満足度★★★★
帰りながらの、思い出し笑い
なんとも言えぬ普通な感じがうまい。
「なんとも言えぬ普通な感じ」と言われてもアレだけど、佇まいというかそんなことだ。
役者の佇まいを、台詞のやり取りで楽しむということ。
肩に力が入ってないように見せるうまさがある。
ネタバレBOX
舞台は桜田ファミリーサーカスののテントにある、舞台の控えの間のようなところ。
サーカスで働く人々の話。
タイトルの「シーザー真田」が主人公というわけではなく、群像劇というほどの大げささもない。
そこに集う仲間たちの「ある1日」と言ったところか。
中には声を出して笑ってしまうシーンもあるのだが、概ね帰宅途中とか、家でお風呂に入っているときとかに、ふと思い出して、笑ってしまうような類の面白さがある。
特に今回のこの作品はそういう要素が詰まっていたように思える。
例えば、舞台はサーカステントの控えの間なので、サーカスが行われていたり、練習が行われているときの、舞台から聞こえたり、見えたりするいろいろなことで、舞台の様子をうかがい知ることになるのだが、それがとてもいい。想像をかき立てられる。
例えば、社長の現役感とか、観客の頭の中だけのもの凄さなど。
あるいは、本番中の出入り前の表情とその変化は、当然そうくるだろうな、と思って観ていても、思わずニヤリとしてしまう。
そのニヤリが、思い出し笑いになってくる。
リングマスター真田(服部ひろしさん)が言いかけた台詞や舞台袖での入口での変化は、今思い出しても可笑しい。
それと当たり前のシーンであっても、台詞の間やタイミングのうまさで、何気ない会話を表現していく良さがある。役者が演じるときに、肩に力が入ってないように見えるというのもいい。
大きなエピソードや展開は特にない。以前観た作品のいくつかも、同様だった。
ブランコ乗りの葛藤も一見すると、それほど大きなわけでもない。あっさり解決してように見えるし。
つまり、そこにあるのは、普通の会話の面白さだったり、普通なことの面白さだったりする。毎日繰り返されるある1日なのだ。
ちょっとしたバカバカしさはあるものの、あえて無理に笑いを持ってこようとしないところの巧みさが、役者がいいから出せるのではないだろうか。
哀愁とかそんな方面へ向けることもできる設定なのだか、それも選択しなかった。それは不思議でもあるのだが。
しかし、作れば簡単にできそうな大きな山場を排し、役者の佇まいの良さをうまく見せていくということが、この劇団のポイントなのだろう。
それは成功していると思う。
どの役者にしても、アウトラインがくっきりと脳裏に残っていくのだ。
敢えて言えば、シーザー真田の娘がやって来ることで、「何かが起こること」を期待していた観客の1人としては、特に何も起こらないことは少し残念でもある。
ただし、娘とシーザー真田が昔付き合っていた彼女が2役なので、結局結ばれてこの娘が生まれたのではないか、なんていう想像はできるのだが、そういう面白さの「余白」はあるのだということで。
「桜田ファミリーサーカス」って「サクラダファミリア」からだろうけれど、なんとなくダジャレ責めが多いような…笑。
満足度★★★★★
最高傑作! ストーリーを貫くアガペー。
前にも書いたけど、ここの舞台は前説から観たい。
なんとも楽しいから。
そして、毎回、どこにどう向かっているのかわからないストーリー展開と、過剰なモロモロの中に埋もれてしまいそうだけど、細かくて粘着質で、微妙な台詞そのものと、台詞回し&やり取りがとても楽しいのだ。
人形の登場もわくわくする。
ネタバレBOX
今回、見終わって感じたのは、「これって、ここの最高傑作なんじゃないの?」というものだ。
確かに、短編は別にして、以前の作品に比べ(全部観ているわけではないが)ストーリーの落としどころや、全体がまとまりすぎているかもしれないのだが、でも、全編を貫くテーマがはっきりとしている。
いや、テーマがはっきりとしているから「最高傑作」というわけではないのだが、面白さに、確実に「何かをプラス」してきた感があるのだ。
それが愉快でもあり、ジーンときてしまったりするのだ。
だからこの際「最高傑作だ」と言ってしまおう。
中学生の葉隠弓月は、姉・さくの影響が強い。シスコンと言っていいほど。
姉の期待を背負って彼はトレーニングに励む。姉の理想のタイプになるため。そのタイプとは、姉が子どもの頃見ていたヒーローモノの主人公であった。
姉がいなくなり、弓月は友だちのオカマの金吾郎とともにバイクで町を飛び出す。
一方、騙されてAV出演をさせられそうになったニコという不幸を撒き散らすと思い込んでいる女がいた。
彼女は、その現場からリンとともに逃げ出す。
AVの女社長のあかりは、ヤクザに依頼し、彼女たちを連れ戻すために追いかけさせる。
逃げ出したリンは、かつて助けてもらったことのあるヒーロー、エレファント・ヤンキーとエレファント・ホームレスを呼び出し、窮地を救ってもらう。
そして、彼らは伝説の象、トンキーに合いに上野動物園へ向かう。
その頃、弓月と金吾郎は……。
というストーリー。
一見して、一体何がどうなるのだろうという広げ方で、登場するキャラクターも多い。しかも各キャラクターごとに、かなり濃い味付けがされている。
伝説の象、トンキーだって、戦時中に軍の命令で殺されてしまったはずなのに密かに生きている、なんて設定だし、ヤクザも元広島カープのピッチャーで両親を失った娘を養っている、なんて設定なのだから。
確かに、ヒーローになれ、と言われてきた弓月が、ヒーローになって活躍するという話になっているのだが、実のところ、そこが軸にはなっていない。
物語の軸はズハリ「愛」。
ヒーローモノなので、「悪」の設定はある。それもヤクザの養女が深いところで悪になっているということで、絶対的な悪のように見える。さらに彼女と一心同体、あるいは彼女を操っているような悪の存在があるので、さらに「悪」に対決するという図式が見えているのだ。
