、母校である国府台高校に対する想いの強さは計り知れない。
とは言え、それが強すぎて逆にちょっと気持ち悪いところまで行ってしまっている(失礼・笑)ようにも思える。
国府台高モノとしてのテーマや題材は、たぶんまだ探せばあるのだろうが、基本は生徒の「自主・自律」的なラインから外れることがなさそうで、既視感が強くなりそうだ。
ならば、今回の『卒業式、実行』で、国府台高モノもそろそろ卒業してはどうだろうか。
ただし、「学生モノ・学校モノ」は別の切り口でまだ鉱脈があるかもしれない。
だとすれば、取材して新たな切り口、新たな学校を舞台にして作劇するという手もあるだろう。
『ナイゲン』がアガリスクエンターテイメントにとってのレパートリーになり(何度観ても面白い)、他団体や学校で上演されるような作品に仕上がっていることを考えると、この作品『卒業式、実行』もそうなる可能性があるように思える。
「イデオロギーは少し脇に置いて」いるのだが、考えざるを得ないということがポイントでもある作品だからこそ面白い。
「卒業式における日の丸・君が代の扱いで生徒と学校がバトルする」作品が、高校の演劇部で文化祭などで上演されるなんていう ことを考えると、少しわくわくする(中高の文化祭で数多く上演できるような仕掛けもアリかも。上演料無料とか。それによって未来の観客が増える可能性もあるし)。
自主・自律をモットーとする学校は、国府台高校だけではないだろう。しかしモットーとして掲げていても学校側の要請&圧力で思うようにできていない学校もあるだろうと思う。
甘いラストとは言え、こんなバトルを観て、演じて喝采を送る生徒たちもいるのではないだろうか。
そのためには少しだけ整理したほうがようと思える個所がある。
この作品で唯一イデオロギー(的なこと)に触れるのが、「PTAのおばちゃん」だ。
彼女は、「国歌・国旗」を卒業式で扱ってほしくないという立場なのだが、原発についての発言などが「笑い」の対象として描かれてしまっている。それはちょっとどうなんだろうか、と思う。「反対している人たち=(困った)サヨクの人たち」という感じを受けてしまうからだ。それがアガリスクからのメッセージなら仕方ないが、そうでないだろうから、そのあたりは公平(バランス?)に扱うべきではないか。例えば、賛成派の「PTAのおじちゃん」が出てきてもいいのかもしれない(副会長のスピーチにそれが現れてきたりとか)。そこがすっきりするといいのではないか、と個人的には思っている。
美術教師役の中田顕史郎さん最高! 焦り進む全体の勢いに抗うような佇まいが、笑いをヒートアップさせた。
卒業式実行委員長役の榎並夕起さんが、キャラ濃い登場人物の中で見事に中心に立っていた。
淺越岳人さんの屁理屈炸裂がなかったのが残念。
式の当日のプログラムがきちんと2種観客に配られたのもいい。
会場に入るときに配る係の人は高校の制服だったらなおよかったかも。
満足度★★★
異次元から繰り出される笑いの波状攻撃。
演劇というよりは長いコントだった。
さて、コントと演劇はどう違うのだろうか?
ネタバレBOX
シュンペーターは著書の中で「馬車をいくらつないでも鉄道にはならない」と言った。
もちろんそれとはまったく関係ないが、「コントをいくらつないでも演劇にはならない」と感じた。
サッカーをやったことのない男からサッカーを学ぶ30過ぎの男のような意表を突いた設定と、思いもよらない返しの台詞は、常に異次元から繰り出されるようで、結構笑った。ナンセンスな笑いのセンスの良さ(笑)がある。
しかし約100分、そんな感じが続くと一本調子にさえ感じ始めてくる。意表だけを突いてきているようにも思えてくるので。
笑いながら退屈するという感覚。
コントと演劇の違いって何だろうと考えた。
フロム・ニューヨークの今回の作品を観るているとなんとなくそれがわかってきたような気がする。
コントもコメディ(演劇)も笑いが大切なポイントの1つである。
しかしコントは「刹那の笑い」のような気がしてきた。その場その場だけで笑わせるというものだ。
とにかく笑わせるということ。
それに対して演劇の笑いは、演劇作品という全体を組み立てるための1つの部品となっているのではないだろうか。
なので、全体の構成・バランス、あるいは伏線的な仕掛けが演劇には計画され、作品(物語やストーリー)が組み立てられ、笑いが配置されている。
それは「物語やストーリー」というよりは「テーマ」と言ったほうがいいかもしれない。
もちろんコントであったとしても、全体の構成やバランスはあるだろうし、伏線的なものを前提として笑いもある。
しかしそれは演劇のそれとは異なるもののようだ。
また、コントにもストーリーはあるのだが、それは「笑いのためのもの」である。
コントは、笑いを重ねていっても物語・ストーリー・テーマは組み上がっていかない。たくさんの笑いが生産されていくだけだ。
「後に何も残りません」と宣言する、笑いを柱とする演劇もあるが、「後に残らない」なりに物語・ストーリー・テーマが組み上がっているように思えるのだ。
フロム・ニューヨークは、確かに面白い。面白いのだけど、短編をいくつか見せてもらったほうがよさそうだ。
思いついた笑いにふさわしい設定をそれぞれつくり、その中で思いっきり笑わせてほしいと思う。
満足度★★★★★
ジエン社は初めて観たときから好きになったカンパニーだ。
刺激的でワクワクさせてくれるし、帰り道にいろいろ考える題材をいつもかならず与えてくれる。
今回も面白かった!
