満足度★
えっ? これが四季なの???
前に四季を観たのは『キャッツ』。
そのときにはそう感じなかったけど。
ネタバレBOX
驚いた。
最初の15分ぐらいで、「これが3時間くらい続くのか」と思ったら、げっそりしてしまった。
帰りたくなったほど。
台詞が棒読みなのだ。
ひょっとして役者の中にそういう人がいるのか、と思ったが、そうではなかった。そりゃそうだろうと思う。そんな下手な役者が、四季の厳しい競争を駆け抜けて舞台に立てるとは思えないからだ。
具体的にどんな感じだったかと言えば、「あ・い・う・え・え・お・あ・お」という感じの発声練習のスタイルで台詞を言っているのだ。
これは酷い。
感情をまったく入れないで、単に「台詞だったはずの言葉」が口から発せられているだけ。中には巧みにそれなりに感情を入れている役者もいたが、それでも、一音一音をはっきり発音しているので、大昔の児童劇を観ているような感覚ぐらいしかない。
たぶん、大きな会場でも、すべての台詞がきちんと聞き取れるように、という配慮でこうなったのではないかと思うのだが、それにしてもこれは酷すぎ。
『ウェストサイド物語』は、2つの不良少年たちが争い、その間で恋する2人が翻弄されるというもので、若い不良たちの火花が出るような激情と、愛し合う若い2人の激情がほとばしる舞台であるはずなのだが、全部の台詞が棒読みなので、感情が見えてこない。
だから、金髪でオールバックしたおっさんたちが、棒読みしゃべっているだけ。お芝居のシーンは、わざと下手に演じているようにしか見えない。
普通の舞台ならば、たとえおじさんあったとしても、一瞬でアメリカのダウンタウンにいる若者に見えてくるはずなのに・・・。
歌も特別うまいわけでもなく(少しはうまい人もいるにはいたが)、踊りも上手い人はいるが、全体的に見て素晴らしいというほどでもない。
さらにガックリしたのは、カーテンコール。
もう手順どおりに上手で頭を下げて、次は下手で、最後に中央に頭を下げるというだけで、「ありがとう!」な感情が感じられない。ウソでもいいから、全身で観客にありがとうをアピールしてほしい。
ダンスでもするように、振り付けどおりに頭を下げられてもうれしくない。
そんな姿で何度も出てこられても・・・。
本当に酷いモノを観てしまったという印象だ。
四季って全部こんな風なのだめろうか。
『キャッツ』のときには、長台詞があったわけでもなかったので、そう感じなかったのかもしれない。
まだ、観ていない四季の作品はたくさんあるので、これだけで断言できないが、もし全部がこんな感じだったら、四季はとても残念な劇団だと思う。
四季は、中学、高校の舞台鑑賞会のような場としてよく使われているようだが、こんなものを観て、「舞台って面白くないなあ」と思ってしまったら、演劇界の損失である。「もっと面白くて、金額もそう高くない舞台はたくさんあるぞ」と、回りの若い観客に言いたくなってしまった。
満足度★★★★★
とても楽しくて、とても悲しい
小林多喜二が主人公の物語。
『組曲虐殺』という恐ろしいタイトル。
あて書きで書かれたという初演と同じメンバーで行われる、奇跡のような再演に出会えて感動。
ネタバレBOX
音楽劇ということだけではなく、人と人とが組み合わさり、小林多喜二という人の曲を奏で、組曲となっていく。
そこでは、多喜二を監視し、捉え、尋問した特高の2人さえも大切な1つの曲である。
だから彼らへの視線も優しい。
小林多喜二の生き方は純粋で真っ直ぐだ。
「代用パンを買うお金をくすねている者がいる」ということだけ。
「絶望するにはいい人が多すぎる」なんて台詞が似合う。
監視する特高の2人も、次第に多喜二に感化されていくほど。
「あとに続く者がいる」ことを信じて、真っ直ぐ歩む小林多喜二の姿を、井上ひさしさんが音楽劇として見事に描いた。