しかし、対決するといっても、戦うシーンはあるものの、それは表面上のことであり、最後は「赦し」「包み込み」といういうような手段で、相手を「負け」されてしまうのだ。
それが「愛」。「アガペー」と言ってもいいかもしれない。
劇中で、バッターとしてピッチャーに対決するあかりの従弟・秋助が、あかりの兄から授かった打法は、「相手のピッチャーもボールもバットも観客もすべてを愛せ」だったように。
例えば、娘を誘拐したサチに対して、母の春子は一度は殺意を抱いたものの、彼女を赦してしまう。
また、弓月の姉のトドメを差した金吾郎と弓月の対決にしても、「力」ではないところで勝負は終わる。勝ち負けのない勝負の付き方で。
そのときに、悪の権化のような魔物は、簡単に隅へ追いやられるだけで、こと足りてしまうのだ。
つまり、これは言い古されしまった言葉だけれども、「暴力は暴力しか生まない」という「負の連鎖」を、「愛」で初めから断ち切ってしまっているということなのだ。つまり「平和」。
『愛と平和。』、モロなタイトルだったわけだ。
少々甘くてもそれでいいじゃないか、と思う。
また、「周囲を不幸にしてしまう」と思い込んでいた女は、「月」になって、「人を照らす」なんていう展開はたまらなかったりする。ここは作者から登場人物への「愛」なのかもしれない。
さらに言えば、いくつかの「家族」の「物語」が語られていく。
弓月と姉のさく、あかりと兄、サチと両親という、血のつながった家族は、すでに崩壊している(失ってしまった)のだが、弓月と金吾郎、あかりと兄嫁の春子、サチと養父となったヤクザの津々岡、さらに最後には弓月と春子という、血のつながらない家族の強さが語られていく。
「失ってしまった」後の人の処し方とでもいうか、後の「家族」「つながり」がそこにある。
彼らの間に流れるモノこそ「愛」であり、「赦し」であり、「信じる」ということではないのだろうか。
ラストに弓月と春子が手に手を取り合って旅立つときに、登場人物たち全員が現れ、彼ら2人を乗せた舞台を回す、という演出は、自分たちだけで生きているのではない、という、これも強いメッセージではなかったのだろうか。
だからこそ、グッときてしまうシーンになったのだ。
今回、バジリコFバジオは、予測不能なストーリー、妙にひねりのある設定と、細部に凝った台詞を、畳み掛けるように進行させながら、その根底には、確かなメッセージが確実にあるようになってきたのではないだろうか。
もちろんそうした姿勢はもともとあったとは思うのだが、さらにそれが強く感じる作品だったと思う。
また、ラストの選曲はベタながら、全員が歌うシーンはとてもよかった。そして、シーン展開ごとに流れる曲が、見事に決まっていて、選曲の巧みさに舌を巻いた。バラエティに富んだ既製曲を、多く使って、これだけうまくはまることはそうないのではないだろうか。
ラスト、シスコンの弓月は、亡くなった姉にそっくりな旅館の女将・春子(姉と二役)とともに旅立つのだが、ここにシスコン極めり、で、作の佐々木さんにお姉さんがいるのならば…。いや、まあ、それはいいいか。
出演者はどの役者もいい。
特に、弓月を演じた三枝貴志さんは、あいかわらずいい。中学生には見えないけれど、熱さと適当さの同居がたまらない。一本調子になりがちな役だろうが、そのブレーキのかけ方がうまいのだ。
そして、姉・さくと女将・春子を演じた浅野千鶴さんの、「姉」「年上」感(笑)がなかなか。
また、元広島カープのピッチャーで現在ヤクザの津々岡を演じた嶋村太一さんの、はぐれモノなりの哀愁と、養女への愛情がよかった。
今回人形の出番があまりなく残念だったが、象のトンキーは、あまりにも傑作で登場シーンで思わず笑ってしまった。おでこに顔なんだもの。
あと、「月」はいい味出していた。
それに人力で動かす回り舞台も、人力の意味がきちんとあり、とてもよかった。
エレファント・ヤンキーとホームレスのマスクは、バットマン風、そして、黒い帽子に白の上下にステッキ、目のメークで、エレファント・ホームレスが「雨に唄えば」を歌うとなると、『時計仕掛けのオレンジ』。さらに野球のユニフォームのヤクザは『ウォリアーズ』かな。野球ユニフォームのヤクザだから『カマチョップ』だとマニアックすぎか?(笑)。
サチの在り方に、宮部みゆき『名もなき毒』の影を見たような気もするのだが。
劇場ロビーでは、過去に使用した人形を、なんと200円で販売していた。
「これ欲しい」と思っていた「アソム君」を購入した。
家では家族に「目に付くところには置くな」と厳命されてしまうような、でかくて不気味感漂う人形だが、自室に飾りご満悦である。
満足度★★★★
三好十郎のゴッホへのラブ・コール
東京デスロック、時間堂、葛河思潮社と観てきて、好きになった三好十郎の作品。やはり物語の芯の太さが気持ちいい。
ネタバレBOX
三好十郎の物語は本当に骨太というか、芯の太さがたまらない。
とは言え、後半のモノローグ責めは演出者泣かせではないだろうか。
逆に腕の見せ所かもしれないが。
ゴッホってそばにいたら、単に困った人。
だからテオの献身ぶりが痛々しくもある。
しかし、ゴッホの生き様とテオの献身ぶりには、キリスト教的な匂いを感じる。
オープニングシーンがそれの伏線と観た。だからラストの、十字をモチーフにしたセットもそうなったのだろう。
それにしても、全編、三好十郎のゴッホ・ラブのメッセージが綴られていて、ラストはまさにそれであった。
ゴッホに「日本に行きたい!」と言わせるのが、三好のラブ・コールであったのではないか。
もうこうなると、虚構の上でもいいから、ゴッホを日本に行かせてあげてもいいんじゃないかと思ったほどだ。
満足度★★★★
これが「東京乾電池」だ!