(以下、かなりの長文になりましたが、ネタバレBOXヘ)
ネタバレBOX
会場に入って驚いた。
「庭」がそこにあった。たぶんコンクリートむき出しだったり、柱が真ん中にあったりするような会場だと思うのだが、それを上手く利用して庭になっていたのだ。
「魔界の扉」が開き、日本列島は北のほうから森が浸食し始めている。すでに埼玉の北部は森に覆われてしまった。森に入る人間は胞子によって死んでしまう。扉の中からは追われた(?)妖精と呼ばれる人のようにものたちが出てきた。その妖精たちが町で生活できるようにこの庭で教育をしている。この庭には2人の妖精がいて、女性はチロル、男性は鈴守と名づけられた。
そんなストーリー。
「魔界」だの「妖精」だのという言葉が出てくるので勘違いしてしまいそうだが、ファンタジー感はゼロの作品である。
ジエン社らしい、考えさせられる会話劇だ。
「森」「胞子」は何かと考えると「北から浸食」「触れると死ぬ」ということから、(これは後々違うと思ったが)「放射能」ではないかとすぐに思ったが、というか「ナウシカ」だよね、とも思った。
いずれにしても「森」という「自然」のカタチをとりながら、文明の歪みによって生まれた禍々しきモノではないかということが推測できたりした。
舞台上の設定では、「森」は劇場の「入口」のほうにある。すなわち私たち観客はすべてが「森」からやって来たということなのだ。
これは「現代文明・文化」にまみれた人々が私たちであり、もう一歩進んで読めば、この「演劇作品」と「私たち」は「庭」で交流(学び)をするということで、舞台側(劇団側)から「教育」を受けようといしている、ということを意味しているようにも受け取れる。
今回の作品はタイトルのままで、妖精たちが物の「所有」を(この)庭で学んでいる設定。
数作前ではとんでもなく「同時多発的な会話」が進行していた舞台もあったが、今回も同時多発的ではあったが、かなり整理・抑制されていて、きちんとストーリーがつかめるようになっていた。
「わかりやすくなった」と、一般的な感覚で言ってもいいと思う。
ジエン社は、同時多発的な会話などが独特の「危うさ」を生み(それを意図し、表現しているのかどうかは知らないが)、それが彼らの持ち味のひとつであったが、今回はテーマに合わせることでそれが整理されいていたように思う。
何人かの会話の途中で別の誰かが介在し、その結果、別の時間の出来事(シーン)に移行していることがわかるという仕掛けだ(演劇的なリテラシーがないと理解が難しいかもしれないのだが)。
こういうシーンがレイヤーのように重なった会話のやり取りの中で印象に残っているのは、会話の相手が別のシーンにすでに移動していて、「私は誰に話しているのか」という台詞が発せられたところだ。この感覚が実は表に見えるテーマ「所有」と関係してくる大切な台詞であったことが後にわかってくる。
庭では妖精たちに元教師たちが町で生活できるための「教育」をしている。妖精たちに一番欠けているのは「所有」という概念だということで、それについてのやり取りが頻繁に行われる。
私の持っているペンは誰のものなのか。そのペンに名前が書いてなかったら? そのペンから私が離れていたら? どれくらいの距離が離れていたら? どれくらいの時間そこから離れていたら? どうしてそのペンが私のものなのか? 等々が繰り返される。そして「他人の所有物を触ってはいけないのは、なぜですか」の問い。
「所有」には「パーソナルスペース」などということも関係してくる。男の妖精・鈴守は、女性の教師に何度ダメなのだと言っても触れてしまう。言葉の接触と肉体の接触の違い。
「所有」を巡るいくつかのエピソードが出てくる。「庭」を所有していると主張しているクルツという女性。彼女は「自分の庭」ということを根拠にして「ここで出すお茶は熱くなくてはならない」と言い続ける。「所有」の概念はそうした行動に関する「規制」のようなものも含むのだ。
また、別れた男・エムオカを探しに来る女性は、付き合うという「所有」が頭から離れず、「きちんと別れる」ことを求め、さらにその象徴としての2人の住まいに残る2人の「所有していた」荷物のあり方についても繰り返し語る。
そこで思うのは、「この庭で誰が(所有を)学んでいるのか?」ということなのだ。
つまり教えている教師たちが一番「所有」について学んでいるのではないか、ということ。
妖精(特に女の妖精・チロルから)の「なぜ」「なぜ」「なぜ」の繰り返しによって、教師たちは深く考えることになる。
実は台詞にもそれがあった。すなわち教師・ハリツメから発せられる「考えてみよう」という、妖精に向けられた問いだ。その問いは、実は延々と「妖精の側から発せられていた」ということなのだ。
さらに言えば、当然、我々観客も「人生」というモノまで含めて「所有」についてあらゆる角度から考えさせられている(学んでいる)。
そして男の妖精・鈴守からは「所有」から発展した「人と人との距離(感)」を学んでいるのではないか。「空気」とかも含めて。
「パーソナルスペース」を超えてきてしまう鈴守。そして「言葉(会話)」によるコミュニケーションについても、それは関係してくる。社会に出るための教育をしている元教師が「自分は社会不適合者」であると吐露したりする。
「ウソでなければつきあえない」みたいな展開になってきたときに、「ああジエン社だ!」と思ったのだが(笑)。
このように「異文化」が触れあうときに、「文化を伝える」という構造が浮かび上がってくる。
「これって何かに似ているな」と思った人も多いのではないだろうか。
昨年公開の映画『メッセージ』だ。ざっくりそのストーリーを紹介すると、異星人が地球を訪れる。主人公である言語学者が彼らの言葉を理解する。「言葉を理解する」とはその言葉で考えることができる、ということであり、それには「文化の理解」が不可欠。それによって主人公は異星人たちの時間の概念を獲得する。
この作品の中でも「妖精たちは自分たちの言語を持っているのではないか」「異星人たちの文化(文明)」という台詞がそれにつながる。
それがラストシーンにもつながっていく。
妖精たちは2人だけでいるときに「歌」を歌っている。それによって「交信」しているようなシーンもあった。
「歌」が彼らの「言葉(のようなもの)」ではないのか。
つまり、ラストで元教師のハリツメが「その歌を歌った(言葉を獲得した)」ということは、妖精たちの「文化を理解した」のではないかということなのだ。
彼女はそれにより「すべてを知った」のではないかということ。