拓銀時代を思い切って省いたことで、シンプルに多喜二が浮かび上がってきた。
これを観たあとでは、小林多喜二像が大きく変わりそう。
小林多喜二を演じた井上芳雄さんがいい。歌もとてもいい。
そして、現実の世界をつなぐ、姉役の高畑淳子さんもいい。特高の2人もいいし、とにかくみんないいのだ。
作曲した小曽根真さんのピアノの生演奏もいい。ピアノだけというのがいい感じなのだ。
小曽根真さんの曲は、井上さんの言葉をうまく伝えてくれる。
「カタカタまわる 胸の映写機」の歌が染みる。
井上芳雄さんの歌い方がもの凄く良く、本当に染みる。
誰の胸の中にも忘れ得ぬ場面(シーン)があるのだ。
それにつけても、『組曲虐殺』とは恐ろしいタイトルだ。
そして、フライヤーがとてもいい。
登場人物全員が笑顔で押しくらまんじゅうをしている写真。
そして、小林多喜二がどんな拷問を受けて、どんな死体になって戻ってきたのかが淡々と文章で綴られている。
これはもの凄く辛い。
そして、このフライヤーが、この作品を見事に表しているのだ。
すなわち、「とても楽しくて、とても悲しい」物語であることを。
劇場のロビーでは、「代用パン」と称した高級(笑)アンパンが売られていたが、本当の代用パンを食べたかったな。結局これも買ったけど。美味しかった。
満足度★★★★
脚本と演出のうまさを感じた
ただし、笑いのツボが違いすぎて笑えるところは少なかったけど。
作・演の吹原幸太さんは、役者の身体・肉体が好きなんだろう。
・・・いや、そういう意味じゃなくて(笑)。
ネタバレBOX
作・演の吹原幸太さんさんは、役者の生の肉体と生の声が好きなのではないかと思う。
もちろん、演出している人たちはそういうところがあるから演劇に携わっているのだろうと思うが、吹原幸太さんには特にそれを感じる。
つまり、自分の劇団以外ではできないことを、やってみたいという欲求があるのではないだろうか。役者の肉体と声を強く押し出すということをだ。
自分の劇団と信頼している劇団員だから、アクセルを思いっきり踏み込めるということではないか。
突然奇声というか大声を張り上げたり、ボンテージや亀甲縛りで、身体を縛り上げ、醜い(失礼・笑)肉体を誇示させる。
シモネタ系な言葉をわざと言わせてみたりと、Sっぽいように思えるが、実のところ小学生や幼稚園児たちがそうして面白がるように、屈託なくそれを行う。
したがって、シモネタ系な台詞だったりしても下品にはならないところに踏みとどまっている。そういう塩梅はきちんと理解していて、台詞を書いたり演出をしているという姿が見えてくる。
こんなこと書いてしまうと身も蓋もないのかもしれないけれど、そういう一線が守られているから、こんなにキャラクターを出し過ぎて、話を広げていっても、きちんと終わることができるのだと思う。
濃いキャラが満載なのだが、それをフューチャーしたり脇にしたりする演出うまさと、それをわきまえていて、変に悪目立ちしない役者もいいということなのだ。
これだけそつなくうまくまとめられるのであれば、今回のストーリーでは父と子の話で、子が父をどう許すのかというところが焦点だったと思うので、父のエピソードをもう少し膨らませるとか何かで、「やっぱり自分も父と同じだった(癖に関して)」というだけではない、説得力のあるラストを導き出せたのではないかと思う。そこがもの足りないと言えばもの足りない。
ポップンマッシュルームチキン野郎は、やりたいことがハッキリとしてい、いつも着地点が情緒が伴い、その振り幅で楽しませてくれる。
しかし、毎回、そのラストに到達するのが、ややジャンプ力が必要すぎるので、できればもう少し手前から、女装、じゃなくて助走シーンが欲しいと思うのだ。
そうすれば最強になるのではないかと思う。