とても「危険」な演出を、今回も敢えてしたのではないだろうか。
35周年公演の1本。
25周年は『夏の夜の夢』だったから35周年は『ハムレット』。
45周年もやっぱりシェイクスピアになるのだろうか。
ネタバレBOX
東京乾電池の古いメンバー3人(柄本・綾田・ベンガル)の印象から、『ハムレット』を面白可笑しく見せてくれるのではないか、と思った観客も多いのではないだろうか。
また、『ハムレット』を正調で演じるのではないか、と考えて会場に足を運んだ方も、(少数だとは思うが・笑)たぶんいるだろう。
結果としては、どちらの観客にとっても、やや肩すかしだった感は否めないのではないか。
その感覚は、25周年のときに、同じスズナリで上演された『夏の夜の夢』でも感じたものでもあった。
ただし、『夏の夜の夢』は、劇団員総出演で、全員が登場するシーンがあり、舞台の上が大変なことになったり、あるいは柄本さんの出番が多く、圧倒的な存在感を見せつけてくれたりしたので、結果としては「とても面白かった」のだが。
今回、多くの観客が感じたのは、「なんでこんな人が舞台に立っているの?」「若手と古株の力の差がありすぎでは?」ではないだろうか。
同じことを、25周年の『夏の夜の夢』で最初は感じた。
しかし、よく観ていると、「あまりうまくない役者」(あえてそう言う)の演出は、「とにかく早口」にしていることに気がつく。
とにかく台詞を早く言わせて、相手のリアクションなどはとらせていない。よく見れば、(特に冒頭の3人)相手の台詞を受けているはずの様子はほとんどなく、棒立ち状態に近い。
これはどういうことなのか? 「芝居」とか「演劇」の決まりとしては、あり得ない行為ではないのだろうか。しかし、演出は、それを「敢えて」やらせている。
なぜ東京乾電池がそれをやるのだろうか、と考えてみると、例えば、月末劇場で上演されている演目や、座付きの作家(&演出)である、加藤一浩さんの戯曲を見ても、「不条理」なものが多いのに気づく。
同じく35周年で先日上演された『そして誰もいなくなった』も、別役実さんの作の、モロ不条理劇だった。
そういう「芝居としてあり得ない行為を敢えてやらせている」演出の劇団は、意外とあるのだが、それらしい劇団がやると、それらしく見えてくるということでもある。
だから、東京乾電池という劇団の(なんとなくの)イメージとして見ると落差があるのかもしれない。
つまり、「不条理劇をやる劇団」という路線から考えると、シェイクスピアだって「不条理劇」だ、とばかりに、こういう演出にしたのではないだろうか。
また、こうも考えられる。
台詞の1つひとつに情感を込めなくてはならないところを、早口で情感どころか相手のリアクションも考えずにしゃべらせる、それによって、「変な感じ」にしたいということではないのだろうかということ。
それは、役者を(さらに)「下手」に見せてしまうのだが、同時に役者の「地」のようなものを露わにしていく。
35年劇団にいる柄本さん、綾田さん、ベンガルさんたちは、それができたからだろう。実際、彼らはは、特に何か変なことを(あまり)仕掛けくるわけではなく、ハムレットの台詞を言っているだけなのに、なんとなくニヤニヤしてしまうような「味」が出ているのだ。
実際、今回の舞台でも、そういう「味」のようなものが出始めている役者も見受けられた。
そうではなく、自分の気持ちで演じている役者もいて、その幅を演出家(柄本さん)が微妙に調整していたように見えた。
だから、階層がある。
普通にいるだけで上手い人、自由に演じさせる人、普通だとかなり厳しい人、そんな感じだ。
こうした企みは、本人の「地」が問われるということなので、役者は大変であり、失敗は手酷く自分に返ってくる。
今回は(今回も)そうした「実験」のような「不条理劇」としての『ハムレット』ではなかったのか、と思うのだ。
結局のところ、これが「東京乾電池」なのだ。
私が観た回のハムレット(深水俊一郎さん)は、それほど「上手い」わけではなかったのだが(失礼!)、「若さ」と「勢い」があり、ときどきその台詞がそれにはまっているシーンもあったので、若さ故の「苛立つハムレット」を観た感じがあった。
なるほど、その苛立ちが、周囲を傷つけてしまう結果となる、という、青春の蹉跌的なハムレットになっていた。
あとから出演表を見ると、この人見たかったなあ、というのもあったりするので、そういう楽しみも、今後出てくるのではないだろうか。
今回、柄本さんの出番が少なく、単に台詞だけでなく「仕掛けて」くる間がなかったのは残念だ。ちょっと吹いてみせるような演技を入れ込んできたが、それは十分でなく、もっと出演している時間が長ければ、「怪演」が観られたであろう。10年後の45周年には期待したい。
ラスト&カーテンコールで流れていた、なぎら健壱の『ガソリンとマッチ』は、35周年を迎え、さらに先に進む、東京乾電池自身を奮い立たせる応援歌のように聞こえた。
「いそがなくちゃ あわてなくちゃ 心の灯が消える ガソリンとマッチをちょうだい」(by なぎら健壱)。
満足度★★★★★
楽しさ溢れる、「猥雑」なミュージカル
とにかく役者は何かをやっていないといけない、という演出が、雑多で猥雑で、とてもいい雰囲気を醸し出している。
ネタバレBOX
とっても面白い。
この金額でこのサイズの劇場で、これだけのミュージカルが観られるのだから。
男と女が出てきたので、てっきり恋愛モノで、ミュージカルの黄金律的な展開になるのかと思っていたら、さにあらず。
なんともなラストがいいのだ。
北アフリカで次々に市民による革命が起こり、てっきり過去のものと思っていた「革命」が、また蘇り、リアルになってしまった現在、このミュージカルが奏でる物語は、妙に生々しい。
「革命」なんて古いテーマが、一周回って最先端にいる不思議さ。
歴史は繰り返す。古典は古典には、絶対にならないということなのか。
観客を意識しすぎな演出だが、嫌みになる一歩手前で、舞台との距離感を縮めるには最適。
今の世の中のことを入れないと、あるいは、常に役者は何かやっていないといられない、というやや病的な印象を持つ流山児さんの演出が、少々鼻につくところもあるのだが、その雑多で猥雑さが、この舞台では効果的で、舞台の上で花開いていたと思う。
なにしろ別所哲也さんがいい。のびのびしている印象だ。
満足度★★★★★
幻想的な物語、舞台の上は華やかで美しい
ブリテン作のバレエをビントレーが日本らしき国を舞台に再編成した作品。
ネタバレBOX
幻想的な物語が面白い。
衣装や色彩を含め美術が、とにかく美しい。
そして、舞台は華やか。
数々のキャラクターが楽しい。
特にタツノオトシゴや妖怪のような者たちが。
バレエは無言劇なのだが、ビントレーの演出はとてもわかりやすい。
ストーリーが終わってからの、「めでたし、めでたし」の部分が長いのがバレエらしい。
それにしてもバレエダンサーというのは、凄い人たちだと思う。鍛えられたブレない軸。ハッとするような一瞬が次々と訪れるのだ。
ストーリーには、ナショナリズムな印象を受ける。なんてったって、日本らしき国の王族が自ら夷狄を打ち払うのだから(笑)。
ただし、デヴィッド・ビントレーはイギリス人なのだが(笑)。
満足度★★★
意外と青臭い演劇(芸術)論が真っ正面、な印象