そう考えると森に入ると胞子によって人は死んでいるのではない、ということが考えられる。したがって「胞子」は「放射能」のメタファーなどではないではないか。そんな気がする。
森に入って死んだ人々は、自分の持ち物をすべて捨てていく。衣服も脱いで死んでいく。
それは「所有」を捨てた最後の姿ではないのか。モノだけでなくすべてを捨ててしまった。「命」までも。
森の深くに入っては戻ってくる、エムオカが死んでいないのも彼がアッチ側の人だからなのかもしれない。
しかし、それ(所有の概念を捨てること)は理解の一部ではないか、ということもある。一部しか理解できてないものは「所有を捨てて」「死」に至るのだが、すべてを理解した者はそうはならない。
それがハリツメが見せたラストであり、本当にすべてを理解した者の姿ではないかと思うのだ。
つまり、ハリツメは時間を掛けて「チロル」と「鈴守」によって「教育」されていたのだから、きちんとすべてが理解できた。単に森に入って行く人々とはそこが違うのだ
ここで面白いのは町に出たチロルが逆に町(私たちの社会)に浸食されているところだ。
すでにコートなどを着込んでいるし。ミイラ取りがミイラになったというところか(笑)。
2つの異文化が接触して、どちらかにどちらかが変わるのではなく、互いが互いに影響・浸食していく。つまり新たな文化の誕生を描いているのが、この作品ではないのか、とも思ったのだ。
思えば、日本もペリーに「開国シナサーイ」と言われてからこっち、西洋文明・文化を取り入れて独自の文化を作り上げてきたように。
なので、エムオカが鈴守が蒔いた種を育てようとするのは、そうして「新しい文化・文明」の誕生・育成を彼(ら)が行っていくという姿なのであろう。後ろの席の人は見えなかったかもしれないが、エムオカが水をやると土の中から芽らしきものが姿を現していた。それがハリツメやチロルなのかもしれない。
役者は妖精・チロルを演じた鶴田理紗さんと同じく妖精・鈴守を演じた上村聡さんの自然さがとても良かった。
元教師・ハリツメを演じた湯口光穂さんのちょっとした緊迫感の表情もいい。同じく元教師・当麻さんはやっぱり「ジエン社だなあ」と思わせてくれる。クルツを演じた蒲池柚番さんの頑なさもいい。
妖精の鈴守の命名は「なんとかだけど日本的名前にした」みたいな台詞があったと思うが、その「なんとか」の部分を聞き逃してしまったのが悔しいし、気になっている。
どうでもいいことだが、終演後、ドリンクチケットを無駄にするのももったいないので、2階のカフェでお茶を注文した。やけどするほど熱かった(私は妖精ではないので普通に熱すぎたのだと思う)ので、妖精気分を味わった。熱すぎて味がわからないので念のため聞いたら「普通の緑茶です」とのこと。緑茶でこの温度はどうかなと思いつつ、会場を後にした。
満足度★★★★★
笑いの中に、私たちが内在する逃避=孤独を見事に描いた。
MUの最高傑作の誕生かも。
(以下、ネタバレBOXに長文書いてます)
ネタバレBOX
毎度のことながら舞台設定だけで勝利宣言が出てしまう、MUらしい設定。
『このBARを教会だと思ってる』のタイトルが良すぎるのだ。
バーなんかに行ったことはなかったとしても、なんとなく頷ける感じがするではないか。
バーのイメージってそんなんですよね。
バーとか名物ママのいるスナックとか、いろんな人が何かを吐き出す場所、というところに目を付けたのが吉の作品。
もちろん今までもそうしたテイストが含まれている舞台や映画などの作品はあったと思うが、作・演のハセガワアユムさんはそこに「なぜ彼ら(彼女ら)はそのような場所で吐き出してしまうのか」を合体させ、現代に生きる人々の「逃避」の姿を描いた。
かつてハセガワアユムさんは、「虚無」な世界観が爆発しているような作品を生み出していたと思っている。
「虚無」にはこの世に疲れ・諦めた人々の顔があった。
でも「生きているのだ」「生き続けていくのだ」という姿もそこにはあった。
それの回答となるのが「逃避」ではないのか。
「虚無」からの「逃避」。
生きるための、ひとつの術(すべ)である。
本作の登場人物たちはすべて「逃避」している。
「帰宅拒否組」の4人に限らず、バーのマスターでさえも実は逃避しているように思える。
「妻のためにしてやっている」バーも禁煙も、たぶん言い訳であり、彼の「逃げ」のように聞こえてしまうからだ。
かつては「逃げるな」「立ち向かえ」的なマッチョな社会があったが今は違う。
「逃げてもいい」という社会になりつつあるのではないか。
逃避することは「悪」ではないのだ。
この作品は「逃避」を描きながら、そうしている彼ら(彼女ら)に寄り添っていく。
無様でもいい、と言ってくれているようだ。
「逃避」先からまた「逃避」していく男たちもいたりする。
「帰宅拒否組」はバーのバイトの子目当てなのに、一歩先には踏み込まない。いや「踏み込めない」。「女が怖い」とまで吐露させてしまっているが、それを責めるわけではない。
逃避の先も「リアル」なので、現実を避けたい人はまた「逃避」するしかないのだ。
「逃避の先」には「告解」があった。
それがバー「さざなみ」にあったのだ。
誰しもが薄々感づいていたが、バーでは知らず知らずに告解していたのだろう。
それが白日の下になったのが「さざなみ」の告解ブーム化だ。
バーは吐き出すだけの場所であり、実再に本音を「告解」しているかどうかは、たぶん問題ではないのだろう。アドバイスが欲しいわけではない。わけではないので「告解」であり、「告解している」という状況が大切なのだ。
バーのマスターの役割は、何でも屋と同じ。吐瀉物を掃除したり、トイレの詰まりを直したりすること。
それは「ただ聞くだけ」で行われる。
何でも屋の台詞は、実はマスターの気持ちを代弁しているのではないのか。
「吐瀉物に親近感」「(針金のハンガーをいじって)こんなモノで簡単に流せる」「吐いている女に惚れる」とかは、まさにマスターの台詞であってもおかしくはない。
逃避している人たちは「孤独」でなのではないのだろうか。
ある一定以上の間隔を空けて彼らは点在する。一見関係があるように見えてもリアルが怖い人たちなので、距離は保っている。そんな緩い関係を続けられる場所が「バー」なのではないだろうか。
音楽にこだわりがあるMUの公演にもかかわらず、客入れの音楽がないのには違和感を感じた。
その理由は公演が始まって理解した。ギターの生演奏があったからだ。
4つの連作短編からなる作品ということで、各パートごとにギターが入った。
各パートのつながりがなかなか憎い。