個人的なことなのだが、笑いのポイントは違うようで、あんまり笑えなかった。
笑ったのは、カレーのくだりぐらいかも。
それにしても、吹原幸太さんのお父(母)さん役は見事だった。どこかにいそうなおかまのおじさんだった。
満足度★★★★★
戯曲が声になって舞台上に響く美しさ
新国立劇場にハズレなし、の印象。
約3時間。1人の長いモノローグや2人芝居のところはダレそうなものの、それが一切ない。
ネタバレBOX
「朱雀」は夏の季語だ。そして、「南」を表している。
その朱雀の名の家が、夏の盛りに燃え尽きて、雪降る冬の年の暮れに滅亡していくという美しい物語。
「西日」に照らされる朱雀家。
リビングのテーブルが、「家」の象徴。
そして、弁天様を頭上に戴く朱雀家は、「日本」そのものと言っていいだろう。
女性(母性)との葛藤がある。
死に行くことへの理由が必要。
死(滅亡)の美学。
戯曲が声になって舞台上に響く美しさ、沈黙、静寂の美しさを堪能した。
登場人物が内包し、背負い、象徴している業が、台詞によって重くぶつかり合う。三島由紀夫ってなんてカッコいい戯曲を書くんだろう。
國村 隼さんの背筋を伸ばした姿。近藤芳正さんの戦後の姿。どちらもうまい。
木村了さんって、こんな役者だったのか、とびっくり。気になるところはあるけれど、軍人の立ち姿になっていた。
満足度★★★★★
アトリエ・センティオという場
虚構と現実の狭間で。
ネタバレBOX
アトリエ・センティオという場は、shelf との関係がとてもいい。
shelf はここで観るのが一番好きだ。
今回の舞台は、タイトルどおりイプセンを再構成した内容だ。
軸になるのはイプセンの『幽霊』。
このイプセンの『幽霊』をどう動かすのか、あるいはどう動かさないのかが、最大の興味だった。
三橋麻子さんたちが、濃厚でこってりとしたイプセンの登場人物を演じるところに、川渕優子さんたちが楽々と演劇空間(虚構)と現実(アトリエ・センティオの舞台の上)を行き来する。
行き来するたびに、三橋麻子さんたちが体現し、放つ世界が虚構に見えてくる。
戯曲を上演する、ということにおいて、それを見せてしまう強さがある。
さらに言えば、川渕優子さんたちも当然のこと、戯曲の中にあり、「虚構」であるのだ。
この奇妙な関係が、舞台の上だけでなく、舞台のある会場にも広がっていたのだ。
それは、アトリエ・センティオという会場にある。
時折流れる水道管を通る水の音、壁一枚隔てて聞こえる東武東上線の走る音。
それらは、「実際」そこにある「現実」なはずなのだが、「見えない」ことでどこか虚構めいている。
イプセンの演劇、その場を俯瞰する役者、そらにそれを観る観客、そして、それらがいるセンティオ、そして東上線の気配に代表される外の世界との関係性。
今回の舞台はそれが活きていたように思えた。
絶対的な生活音・社会音との対比・関係性が絶えず観客の脳裏に響くということで。
今回は、衣装に託す「俗」さと「気配」の妙があった。
それが台詞の割り振りにも活かされていた。
この巧みさは、読み込んだ者のみが使える絶対的な自信ではないかとも。
また、音だけでなく、タバコの臭い、ロウソクの炎(&匂い)、オイルライターの匂いをも演出されているようにも感じた。
ただ、個人的な好みとしてラストは『幽霊』のままのほうがカッコいいと思う。
『幽霊』のラスト台詞は、俳句のような情景と余韻を残すから。
満足度★★★★
やっぱハイバイは面白い
他人のことなんてな〜んにもわからないということ。
映像とナマの役者をクロスさせ方がもの凄い。
リアルと作り物。確かにすべて作り物なんだけど。
奇妙なストーリーと奇妙な人間関係
わずか60分なのに結構刺さる。
満足度★★★★
結局、最期にみんなが帰るところは皆同じではないか
ダイジェストが走馬燈か。
母の記憶はないのだろうか?