開演15分前から、まるで当時の劇場にいたような、係の人の衣装や、舞台の上を通しての入場など、ちょっとした演出がされていた。
映像の活用や客席まで使う舞台の使い方など、いろいろと面白要素で凝ってはいたのだが。
ネタバレBOX
なんとなく若手劇団の公演の印象。意外と青臭い演劇(芸術)論が真っ正面。
芸術と大衆とか。
土方の理想と築地小劇場の旗揚げを描く。
『海戦』は劇中劇として、ビオメハニカなるロシアの俳優術理論で演出されていた。
美術作家、やなぎみわさんがプロデュースしたということで、演劇畑でない方(間違っていたらごめんなさい)からの「演劇論」もしくは「日本近代演劇史」的な作品、概論的とも言えるような作品だったように感じた。
また、3.11以降ということもあり、「関東大震災から復興する帝都と新しい演劇の息吹」というあたりは、直接すぎた感もある。
テーマだけでなく、表現方法も。
「リアルな演出ができないから、アバンギャルドに逃げた」なんていう土方への指摘や、彼らが「大衆」と呼ぶ人と、演劇の関係性など興味深いところもあり、それは「へー」とは思うのだが、今ひとつ深いところでの共感ができなかった。
主人公土方が「「新しいもの」にピンときた、という感覚、つまり、それが自分に一番リアルに感じられるものだったというあたりも面白いのだが。
イマイチ面白く感じられなかったのは、演劇の歴史に対しての思い入れがないからかもしれないが、それだけでなく、主人公の魅力や、全体的に直截すぎたからということもあろう。
また、劇中での指摘は、指摘に留まっているだけで、こちらに語りかけてこなかったように感じたからでもある。
小山内薫が俗物な人でありながら、攻撃的な人という設定がなかなか。
そして、彼がツイッターをやっていて、「フォローが3人減って、気分良くない」なんていうのがちょっと面白かったりした。
関東大震災のツイートに、ちらりと「ホントだったら大変 RT井戸に毒が投げ込まれている」というのが見えたりするところも面白い。
海戦の「船」と彼らの乗る「運命」の「船」と比喩や、客席まで使用したり、映像の多用など、いろいろ細かいところで面白くしようとしていたとは思うのだが、そういう要素が全体をうまく形作っていかなかったのではないだろうか。
ちなみに、ビオメハニカなんていうものを、今回初めて知った。不思議なのだが、今、小劇場の若手の作品には、ダンスのようなものを取り入れているところが多いのだが、これって、それへの無意識な先祖返りなのかな、と思ったりも。
満足度★★★★
ストレートプレイの楽しさが溢れる
サスペンデッズの印象からもう少し暗さがあるのかと思ったが、そんなことはなかった。
ベテランの役者たちが見事で、そのやり取りを見ているだけで楽しい。
そして舞台に釘付けになる2時間。
いい塩梅に笑いも入り、ストレートプレイの楽しさが溢れる。
満足度★★★
少し残念
言葉に色が付いて見える、というワンアイデアな作品にしか見えなかった不幸がある。
ネタバレBOX
そうした発想・アイデアは面白いのだが、結局何が言いたいのかが、最初からずっと見えている感じで、最後までその予想どおりで少々ガッカリ感。
鳥かごのような牢屋やバックの台詞に反応する色の動きなど、面白そうな要素はいろいろあったのだけど。
最後までその予想どおりであったとしても、「見せる力」があれば、楽しめたと思う。もどかしいという気持ちだけが残ってしまった。
また、新国立劇場主催の「シリーズ【美×劇】 ─滅びゆくものに託した美意識─」の1本なのだが、「美」も「滅び」も感じなかった。
藤井隆は流暢なんだけど、「お芝居している」感が強い。
それが意図だと思って観ていたが、結果的には、そうではなかった。
満足度★★★★
面白いなぁ
南北朝の実録に伝奇、さらに因縁、人情まで盛り込んで、舞台では両宙乗りという見せ場もある。
ネタバレBOX
曲亭馬琴の物語が冴える。
南北朝の実録に伝奇、さらに因縁、人情まで盛り込んで、舞台では両宙乗り(劇場の下手上手の両側で宙乗りを見せる)という見せ場もある。
面白いなぁ。
やっぱり歌舞伎の役者は声がいいし、見栄が様になる。
ラストはしょうがない感じになったけど。
国立劇場は、歌舞伎座と比べキャパが小さいので、それほど前の席でなくとも表情などが見やすい。
ただし、歌舞伎座の、あの雰囲気に比べると全体的にあっさり風味(お土産物屋の数とか装飾とか…)かも。
だけども、歌舞伎座や新橋演舞場に比べて料金が安いことも魅力。
そして、歌舞伎は懐が深く(笑)、今回はなでしこジャパンのパロディが出てきた。しかも衣装もそれらしくしてあり、そのバカバカしさが素敵すぎる。
満足度★★★★
スケールを感じさせる舞台
ストーリーを丁寧に見せながら、フックとなるような演出が随所に。
篠井英介さん、やっぱ凄い。
大きな舞台なのに、個々の俳優の良さを感じられる舞台でもあった。
ネタバレBOX
客席の9列までを廃して舞台になっていた。
そのため、奥行きがあり、奈落が非常に深い。
各シーンで見せる、役者たちのフォーメーションやそれぞれの型(カタ)が実に美しい。
ストーリーを丁寧に見せながら、観客を、ぐっと惹き付けるような演出が随所にあり、飽きさせない。
篠井英介さんは、もはや名人芸だ。
その演技にぐいぐいと引き込まれる。
平岡祐太さんは、TVで見かける単なるイケメンさん、と思っていたら、意外といいのだ。見直した(偉そうなコメント失礼・笑)。
そして、江波杏子さんの重さはさすが。脇に徹しながらも全体が締まる。
小林勝也さんは、とても贅沢な使い方だった。
さらに、その他大勢の侍&黒子役の若手たちがとてもいい。
立ち回りのキレや所作が見事に決まっている。
本人たちの能力もあるし、演出の力も感じた。大きな舞台なのに、個々の俳優の良さを感じられる舞台でもあった。
冒頭のシーン。驚いたがやや唐突な印象。
空席が目立ったのがもったいなかった。
満足度★★★
猥雑感が溢れる舞台
猥雑感が溢れていて、楽しい。
ゲストの寺島しのぶはさすが。
ネタバレBOX
寺山修司の戯曲にプラスアルファして、黒色すみれとゲストの演奏と歌という基本構造は、前作『星の王子さま』と同じ。そのマンネリズムを楽しめるかどうかというところかも。
これはたぷん次回作も同じではないだろうか。
ゲストの寺島しのぶはさすがだが、自然でどちらかというと、いわゆるストレートプレイのほうに向いている印象で、なんとなく全体に溶け込め切れてないような気もした。
ただし、主人公なので、猥雑な中に際立つ感じがあったのは確かだ。
ラストに本水を使用していたが、最初のほうは舞台奥でちょろちょろ出ていただけで、本水使う意味がイマイチ見えてこなかった。
もっと、最初からドッと出せばいいのに、と。
そして、本水の中、女優たちが出てくるのだが(カーテンコールだったかも?)、長靴履いている人がいたのには、ちょっと興醒めした。
せっかくの本水、びちゃびちゃと濡れて出てこなくては(笑)。
満足度★★★★
A班:「自分の」「問題」が「日本の」あるいは「世界の」、そして「目下の」「問題」である
正面からぶつかっている心地良さを感じた3作品。
ネタバレBOX
「日本の問題」というテーマは、大風呂敷でカッコいい。キャッチーである。