薄暗がりでは単に人が入れ替わるだけではなく、例えば3話の終わりでは、きちんとガールズバーの女の子たちが、自分たちの仲間が汚してしまった(実際には汚れていない)バーの掃除を行ったりするのだ。このときの彼女たちの衣装が憎い。ガールズバーの衣装の上にコートを羽織っているのだ。なので、お店から帰る前に寄って掃除しに来た、みたいな雰囲気が出てくる。それを薄暗がりの中で行わせるセンスの良さ。
4つの連作短編と称していたが、普通に1本の長編と言ってしまっても良かったように思うのだが。
それにしてもハセガワさんの台詞のセンスは相変わらずナイスである。
とてもテンポがいいし、特に台詞の返しがとても活き活きとしている。
台詞の中では、結構微妙なところを突いてくるのだが、それには下手に突っ込みを入れず、流してしまうところがなお面白い。
合唱の口パクのところとか、ガールズバーのママが繰り返す「アムス」とか、違法サイトにアップされるほど、とか(笑)。
その上、単に面白いだけではなく、いきなりグッと突いてきたりする台詞があったりもする。
例えば、第2話のラストでバーのバイトの子が「自分を本当に好きな人を知りたい」という台詞が哀しいし、さらにマスターの「自分だって誰も好きじゃない」が追い打ちをかけるたりするのだ。
この第2話は、この2人の台詞がとても効いている。
帰宅拒否組の大騒ぎに大笑いして終わらず、彼らの会話で閉めるところがハセガワアユムさんの上手さである。
ここには思わず唸った。
盛大に逃避していた妹が姉に支えられ、婚約者を待ち、そして……というラストは少し甘いな、とも思ったのだが、「逃避」することは「悪くはない」ということが中心に感じられた作品で、逃げ回っていた彼女が少しだけ現実と向き合おうとすることに対して、ハセガワアユムさんは彼女を見捨てなかったということではないか、と思ったのだ。それは「優しさ」とは少し違うような感覚。
小さな決断と勇気に対して、背中を押してあげたのではないか、ということだ。
「虚無作家」(笑)のハセガワアユムさんが「虚無」の先に見たものかもしれないとも。
その一瞬は、新しいMUの誕生とともに、MUの最高傑作が生まれた瞬間かもしれない。
姉役の古市みみさんがやはり男らしい(笑)。南アのミラジョボビッチというよりは『グロリア』の女主人公の感じか(笑)。他人(妹)を支えられる生命力を感じた。2本の足できちんと立っているという。
バイト役の森口美雪さんの小動物感・ちょっとしたアイドル感がいい。2話のラストに見せる表情が特にいい。
帰宅拒否組のメガネ男役の浜野隆之さんの頼りない気持ち悪さ(失礼・笑)もいいし、ガールズバーの姉御的な存在役の真嶋一歌さんの、どーんと来い的な強さを見せているが、動静監督の話に出る弱さ・哀しさの滲ませ方が上手い。
他の役者さんたちも、キャラがぴたりときていて本当に楽しい。
バー「ささなみ」は三茶にあるという設定だったけど、三角地帯のところやヴィレッジヴァンガードのほうの商店街でもなく、太子堂の住宅地に入るあたりにありそうなイメージがした。
満足度★★★★★
二重三重にも怖さと気持ち悪さが募る作品。
それを歌舞伎町で公演する。
(以下ネタバレBOXへ。恐ろしく長文になってしまいました)
ネタバレBOX
劇場に入るとTシャツ姿の女性が舞台に座り込んでいる。どうやら監禁されているようだ。
しかし、観客は最初は舞台の上を見るのだが、そのうちに慣れてきたのかガヤガヤと話をし出す。「そんな雰囲気じゃないだろう」と思っているのだが、いろんなところで会話が弾んでいたりする。私は席が前方ということもあるのか、とてもそんな気分にはなれない。
彼女たちは、これから始まる公演の中に登場する女性たちの行く末を暗示しているのか、現在進行形の状況ではないのかと思っていた。しかし、どうやらそうではなかったようだ。話が進みそれに気づく。
舞台は軽めの前説を挟みつつ始まる。
河野と仲元がなんか気味悪いなと思っていたぐらいだったが、和田の登場で一気に気味悪さが怖さに変わっていく。以降、結構気分が悪くなる展開に。「胸くそ悪い」展開だ。
さすがに彼ら3人を見て、「いやいやいや、こんな人はいないでしょ」と思いつつもも、この数年実際に起こった事件が思い起こされ、そうとも言い切れない怖さがグイグイと迫る。
このストーリーの上手さは、狂っている和田1人だけが加害者として出てきたのであれば、「キチガイが起こした、かなり特別な出来事」としてストーリーを見ていくことになるのだが、そんな男があと2人も出てくる。
彼らに共通するのは、「自分が好きな女性は、自分のことも好きである」と信じていることだ。そして三者三様な異常さがある。
この「自覚なき男たち」の狂気に観客がブラックホールに落とされていく。
さらに「行間を読ませる」のが上手い作品でもある。
例えば、仲元が意中のOLに話しかけても何も話してこない、というのは、仲元と彼女のそれまでの関係を表している。すなわち「この人には何を話しても自分の都合のいいようにしか受け取らない」「だから怖いから何も話さない」ということ。「婚約者がいる」と言っているにもかかわらず、訳のわからないことを言い張る仲元も、相当な人だということがわかる。そういう「行間」のようなものが随所にある。
和田の口から映画『卒業』が出てきて「それはないだろうって」と、つい笑ってしまったが、どうやら和田は本気らしく、それをごく当たり前のことのように話している姿には、背筋が寒くなった。「どこまで狂っているんだろう、この人は」と、笑えなくなったのだ。
このあたりの狂気の潜ませ方が、和田を演じた江原大介さんが上手すぎて、本当の狂気を感じてしまった。
後から後から彼の口から出てくる、酷い妄想と思い込みに気持ち悪さが一杯となっていく。
女優を拉致するときに鼻歌で聞こえてくる『卒業』の主題歌『サウンド・オブ・サイレンス』。この歌詞がこの作品とリンクしているのがまた怖い。「Hello darkness, my old friend I’ve come to talk with you again Because a vision softly creeping」。まるで自分の闇の中、妄想の中にいる女性に語っているようではないか。
不思議なのは河野と仲元である。彼らは、どうやらかなりいい会社、大企業に勤めていることがわかる。こういう思い込みで生きている人は、普通の生活でもうまく人とは接することができないのではないかと思うからだ。和田は完全にアウトのようで、すでに両親や犬猫、その他を手に掛けているらしいし。ただ、河野の異常さの一端はあとで見えてくる。