家=母のイメージなのだけど。
きっと帰れる。
当パンが、窓があって家の形の、小さな封筒に入っているのがとてもカワイイ。
満足度★★★
なんか、もの足りない
柴幸男さん、三浦康嗣さん、白神ももこさんの3人のコラボによる音楽劇ということで期待した。
しかし、内容は、想像の範囲を超えることはなかった。
ネタバレBOX
柴幸男さん、三浦康嗣さん、白神ももこさんの3人のコラボによる音楽劇ということで期待した。
しかし、内容は、想像の範囲を超えることはなかった。
「普通」の印象。
なぜこうなったのだろうか?
演劇、音楽、ダンスという3つのパートに舞台そのものも分かれていたようで、それぞれは素晴らしいと思うのだが、その融合が感じられなかった。
主人公のファーレも3人の女優が演じるのだけど、「ダンス系」「お芝居系」「歌系」の3つのパートに分かれていたようで、なんだかもの足りない。
それぞれの得意の分野を受け持つのはいいんだけれど、それだったら、最初から3人が出て同一人物を演じていたほうがしっくりしたように思えるのだ。
ストーリーもなんか普通な印象。
歌がうまいファーレがまた歌う自分を取り戻していくのだけど、単に歌がうまい人は途中歌を諦めていたとしても、やっぱりうまかった、というだけで、成長のようものはないし、きっかけとか、気づきとかあるわけではない。
もちろん、成長物語を期待していたわけではなく、ファーレが(また)歌い出す一瞬だけをこの舞台にしたら面白かったのではないか、なんて素人ながらに思ってしまった。
確かに普通に観れば、普通に面白いとは思うのだが、柴幸男さんならば、もっと予想を超える面白さになったのではないか、という想いが残る。
曲はいいし、生演奏も楽しい。歌もうまいし、セットの雰囲気もいい。
だけど、もの凄くもの足りない感じだった。
この作品は、それぞれの上演地域でのmixが今回のポイントの1つということだが、それを一般の観客が簡単には体験できないので(その上演場所に行かなくては体験できないので)、その良さがわからないのがさらに残念。
満足度★★★
スポーツとナショナリズム
豪華な役者陣。
だけどきれいにまとまりすぎて勢いが感じられなかったかな。
ネタバレBOX
寺山修司の遺作原稿らしきものから物語はスタートする。
のだが、もうひとつ寺山修司さ、がほしかった。
国民(大衆)が待っているスーパースターの存在。
時間を遡り、丸太等のキーワードから、満州の731部隊を彷彿とさせる場所へ。
スポーツの隠れ蓑、スポーツとナショナリズム。
オリンピックとナショナリズム。
エッグというスポーツから、スポーツの熱気と戦争への熱狂を炙り出す。
椎名林檎さんの曲はいいし、深津絵里さんの歌もいいのだが、なんとなくスピードが削がれる感じ。
野田秀樹さんらしい言葉の遊びや羅列、そして勢いがイマイチ感じられなかったのが残念。
満足度★★★★
惹き付ける
メガバックスコレクション、やっぱり、見せるなぁ。
ただ、最初のシーンの男の様子とラストが一致しない。
また、運転手も「巻き込まれた」と言っているのに、その影響を受けていない。
などといった粗が気になる。よくてきててるだけに。
勢いだけで見せてしまったのでないか。
あと「土下座」の台詞……ここニューヨークですよね。
満足度★★★★
ちょっと無理のある設定ではあるけど
面白いなぁ。
テンポも熱さもいい。
ただし、さんざん前ふりとして「ロミオとジュリエット」としているのに、実際はどちらかというと「ウエストサイドストーリー」のパロディなのがちょっと残念。
満足度★★★★
『傾城阿波の鳴門』『冥途の飛脚』
「ととさまの名は…」で有名な『傾城阿波の鳴門』は、切なすぎるストーリー。