で、作品として見せるためには、それぞれのクリエイターたちが、自分のそばに「日本の」と「問題」を手繰り寄せる作業となる。当然。
ここで、「日本の」はどこかに行きがちで、「問題」がクローズアップされる。これも当然。そして、クローズアップされたいくつかの「問題」の中にターゲットを見つけ作品として生み出すわけだ。
さらに言えば、ほったらかしにしてあった「日本の」を、その生み出された作品の上に乗せてみて、「うんうん、これも似合う」と言うことで、「日本の問題」をテーマにした作品が完成する。
「日本の」「問題」というときに、投網のごとく広げて捕まえようとするよりは、そうした「問題」に分け入るほうが、ピンとくる。
それは、作品を生み出すときの、その感覚が、観る側にとっても理解しやすいからだ。
つまり、「日本の」「問題」と言われても、ピンとこないということがあり、さらに、結局のところ「自分の」「問題」が「日本の」あるいは「世界の」、そして「目下の」「問題」であるからだろう。
そうした「他人の」「問題」を観ることで、「自分の」「問題」を意識することになる。
A班
【ミームの心臓『vital signs』】★★★★
良くも悪くも、真面目。真面目すぎるところがあるのがミームの心臓の印象。
個人的に、この数週間いろいろあって、「生きる」という「生物的」なことではなく、「生きている」という「社会生活=人間的」な視点から考えざるを得ないところにあるので、この作品の示すものは重い。
「vital signs」が示す「生」の意味・無意味が重すぎる。
「死」は、結局のところ、生者の都合、あるいはエゴでしかなく、「自分と一緒に生きている」という言葉は、あまりにも軽くなってしまう。
「そのとき」に、本当に直面したら、そんな簡単に振る舞えるのか? という問い掛けに、生真面目に答えている作品であろうが、それがあまりにも真面目すぎて、一直線上にしか存在してないように見えてくる。
主人公の思い詰めたような一直線さ、一途さが、若さ故の行動と発言であり、その奥にいる、作者の気持ち・考えが顔を出してくる。そこがスリリングであり、緊張感が生まれてくる。
そんな、「良くも悪くも」「生真面目な」アプローチと意識が、ミームの心臓であり、だからこそ、この劇団を続けて観ていきたいと思うのではないだろうか。
たぶん、その背にある「危うさ」が(今は見えていないと思うが)、今後この劇団にとって、どう作用してくるのかということを見届けるのも、楽しみになってくるだろう。
強いて付け加えるのであれば、視線・視点を、もう2つぐらい持てるといいのかもしれないと思うのだが。…これは余計なことかもしれないな。
【四次元ボックス『あんのーん』】★★★
言いたいことが、非常にストレートで、わかりやすい。
ユーモアの加え方もいい感じだ。
黒と白に象徴される、内部での葛藤は、観ている側には理解しやすい手法だ。
「陰陽」の自己の対決ということで、「自死」について語っていく。
「自死」を選んだ現在の「自分」が、実のところそれを望んでいないという点の指摘はよくわかる。
それは「止められるものならば、止めたい」という意識が働いているからだ。
しかし、彼を取り巻く環境には、止める力はない。仕事にも、家族(母親)にも。
結局止めるのは「自分しかない」という結論であろうが、そこの部分が、単なる内なる葛藤のみになってしまっているところが、もうひとつ弱い気がする。
そんなことはわかっているのだから、そこよりもう一歩踏み込んだ「何か」が、さらに必要だったのではないだろうか。
その端緒でも十分。
そして、彼を止めることができなかった、彼を取り巻く周囲の不幸との関係も、少々ありきたりな印象で、自分と周囲との関係性までも含めて、どんなに乱暴でもいいから、自分なりの道筋を見せたほうがよかったように思える。
【声を出すと気持ちいいの会『役者乞食』】★★★★★★
タイトルが刺激的。この1本を観ることができたというだけで、日本の問題(学生版)を観て良かったと思える作品だった。
ここでは「農業」を中心に据えているが、これは「農業」に限ったことではない、重要なことが語られていたと思う。
つまり、「(日本の・世界の)問題」について、誰もが無関心ではないのだが、「無関心ではない」というのは、「関心を持っている」とは微妙に違うということだ。
つい最近観た、チェルフィッチュ『三月の5日間』にも関係していて、『三月の5日間』では、イラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けた若い男女を中心に描いていたのだが、彼らにしても「イラクの戦争」に「関心がないわけではない」のだが、その距離感が微妙なのだ。
つまり、ここで「日本の農業の未来」を憂う劇中劇を上演する姿は、「関心ありますよ」ということを見せるためのひとつのポーズのようなものであり、それがメッセージで、ポリシーで、オピニオンなんかであり、つまりのところ、カッコいい感じなわけなのだ。
そういうスタンスや視点を持っていることは大切なのだが、そういう自分の足元についてはまったく見ていない。
「一億総評論家」になってしまったということで、「日本の問題」の当パンで、この企画の総合プロデューサー・松枝氏が書いている「都知事選の下馬評とその結果」にも流れているものでもある。
足元が見えてない人に対して、「じゃお前がやれよ」というのは、一番厳しい指摘でもあるということだ。
しかし、「じゃお前がやれよ」は、すべてにおいて「正しい」のか、と問えばそうとも言えない。それは「向き不向き」というレベルの話から、「それをやるための支援」という人も必要だということもあるからだ。
例えば、この作品にあるように、演劇にして日本の農業の未来を憂うことも、実は大切なことではないかということなのだ。
それがこの作品では語られているのではないだろうか。生産性という点では低く、親や祖父のスネをかじっている劇中の主人公は、兄からは唾棄すべき存在でしかないのだが、彼にできることは、確実に「ある」ということなのだ。彼は「作品」で、祖父の伝えてきた「農業」を支えることができるのではないか、ということだ。もちろん「意識」があっての上で。
それは身勝手で甘ちゃんな、ある意味言い訳的なものかもしれないのだが、それを自ら選択した以上、そこは全うしなくてはならない最後の一線なのではないだろうか。
『役者乞食』と返す刀で自らを斬りつけている中に、そうした気概があるのではないかということを、握り飯を頬張る姿に見たような気がした。
蛇足だが、最近活動を休止したゴジゲンの目次さんの挨拶が、頭をよぎった。これもひとつの回答。
http://blog.livedoor.jp/gojiblog/archives/1867243.html
満足度★★★★
同性愛者たちが50年の間に手にしたのは「Pride」
「1958年、2008年」「社会の大きな変化をはさんだ2つの時代の2つのラブストーリー」というチラシの文章は、読んでおいてよかった。
役者たちの演技が素晴らしい舞台
ネタバレBOX
一見「あれっ?」って思ってしまった。
「2つの時代を挟んだ」というのが、てっきり同じ人が年齢を重ねていくものだと思っていたので。