彼ら(河野と仲元)は、和田の提案、女性の拉致監禁にあっさりと同意する。完全にアウトな男・和田の論理、「坂本弁護士事件は自白がなければ迷宮入りだった」が怖すぎる。それはのちの弁護士の論理と、実はリンクしていた。
河野は、中盤で彼の気味悪さ、そして妻の、のちの行動の伏線となる行動が出てくる。それはもう家庭内レイプ。妻への接し方が彼の本性を現していて、その一端を見せることで、彼の異常さのすべてを見せていた。彼の家のイスの、背もたれの板のようなものが外してあったのは、家庭の崩壊を示していたのだろうか。
拉致監禁された被害者の女性たちは、「周囲にそんなことを知られたくない」という思いで、事件を事件化しない。確かにその気持ちもわからなくもないが、この展開にもやもやしてしまう。男たちの行動や考えに気持ち悪くなっているのに、さらにこれである。舞台の上も観客の心も、すべて行き止まりの中にいる。
行き止まりで出口が見えない中で、とにかくこのストーリーの着地点はどこなのか、と思いながら観ていた。
1人の女性は殺されてしまっているし、もう1人の女性はストーカー行為がエスカレートして婚約破棄、職場も辞めている。
ラストで女性たちが行動に移すのだが、一瞬、その展開は「安直だな」と思った。しかしその後にもう1人の女性が登場してから「やっぱり、これしかないか」と落胆してしまう。どこまでも救いがない話だ。
人も法も本気で狂っている者に対しては、まったく無力なんだということ。
ただ、これが現実だとすると彼女たちのような行動に出ることはまずないだろう。つまり現実は、和田や河野や仲元のように狂った男たちの歯牙にかかり、苦しんでいる女性が誰にも知られずに多くいるのではないか。そしてそれにまた気分が悪くなる。
ラストで行動に移すときに弁護士が「死体が見つからなければ8割は……」と言うのだが、実行犯で一番ヤバイ和田の「坂本弁護士事件は……」の考え方と根っ子は同じということに気がついてしまう。つまり、「人が死ぬ」という重大なことに対しても「社会の抜け穴」があるということだ。
それはすぐ先に書いた「現実だとすると…………苦しんでいる女性が誰にも知られずに多くいるのではないか」という思いを強化していく。
そして、3人の男たちに手を貸すことになる、興信所の女性は一応、調査対象の女性との関係を聞くのだが、それは単なるアリバイのようなものでしかないということも、被害者をさらに追い詰めていることを思わせる。
ラストに女性たちが行う行動は、「あり得ない」ことなので、現実はもっと厳しく、そして救いのないことになっている、ということが最後の最後に観客に突きつけられたのだ。
「私たちに出来ることは何もない」という現実。それを突きつけられた私たちはどうすればいいのだ。
幕開き前、3人の監禁されているらしき女性たちは、劇中の3人の運命や状況とは違うことにラストに近くなってから気がつく。彼女たちは、たぶん和田がそれまでに拉致監禁した女性たちだろう。和田も「経験から大丈夫」みたいなことを言っていたので……。冒頭から真っ暗闇だったのだ。
救いなしの、こんな話なのに小劇場ネタでかなり笑わせた(それにしても……ラゾーナ川崎……)。小劇場ネタで笑わせてくれた小山も、結局のところ和田・河野・仲元予備軍でしかなったのに笑ってしまった気まずさ。殺されて、自分の死体を見下ろす小山。彼の諦念のような目は一体何を見ていたのだろうか。後悔なのか。
和田は溶鉱炉を「ブラックホール」と称していた。しかし後半になり「ホワイトホール」と言い出す。それは彼によれば「再生の穴」らしい。そこへの憧れは、和田も少なからず自分の行いが過ちだったことへの気づきなのだろうか。それとも「金づる」の両親を殺害したことの後悔なのか。
自分の死体を見下ろす小山と、再生したい和田、天は彼らをも許し給うのであろうか。
和田を演じた江原大介さんはもちろんのこと、役者さんたちは皆良かった。役に入り込みすぎるとトラウマになりそう(笑)。
劇場を出ると歌舞伎町のラブホ街のど真ん中。
開幕前の異常な場面(監禁されているらしき3人の女性)を前に、ガヤガヤしていた観客席ともそれは重なる。「お芝居」「他人事」の感覚。
しかしガヤガヤと多くの人行き交う中の、そこここに誰にも気がつかない闇があるのかもしれない。
男性である私が恐怖する舞台だったので、これから歌舞伎町を抜けて帰宅する女性たちの恐怖は計り知れない。
満足度★★★★
Bチーム
アトリエだけど、ラビット番長は初めて。
シンプルで上演時間も短いのに、非常に良くまとまった戯曲だと思う。
ネタバレBOX
現代と過去が上手く交差し、ラストの桜の木も効いてくる。
特攻で死んでいった若者たちが、想いを託した桜の木が、今は切り倒されてしまっている、という設定が憎いほど上手い。
その想いをどう伝えていくのか、という現代のシーンにも上手くつながっていくのだ。
残念なのは、演出。
ぴりっとしていない、というか役になりきれていない役者がいる。
台詞が嘘くさく感じてしまう。
例えば兵隊の役なのに、だらりと全身の力を抜いて立っていると、全体の印象が崩れてしまう。
そういう細かいところまで神経を行き渡らせないと、会話している、そこにその人がいる、という基本的なことが薄れてしまい、「お芝居やってます」になってしまうからだ。
アトリエ公演で、入場無料・カンパ制ということは、本公演までの間に役者たちの感覚を鈍らせないためではないかと思う。
そういう劇団(ラビット番長&演劇制作体V-NETも)の姿勢も評価に値すると思う。
満足度★★★★★
歌とセットといろいろな小道具のセンスの良さ。
生演奏で、最高に楽しい歌とダンスの舞台。
(以下はネタバレBOXへ)
ネタバレBOX
本のようなカモメが飛び、水兵さんたちが観客を迎えた。
シルビア・グラブさんの歌が上手いのは当然としても、「海」に関する合唱が素晴らしくて素晴らしくてグッときた。音楽劇ではなかなかない感じ。
ジョン役の佐藤真弓さんが良かったし、二本指と黒犬コンビの澤田育子さんの表情とか高山のえみさんとかもとても良かった。
子どもの観客をきちんと意識した演出だったので、子どもさんたちも楽しめたと思う。
シンプルなセットや美術もセンスがある。
青い水の入った瓶とか。
美術と映像は、青山健一さんという方が担当している。
演出のテンポ、緩急も上手く、前半40分、後半40分に無理なくまとめていて、飽きさせない。
子どもだって飽きなかったと思う。
ラストはジョンが手に入れた宝を観客全員にもお裾分けしてくれる。
俳優たちが直接舞台を降りて全員に手渡してくれるのだ。
おはじきが入ってるセンスの良さ。
そして宝島の地図には、10年後の2028年青蛾館の招待券が付いている!