役名も、設定も同じ2つのストーリーなので、最初はちょっととまどってしまった。同じ役名だけど、別の人生を物語るストーリーということだった。
それがわかってからは俄然面白くなってきた。
つまり、1人何役というのは、舞台ではよくあることなのだが、役名が同じなのに、別人で、それに絡んでくる人たちの役名も同じ、設定も似ている、となると、役者の中での切り替えが非常に難しいのではないか、ということだ。
つまり、同じ役名で呼びかけたとしても、相手どころか自分も、先の役とはまったくの別人になっているのだから。
特に、馬渕英俚可さんの、その変化には目を見張るものがあった。
まったく別人になっているのだ。
58年は、どこか陰鬱で、秘め、陰がある人々。その50年後は、弾けていて、会話のテンポも早い人々。
そんな大きな違いがあり、ゲイのカップルと男女のカップルの微妙な三角関係が描かれていく。
58年の同性愛者は、「病」であり、「矯正」することが必要であった。「カミングアウト」などは考えられず、自ら辛い「治療」を選択するというラストにつながっていく。
58年の彼ら3人ともは、そばにいても孤独であり、その溝を埋めていくことはまったく考えられない。
そして、08では、一変して彼らを理解しようとするマスコミが出てきていたり、彼らが出会う場所や商売までもが成り立っている世界となっている。
だから、ラストは、ちょっと微笑ましい光景になっていくのだ。
50年という歳月で、同性愛者を取り巻く環境は大きく変化してきており、彼らが自ら戦い手にしたものでもある。
その象徴が、08年に彼らが見に行くゲイの祭典「ゲイ・プライド」なのだ。
つまり、この50年の間に彼らが手にしたものが、まさに、その「Pride」ということなのだ(だからタイトルには、定冠詞theが付いているということか? よくわからないけど)。このタイトルにすべてが込められていると言ってもいいだろう。
ゲイの関係と恋愛は、こうした歴史を踏まえて見せられると、簡単に男女の恋愛に置き換えることができないので、個人的には、共感できるところはなかったのだが、「孤独」や「相手を想う」という点のみからは、なんとか見ることができた。
また、男性同士のラブシーンも、観るのは結構きついものがあったのも確かだ。
しかし、とにかく役者がうまい。
間や沈黙の間隔が素晴らしいのだ。
台詞というか、呼吸というか、そんな感情の込め方、見せ方が。
そして、時代が変わること(役が変わること)での、テンションの変化は凄すぎるのだ。
本当に4人ともが素晴らしい演技だった。
その演技で、舞台に釘付けになった。
つまり、この作品は、彼ら役者たちの素晴らしい演技と台詞を楽しむものということなのだろう。
もちろんそれは、シーンの重ね方、余韻の残し方など、丁寧に気持ちを表現していく、演出のうまさもある。
立ち位置、人との関係、セットの使い方、いちいちが憎い配慮に溢れていて、凄いとしか言いようがないほどであった。
実際、涙ぐんでいたりする表情まではっきり観ることができる、前方の席がベストだったような気がする(指定席だから移動はできないけど)。
このサイズの良さがあったと思う。
ただ、ストーリーがもう少し面白かったらなぁ、とも思う。
そして、須賀貴匡さんて、朝の連ドラ『カーネーション』に出ていたあの人だったんだと、舞台観て知った。
満足度★★★★★
人や世界(社会)との微妙な距離感
出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている人たちの話。
「三月の5日間」の出来事が、「物語」となっていく、ある種の「ぶゆうでん、かっこわらい」な物語。
素晴らしい戯曲と役者たち。
1時間30分+休憩15分。
ネタバレBOX
2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間の話。
イラクの戦争なんてまったく関係ないや、と思っているような若者たちなのだが、やはり気にはなっている。
ラブホに長逗留していても、「家に帰ったら終わっていたりして」のように、どこか頭の片隅で意識している。
反戦デモに参加している2人組も、もちろんそうなのだが、過激系なデモの先頭にいたり、警官を挑発したりしている人たちとは、距離を置いている。
イラクは気になるし、戦争は嫌だけど、ほどほどの距離感でいたい。
それは、「戦争」という、遠い海の向こうの出来事に限らず、彼らにとっての、隣にいる友人との距離感も微妙なのだ。
ラブホで朝起きたら隣に寝ていた知らない女や、映画館で出会ったアズマとミッフィーの距離感の微妙さは当然としても、ライブにわざわざ誘って出かけたミノベとアズマ、デモに一緒に出かけたヤスイとイシハラの距離感も、友人であろうが、かなり微妙なのだ。
相手を気遣っているようで、その実、相手の話をきちんと聞いておらず、「あ、そうなんだ」と、上の空の同じ返事を繰り返していたり、自分の話たいことを、例えば、アンミラの制服話を無理矢理ねじ込んでみたり、なんだか「自分に好都合な距離感」ともいえる。
友人関係を壊すことなく、かといって、踏み込むでもなく、「丁度いい塩梅の距離感」だ。
「戦争」との距離感も、戦争そのものは、反対だし、もちろん、巻き込まれるのは絶対にイヤ。「反対」はしておきたいし、でもハードにかかわるのも、ちょっとな…というところ。「関心」があっても深くのめり込まない。
「評論家的」には、世界とかかわることができる。
そしてそれは、傷つきやすく、だけど傷つきたくない。つまり、自分を守るために、全方位的な関係でもある。
そうした若者たちを巡るストーリーは、すでに「物語になっている」。
「語られる対象」となっている、あるいは「過去の話」になっている、と言ったほうがいいか。
つまり、「あの2003年3月のイラク空爆を挟んだ5日間に、渋谷のラブホに居続けたんだぜ」という「伝説」のような「物語」になっているのだ。
それをミノベから聞いたアズマは、ほかの友人に話すし、そのとき自分はどうしていたのか、も加えて「語る」わけだ。
「じゃ、それをやりまーす」と言って始まるのは、その物語を「語っている(再現している)」わけであり、すでに「過去の物語」になっているということ。
過去の物語だから、何度も同じことを繰り返しているようであり、本人であり、第三者的でもある。つまり、自分の記憶を語るのは「第三者的」な視点が入り、「盛ったり」もする。
コンドームの話とか、どちらが先に「ここだけの関係にしよう」と言い出したのか、なんて微妙なことは、曖昧にしておく。
ラブホにいたミノベは、最初はチャラい感じなのだが、後半は、 オラオラ系な前に出るタイプになっていく(語る役者が変わっていく)。
全体的に、傷つきやすい系の中の、オラオラ系とも言えるキャラは、「伝説の象徴」と言ってもいいのではないだろうか。
つまり、語られていくことで、「ぶゆうでん、かっこわらい」になっていっているということ。
出来事や人間関係に全方位的で、かつ微妙な距離感を保っている、という今の人たちの微妙なバランスを観たということだ。
独特の長台詞と台詞回しが素晴らしいと思った。
役者としては、メガネのミッフィー(青柳いづみさん)が、戯画化されすぎてはいるが、面白いと思った。
で、スズキはどうした?