10年後自分はどうなっているのだろうか、なんてことを考えた。
たぶん観客全員が考えたのではないかと思う。
特に子ども連れの親御さんたちは、我が子を見ながらしみじみ考えたのだと思う。
これが本物の「宝物」だ。
素敵な「宝物」をもらった、いい舞台だった。
2部の始まりに撮影会があった。
のぐち和美さんが真珠貝のような中に横たわって出てくる(たぶん『ヴィーナスの誕生』笑)。角度を変えて撮影しやすくしたり、子どもさんを舞台の前に呼んで撮影させたりと、サービス満点。
のぐち和美さんの最後の挨拶は泣ける。
満足度★★★★
しりあがり寿さんの書き下ろし新作。
今川義元を主人公とした音楽劇。
ゲーム的な戦国モノで、今川義元が信長になぜ負けたのか、までを描く。
(以下はネタバレBOXへ)
ネタバレBOX
大人数が舞台の上にあってもいい感じに揃っているし、舞台の上がカラフルになったりして、また大きなヤツが出てきたりと、ワイワイした感じで、とにかく楽しい。
舞台全体が活き活きしている。
今川義元はゲームをしている(ゲームをしている感覚なのか?)。
金(米)、力(兵力)のポイントをアップして自国を強くしていこうとする。
さらに、名声(京都にあやかる)が必要と感じればそれをアップしようとする。
目指すは、「戦のない平和な世界」。
……ん? ここに引っかかった。これが世に言う「積極的平和主義」なのか? 笑。
本人はゲームしているのだけど、実際に戦になれば人は死ぬ。
田畑や町も焼かれたり荒廃したりする。
それを「ゲーム感覚」でやられてしまってはたまらない。
今川義元は、家臣たちや母にいろいろとけしかけられて、ポイントをアップしようとしているようにも見える。
本人は部屋にこもりゲーム。
そして悪夢の予知夢。
それを避けたいがため、自分のポイントを上げゲームを続けようとする。
今川義元が領民にも家来にも慕われて、いい人のように描かれているが、実のところ自分(たち)以外のことを考えてない人にも見えてきた。
しかし、ラストでようやく現実が見えてくる。
信長に敗れ、死屍累々の有様を目にするのだ。
ゲーム世界から現実に目を向けたというところか。
しかしすでに遅すぎた。
ところが今川義元はなぜ信長になぜ負けたの答えが、「ゲームのルールが変わったから」となってくる。
その「理由」には「おおっ!」と思った。
思ったのだが、まだゲームの中から抜け出せていないのだ。
やはり今川義元は現実がまだ見えてないようだ。
つまり今川義元は負けるべくして負けたのではないか、と思ってしまった。
今川義元役の井村タカオさんがやはり歌が上手い。
定恵院役の坂井香奈美さんはぐいぐい来ていて、歯切れもいいしキレもいい。
映像はモロに天野天街風だったが、この作品用にもう少しオリジナリティが欲しかった。
ダウンタウンブギウギバンドは、いくらなんでも古すぎるよ。
満足度★★★★
2作品とも短いながらそれぞれ中心的な役者さん(佐藤達さん&異儀田夏葉さん)の上手さが堪能できた。
ネタバレBOX
『アイドルスター☆トール!』@スタジオ空洞
佐藤達さん凄い! ぴっくりするぐらいアイドル!
渡辺裕也さんのなんともな感じも良すぎる。
笑った笑った。
見終わっても「マママママー」のメロディがリピートする。
映画には見ながら一緒に騒いでしまおうという「応援上映」っていうのがあるのだから、『アイドルスター☆トール!』でも「応援上演」やってほしい。一緒にサイリュウム(もしくは道路工事用のやつとか)振ったり、「いつものコール」とかしてみたい(笑)。
『OLと課長さん』
あひるなんちゃら節。つまり、困った人たちに突っ込む的なやつね。
異儀田夏葉さんがやっぱり上手い! 間とか、その時の表情が凄い。
30後半のアイドル志望っていう台詞で、たまたま私の隣に座っていたアイドルスター☆トールさんのほうを見たくなる気持ちをぐっと抑えた。
満足度★★★★★
ストレートプレイでもなければ、イマドキの小劇場的な実験的作風や最先端風でもない。あえてジャンル分けすれぱアジア的ファンタジーモノなのだが、その作風は唯一無二の存在。
すべてのセットや装置(組み体操!)だけでなく風や雰囲気までも身体で表現する。
その身体的表現に圧倒され、ニコニコしてしまう。
本人たちは「組み体操×演劇」と称している。
単純で1本道をただたどるようなストーリーではなく、サイドストーリーもあり、物語自体の展開も面白い。
クセになる劇団。
演劇なのに、本編上演後はNG集がある。
ホントに面白い!