満足度★★★★
「体験する」舞台
1時間50分で、なんと休憩20分含む!
だったら、休憩なしでやってよ(笑)、と思うのだけれども…。
藤木版、ローリー版と見てきたけれど、その2作に比べて、とにかくわかりやすくて、スムーズな進行。演出の手際がいい。
映像の助けがうまく活きているということだろうか。
過去2作より、ロック感も感じた。
生演奏の良さが活かされていた。
ネタバレBOX
しかし、古田新太さんは、ロックを歌うのは無理なようだ。
早いテンポの曲は、歌詞が聴き取れないし、シャウトもできない。音量も小さいし(ミディアムテンポは聞けるが)。
彼だけではなく、全体的にそういう印象。
岡本健一さんの高音の出なさも辛いなあ。
ただし、笹本玲奈さんは別。彼女レベルは無理としても、ミュージカルなのだから、それに近いぐらいのクオリティは欲しい。
観客には、フリークの方々が、コスプレで参加していたということもあり、客席の盛り上がりはなかなかだった。
つまり、「体験する」舞台。
一緒に飛び込んで楽しむという姿勢が大切だろう。
そういう意味では、この上演時間は妥当なのかもしれない。
毎回アフタートークがあるらしい。
この日も面白かった。が、トーク前の時間に行われるグッズの販促が非常に鬱陶しい。
個人的な感想だけど、「I Can Make You A Man」は日本語版だと直訳で「男にしてあげる」と歌われる。だけど、これは「男」と「人」のダブルミーニングだから、無理に訳す必要はないのではないか、といつも思う。
満足度★★★★★
やっぱ好き!
アングラ度がより増した気がする。
オープニングから鳥肌。
ネタバレBOX
オープニングと後半の歌が、シビレる。
いつもの、アノ、桟敷童子なのだが、いつもの感じと比べると、深みという点では少々もの足りない。
しかし、とにかく役者がうまい。
それぞれに「命」が宿っている。
いい台詞がキラリと光る。
と、いうことで、 こちらも近日中に書き足します。
満足度★★★★★
スリリングな展開
offoffのサイズとは思えない役者の厚みが、作品に現れている。
笑いもありつつも、コメディではなく、政治とマスメディアを扱った正攻法な一幕モノ(おちゃめな展開もありつつの)。
ネタバレBOX
朝倉伸二さんが主人公のようなので、前作のような感じのコメディかと思っていたら、正攻法な一幕モノの台詞劇。
これがとっても面白い!
まず、役者の厚みの付け方がうまいのだ。天宮良さんが重しのように効いていて、かつ、矢代朝子さんの女性首相が、政治家の空気の作り方がうまく、安心して観ていられる。
台詞のキレの良さ、立ち居振る舞いも素晴らしい。
若い役者さんたちも、いい味を出していた。
そして、戯曲がとてもうまいのだ。
観客の興味をグイグイ引っ張っていき、それがすてべが首相のオフィスのみで行われる。
狭い舞台の上なので、出はけのうまさもあり、「見せたい」場面に観客の意識がきちんとフォーカスされるようにできている。
今回、主人公とも言える、朝倉伸二さんは、今まで観たことのないような、戦略的な知恵のある役で、かつ、もともとの持ち味である、一筋縄ではいかないような、裏にも通じているという雰囲気も醸し出し、実際にそういう姿を見せつつ、ストーリーを終息に向かわせる。
この配役もいいのだ。
問題解決のために、代替案や伏線を張っておくなどの、観客に「穴」を見せない気配りも効いており、「これってどう決着がつくのか?」という興味で楽しめる。
ラストは少々取って付けたような感じもあるが、中盤に編集者のバイト女性に「盗聴器はどこに?」なんて台詞を言わせて、ラストが突拍子もない感じにしないという布石の置き方も見事。
情報戦を手際よく切り抜けてきたように見せての、ラストなので、魑魅魍魎の跋扈する場所が政治なのだ、という印象を強くする。
ストーリーのピークの作り方や、ラストへのスピード感など、本当に観客の気持ちをうまくコントロールしてくれている。
そして、いい感じに笑いが振りまかれており、リアルな中に、元ヤンの閣僚の活用なんていう、ちょっとおちゃめな解決策を入れつつという塩梅もいい。
前回の会場よりややサイズが大きくなったが、次回はもう少し大きな舞台で観られるようになるのではないだろうか。
前回も面白いと思ったが、今回もそれを上回る面白さだった。
すでに次回が楽しみになっている。
満足度★★★★★
あり得ない設定と笑いの中に、強いテーマと、さらに結構鋭い針がチクリ
保育士とライフル、そんな噛み合わない2つが、ある事情で一緒になっていく。
石原美か子さんの脚本を8割世界が繰り広げる。
会場に入ると、変な感じのステージの形が、期待を高めてくれる。
ネタバレBOX
熊が町に降りてきて、うろついているという不安がある中、保育士たちは、不審者の威嚇のために、特別な許可を国からもらい、ライフルで武装するということになっている。
彼らは、猟友会から講師を招き、ライフル射撃のセミナーを受ける。
何をやってもうまくできない、あやめは、なぜか射撃の腕だけはいい。しかし、彼女の夫・惣介は、買ってきたアサリを飼おうとするほど、優しい男であり、あやめはセミナーのことを告げることができない。
そんなストーリー。
フライヤーのイラストから、もっとヘヴィな状況下の保育士たちを想像していたのだが、そうではなかった。
保育士がライフル射撃のセミナーを受講しなくてはならない、というあり得ない設定なのに、その上に構築された物語は、現実の世界と変わりなく、人間同士どのように接していくか、ということがテーマとなっていた(さらにもう一歩踏み込むと、日本人特有の性質もチクリと…というテーマもあったのではないか)。
つまり、ライフルの実弾による、不審者への威嚇という、とんでも設定、極端なことを見せて、人に対して効果があるのは、「力」か「言葉」かということになろう。
それを、一方が「ライフル」というあり得ない設定で、もう一方は、「度を過ぎた優しい男」という、これまた、両極端にすることで、ありがちな「やっぱり言葉だよね」と直結させないところがうまいと言える。
度過ぎて優しい男(あやめの夫・惣介)の存在により、2軸の対立があまり露わにならず、根底のテーマがじんわりと効いてくる。
徐々に、惣介の存在がクローズアップされていくのだ。