満足度★★★
B班を見た。
高村光太郎たちが回想する光太郎の亡き妻・智恵子の話。
ネタバレBOX
いきなり高村光太郎の大きな声での独り言から始まる感じだけあって、脚本がイマイチ。
なによりも物語が薄すぎる。
『智恵子抄』を刊行しようというオープニングで、「東京に空が無い」から始まったので、てっきり『智恵子抄』と重ねながらストーリー展開していくのかと思ったが、意外とそうでもない。
そしてほぼすべての場面転換が暗転。演出でどうにかならなかったのか。
役者はいいキャラが揃っているのにもかかわらず、それが活かされてない。……しかし梅酒を何杯飲んだらあんなに酔っ払うのか(笑)。
役者たちが固く、「台詞」をタイミングで言っているようにしか見えない。
モノローグが多い割には効果が薄い。
先に書いたように場面転換=暗転なので、役者の状態がうまく保てていないのではないだろうか。
これらはすべて演出の問題ではないか。
チエコ役のあかねさんが魅力的になってきていたが、「普通」でいるシーンがあまりにも短い。
チエコと光太郎の日常がもう少ししっかり書き込まれていれば、チエコの精神状態が悪化してからの2人の関係がしっかりと伝わったであろうし、いろいろ足りないので、ラストも感動できない。
ついでに書いてしまうと、ドアの開け閉めが多い割にはドアの作りが雑。どうしても目が行ってしまうのに、トイレのドアのようなドアノブ。
ミラーボールのような照明も、なんか変。
2回出てきたが、意図不明。
いろいろもったいなないと感じた。
満足度★★★
誰のための演出だったのか。
「眠気を誘う演出ですから……」的なアナウンスが永山さんから冒頭ある。
ネタバレBOX
なので、ぎゅうぎゅう詰めで、例の幼稚園児用のイスに座っていたので、こっくりこっくりして転げたりしたらマズいなと気を張ったのだが、そんな心配はなかった。
それは、役者が上手すぎて一挙手一投足から目が離せなかったからだ。
初っ端から、身体の動かし方というか、身のこなし方というか、そんなところに「むむむ」っとなった。
皆上手いのだ。
たぶん無音だったり、薄暗い中での薄暗いスポットライトがいい効果となっていたりして、役者さんたちの動きがとてもきれいに見えていたということもあるかもしれない。
肉体的なつながりを見せるカップルのほうだけでなく、奥のカップルもエロティックに見えてくる。
さらに、無音に会話が「見える」ような感覚もある。
「役者が上手く見えた」のには「理由」があったのだと思う。
今回の役者さんたち全員を今まで舞台で見たことあるわけではないのだが、それぞれが目立ちすぎることなく、きちんと全体にハマっているのだ。
前半は、台詞=ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコで、沈黙=ピアノ曲という構成だったように思う。
なので、「音楽がきっかけになっていて、役者さんたちはそれに反応している」のかと思っていたら、そうでもなさそうだった。
物語がなかなか見えてこない。
照明のようにすべてが薄明かりの中にある。
そもそも台詞があまりない割には、情報が多すぎる。
「南北(分断)」「川」「川の氾濫」「彼岸と此岸(つまり川は三途の川か?)」「目の見えない妻」「2組の男女」「妻の失踪」(=探す夫=イザナキとイザナミ?)「妻の死」「不明の子ども」「2組の男女を隔てる位置にいる女」「老婆のような少女(逆ではない)」「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド&ニコの曲」「歌った歌(何の歌かは忘れてしまったが)」「水が垂れる音(最初はまったく気がつかなかった。丁度人の頭が重なっていて見えなかったので)」「カセットレコーダー」等々。
それでも、それらから見えてくるのは「喪失」。
つまり「喪失の物語」がここにはあるのではないか。
どうやらこの作品は「物語を見せてくれる」ではなく「そこに観客の気持ちを投影させる」ではないのか、と少しだけ思った。
思ったが、先に書いたとおり「情報」が多すぎるので、もうひとつ投影しづらい。
単語の抜けた台詞があったりした。
それは「何が抜けているのか」が「あとでわかる仕掛け」になっていて、それで物語の全容が明らかになるのかと思ったりしていたが、どうやらそうではない。
次に変な発音の切れ目がある台詞回しがあった。少し「地点語」(地点特有の発声)に似ているが、それには及ばない。
ここまで来てなんとなくわかってきたことがある。
それはすべて「俳優への負荷」なのではないかということ。
この作品がどのように組み立てられたのかはわからないが、作・演出の永山智行さんが1人で作り上げたものではなく、俳優さんたちとの間で、一緒に作り上げたのではないかということだ。
つまり、「無言の会話(肉体の会話)」「無言のときの気配」「感情の爆発」「音楽とのコラボ」「単語の抜けた台詞」「発音の切れ目が変な台詞回し」などはすべて「俳優への負荷」ではなかったのか。
さらに先に書いた「多すぎる情報」は、俳優さんたちに与えられた「設定」であり、「多すぎる」のに「無言」だったりするので、それを表現していくというのも「俳優への負荷(課題)」だったのではないかと思うのだ。
したがって、「俳優が上手すぎる」と感じたのは、そいう「試練」とも言える「負荷」を超えてきた先にあった姿ではなかったのだろうか。
だから、この作品の「演出」は「役者のパフォーマンスを最大限に引き出すため」に行われたのではないかと思ったのだ。
だから、物語を深読みすればできるし、眠気を誘うと思えばそうなりもする。
……しかし、「なぜ」わざわざ冒頭で作・演の人が、「眠気を誘う演出」と言ってしまったのだろうか?