笑いの中にこうしたテーマを溶け込ませるうまさがあったと言える。
しかも、保育士たちの、ほんわかムードが、その殺伐とした設定を覆うのだ。
この相反する事象の対立がを、対立軸と見せないところが、またうまいのだ。
ただ、ジャンプ率というか、ストーリーからうんとはみ出るところがにないのが、唯一の欠点ではないかと思う。
ただ、このストーリーだったから(設定だったから)こそ、ほかは地に足を着けたぐらいが丁度よかったのかもしれないのだが。
この作品をもう一歩踏み込むと、町を俳諧する「熊」という「現実の不安」、いつかやって来るかもしれない「不審者」への「不安」、そして、それに対応するための、あまりいいとは思えない「国の施策」(ライフルで威嚇)、それに「しょうがない」「必要だ」「何も考えない」と、さまざまな意見・感覚を持って、従うだけの人々。そんな構図は、あらためて述べるまでもなく、いつも存在している。
「お国が決めたことだから」と、保育士が人の生命を危険に晒すことを業務として行うという状況は、「子どもの安全を守るため」という大義名分に強く押されて出てきている。
疑問を持ちながらも、「仕事だから」と従ってしまう保育士たちの姿は、笑って観ている観客たちにも降りかかって来る、いや、降りかかっているのかもしれない。それは実に「日本人的」な反応ではないだろうか。
「大義名分」というのは、いつも怖い存在であり、注意をしなくてはならないものだ。
不安を解消するための突破口として、「お上」が決めてくれたことだから、と従うのはたやすい。言い訳としても立派だ。
そういう「怖さ」もこの作品は秘めているのではないだろうか。
その「怖さ」に対しては、「過剰のほどの優しさ」で対抗するしかないのかもしれない。現実を生きる者としての、抵抗であり、知恵でもあるということだ。
作品のストーリーは一応の終息を迎えるのだが、そうした根本的な問題は、舞台上では解決していかない。それは、続いている状況であり、私たちへの「宿題」であるのかもしれない。
場面展開のお遊戯が意外と(笑)いい。動きにキレがあり、保育士の世界をうまく醸し出しながら、楽しくシーンをつなげていく。
それにしても、キャラの、それぞれの立て方が素晴らしい。
特に、あやめを演じた奥山智恵野さんのキュートさは凄い。これからも8割世界のキュート・パート(笑)を支えていくだろう。ただし、ワンパターンにならないように願いたい(…偉そうな意見だけど・笑)。
みなこ先生を演じた日高ゆいさんの、芯が強そうな感じもいいし、あやめの姉を演じた松木美路子さんの落ち着きある雰囲気もなかなか。
すみよし先生を演じた高宮尚貴さんと、理事長を演じた吉岡和浩さんは、ともに空気が読めないのだが、その違いがはっきりしていて、それぞれのキャラの出し方の違いがよかった(演出のうまさもあるのだろうが)。高宮さんはこういう変な感じはうまいのだ。
主任を演じた鈴木啓司さんは丁寧で好感が持てるし、れいこ先生を演じた廣嶋梨乃さんの、途中から見えるおばちゃん感も捨てがたい。
作・石原美か子さんと演出・鈴木雄太さんのコンビなかなかいい。
しっかりとした物語を、演出で丁寧に物語を進めつつ、大胆に見せていく個所も盛り込んでいくことで、作品に良い起伏、波をうまく作り出せていたと思うのだ。
ちなみに、DPの『ハッシュ』は、ここのテーマ曲なんだろうか?
一緒に行った連れも、楽しいと言っていたので、前作は観てない連れのために、1500円という安い値段の『そこで、ガムほ噛めィ!』のDVDを購入した。
ああ、それと「こばや紙」は、A4サイズになっていて、持ち帰りやすくなった(笑)。
満足度★★★★
大人の(悲)喜劇。
丁寧で落ち着いた演出に好感。
TACCS1179(俳協ホール)には初めて行った。
駅から近いし、立派なビルだった。
ネタバレBOX
家をリフォームし、娘は医者ともうすぐ結婚予定、息子はニートだけど、人はよさそう。
「幸せ」と口に出して言えるほど、幸せな一家が舞台。
しかし、近所で起きる事件に関して刑事が息子に会いに来たり、娘が知ってしまった両親のヒミツから、一騒動が起きてくる。
そんなストーリー。
あらすじを読むだけで、ホームコメディ的な印象を受けると思うが、まさにその通り。
両親のヒミツが少々奇妙なことを除いては。
前半は動きがあまりないのだが、物語が動き出す後半からは「これ? どう決着つけるのか」が気になってくる。
結果的には、観客の誰もが望むような、ハッピーエンドになるのだが、それに対しては異論などあるはずなく、気持ち良く拍手できる。
結局、家族と言えども「話し合う」ことの大切さが語られていた。
「話さないと伝わらない」のだ。
母は自分の言いたいことを吐露し、それを父が受け止め、きちんと返す。
そういう当たり前のことをしていこうじゃないか、というメッセージがきちんと観客まで届いた。
このテーマは、個人的にもいろいろあって、じんわり染みてきた。
大切なんだよな、やっぱりそういうことは。
家族とか夫婦で観るのもいいのかもしれないな。
ただ、息子については、あまりにもあっさりと「普通」になっていくところが、甘い気もするのだが…。
特に、「普通」になったら、大切に集めていたフィギュアを処分してしまうなんて、あり得ないだろうと。
まあ、伴侶のような相手を見つけることができたことで、「踏み出せなかった1歩」を踏み出すことができた、ということなのだろう。
彼自身も、「わかっていることと、できることは違う」(そんな意味のこと)と言っていて、わかっているけど、自分を変えられないというジレンマにあったのだから。
それと、「普通」というのが、きちんと就職して云々という価値観は少々古くさいが、テーマがそこにあるわけでもないし、この物語のトーンとしては致し方ないかもしれないのだが。
お父さん役の鈴木浩之さんは、なんとも言えぬ雰囲気があった。お母さんの吐露から、気持ちの切り替えの表現は難しかったと思うのだが、飄々としていい感じであった。
お母さん役の今泉葉子さんは、上品で、ホームドラマのお母さんという感じ。お父さんの部下から慕われるような雰囲気もうまく醸し出されていた。所作や動きがきれい。
権田役の山岸治雄さんは、空気読めない人を好演。いい間といい雰囲気だった。
三田役の斉藤未千花さんの、衣装替え前後の違いもいい。
もっと笑いがほしかったかな。