「眠くなること」が目的ではないだろうと思うのだが、自分で演出しているのだから、自分でなんとかできただろうと思う。
それは、ひょっとしたら「役者のための演出だから」ということをつい吐露してしまったのかもしれないなどと思ったりも……。
ラストに手を振るのは感動的になるかと思ったら(最初無音だったりして)、意外にダサいな、と思ってしまった(失礼)。
FUKAIPRODUCE羽衣ではロックな大人の哀愁がある日髙啓介さんが色っぽい。青☆組では健気さを感じさせる福寿奈央さんの感情の高まりには新しい一面を見た。大池容子さんが豹のようにシャープ。
満足度★★★★★
財政破綻、高齢化など日本の社会問題の縮図(あるいは未来)と言われている夕張が舞台。
フライヤーの中央にデーンと書いてある「まちを弔う」が直球ど真ん中であった。
冒頭の話の中で語られていたように、「夕張」について知っていることはわずか。
大夕張、三菱炭鉱、そしてつい最近の2014年に湛水されたシューパロ湖(ダム)のことすら知らなかった。
そのシューパロ湖には集落が沈んでいることも。
(以下、ネタバレBOXに長々書いてしまいました)
ネタバレBOX
ダム湖であるシューパロ湖を臨む展望駐車場には、ダムで沈んだ町にあった記念碑などが移設されていると言う。
舞台の中央には、その1つが置いてある。
それがまるで夕張という「まちを弔う」「墓碑」のようだ。
作・演出の山田百次さんが客入れからほうきで舞台を掃いたりしている。
時間になり、自己紹介、夕張の紹介、前説・注意事項、そして自分の役名などを紹介しながらゆるりと本編に入る。
本編に入っても主な登場人物については、山田さんから役名と役者の名前を告げられる。
バンドのメンバー紹介のように(笑)。
この形が、この後続くシーンの切り替えにとって、見る者へのスムーズさを与えていたと思う。
すなわち、20代ぐらいの若者、働き盛りの年齢の頃、そして今の老人という時間と年齢を激しく行き来する際に、観客に違和感をあまり感じさせないのだ。
さらに、こうした「役者」と「役」の関係の表明が、夕張と「今(役者のいるアゴラ劇場という時空)」の日本をつなげるているようにも感じた。
少しだけ「未来」へ進んだ「夕張」は、私たちの「未来」でもあるから。
90歳を超える茂治と、その仲間(というより家族=一山一家)たちはかつて大夕張にあった三菱炭鉱の炭鉱夫だった。
彼らには、日本の高度成長期のエネルギーを担ったという自負もあるし、その後のエネルギー転換の代償も負ったというツラさも記憶にある。
それらをすべて含めて、かつての「いい時代」を懐かしみながら閉じていく町と人々が描かれていた。
80、90という老人を演じているのだが、よぼよぼの老人という演技をしているわけではないのに、あるときは老人に見えてくるし、あるときはきちんと若者にも見えてくる。したがって、きちんとその登場人物たちの時間がつながって見える。
会話のテンポがいいし、シーンとシーンとのつなげ方、切り替え方が抜群だ。
変によぼよぼの老人に一気に変わってしまえば、コント的になってしまっただろう。
ラスト近くで倒れて息をしない茂治を前にする友人たちの、どこか落ち着き諦めているような姿は、すでに救急医療が滞ってしまっている夕張の現実とともに、一所懸命に炭鉱で働いてきた彼らが、国のエネルギー政策の転換とともに放り出されてしまった姿にも重なって見えた。
死んでいく町をなすすべもなく見続けていたように、友人の死も静かに見続けるしかないのか。
夕張に暮らすのは老人だけで、訪れる人も懐かしみに来るだけ。島谷の孫娘も出産とともに夕張を出るという。
こうして、一度ダムに沈んで消えてしまった町は、再び閉じられていく。
笑いが多く、そして内容の濃い、いい作品だった。
茂治と紀男のエピソード(ほかの誰にも告げていないだろうエピソード)にはグッときてしまった。
てっきり昔の地名を付けた橋の名前を挙げていく、舞台の上の後ろ姿で暗転、幕、かと思っていたらそうではなかった。
「それはどうしてなのだろうか?」
この作品に、何か足りないとすれば、「未来」の話である。それも「少しだけでもいいから明るい」「未来」の話。
夕張は、財政破綻後、新市長の下、数々の施策を打っているらしい。
そんな「何か」につながるようなものは舞台の上では何もないのか、と思っていたが、たぶんそれが橋の名前を挙げていく後に続くラストだったのではないだろうか。
倒れている茂治はすでに息をしていない。
救急車もまったく来る気配すらない。
そこへ、本来取材のために来るはずだった人が、車でやって来るのが遠くに見える。
これが「夕張の未来」「少しだけ明るい夕張の未来」なのではないか。
たぶんすでに事切れている茂治に最後にさしのべられた「車」が、すでに閉じられていく町・夕張を生き返らせることができるかもしれない「手」なのかもしれないということなのだ。
このシーンに込められたメッセージは大きいと感じた。
それにしても、80、90になっても近くにいる「友人」というのはありがたいものだと思った。
限界集落と言いながらも、ここにはそれがある(一種のおとぎ話かもしれないのだが)。そしてそれは都会と呼ばれるところにはない、という皮肉。
茂治を演じた山田百次さんの独特の雰囲気がとてもいい。
男気があって「兄貴」と慕われるのがよくわかる(自分で書いて配役だけど・笑)。
ほかの炭鉱夫役の松本さん、川村さん、武谷さんも良かった。
4人の炭鉱夫たちの息の合い方がいいのだ。
満足度★★★★
小栗判官伝説をベースに、歌舞伎らしい「仇討ち」「恋人とのすれ違い」「主従関係」「自己犠牲」「お宝奪還」「怨念」「妖術」等々を盛り込み、面白さ満載。
春、夏、秋、冬と四季に渡り繰り広げられ、笑いや、お正月らしい華やかさもあり、楽しい舞台。
ネタバレBOX
盗賊風間八郎役を勤める菊五郎さんの貫禄。
小栗判官兼氏役の菊之助さんの二枚目感。
漁師浪七の松緑さんの悲痛さ。松緑さんはこういう役がなぜか似合ってしまう。
歌舞伎らしい時節モノのネタで笑わせてくれる。
まさかの、シャンシャンの隈取り!