『冥途の飛脚』は、彼らのこの先を予見させる見事な幕切れ。人形がいい表情しているように見えてくる。
竹本住大夫さんはやはり休演だった。
満足度★★★
徐々にスピードアップしていく会話劇
75分というコンパクトな上演時間も丁度いい。
ネタバレBOX
道州制をアピールするために集められた各地の人々が、道州制フェスというイベントについて話し合うストーリー。
冒頭のやり取りから、各地から参加した人々の、それぞれの地域を代表しているという、お国自慢からエゴのようなものがぶつかり合うのかと思いきや、そうではなかった。
すべてのアイデアに異議をぶつけていく南東北代表の声が、明らかに話合いを乱しているのだが、その意味がわかってくるころから、もうひとつのテーマが浮き上がってくる。
すなわち、カタカナで表記されてしまう「フクシマ」だ。
彼女は、フクシマという地名を消し去りたいという想いがある。
そのための道州制賛成派だったのだ。
そのことに対して、きちんとしたメッセージを舞台上から発するところに好感がある。
日本人に限らず、自分の生まれ育った土地への、愛着、こだわりがあるのは当然で、日本人の身体に染みついた、都道府県単位での愛着、こだわりはなかなか捨てがたいものがあるのだはないかと思う。土地によってはいまだに「藩」単位での愛着、こだわりもあるようだし。
ゆっくりとしたスタートから、徐々にスピード感が増していく、脚本と演出が鮮やか。
どんどん引き込まれていく。
この形式は『12人の』を彷彿とさせるが。
役者のキャラクターと配役のバランスもとても良かった。
失礼な言い方だとは思うが、内容よりも「会話」(台詞のやり取り)を楽しむ舞台だったように思える。
内容的にはこぢんまりしてしまったような。
満足度★★★★
ストレートプレイの凄みと面白さを堪能
セットもいいし、演出もいい。
役者の力の差は見えてしまったが。
満足度★★★★
シモなのに、爽やかな風が吹いてくるような(笑)
きちんと笑いを取ってきて、シモなのに、まるで爽やかな風が吹いてくるような作品(笑)。
おっちゃんたちが、完全に高校球児になっているところが凄いや。
満足度★★★★★
十一月歌舞伎 通し狂言 天竺徳兵衛新噺
思った以上に蝦蟇が大きい!
ネタバレBOX
早変わり、宙乗りと、スペクタクルで見せ場が多い。
いわゆる蝦蟇妖術の話なのだけど、思った以上に蝦蟇が大きい(笑)。
紅葉が映える舞台も美しい。
国立劇場の歌舞伎にはない華やかさ。
猿之助ってやっぱりうまいよな−。
満足度★★★★
ラッパ屋ならではの、楽しさと面白さがある
町工場のおじさんたちが、一生懸命に歌い踊るももクロ見て「俺たちもガンバロー」って思うという、あらすじ聞くとどーってことない人情話なのだけど、ラッパ屋だから手堅く面白い。
登場人物たちに注がれる視線が優しいし、愛がある。
そこに単にストーリーだけでは表せない、ラッパ屋ならではの、楽しさと面白さがあるのだ。
満足度★★★★
吉田 × 黒澤の手腕はさすが
台詞のやり取りにすべてをゆだね、説明してしすぎないうまさがある。奥ゆかしさとか品のようなものが、作品を支える。
ネタバレBOX
「星の流れに」の唄を、所帯を持って幸せになってから歌わせる憎さなど。
青年団の『ソウル市民』5部作を観た後なので、時代背景や女中(&お茶)が、被って見えてしまうのは残念。いい意味で、青☆組の前作『パール食堂のマリア』の並列作品の印象も。
悪(意)の設定が紋切り型であることがやや残念。
もしあるのならば、このコンビの作品は、これからも観てみたい。
満足度★★★★
戯曲と役者の「行間」を楽しむ舞台
坂東三津五郎さんの「ほぼ」一人舞台。
だから、 坂東三津五郎さんの生真面目さが舞台にある。
生真面目に悩む芭蕉、となる。
場面展開が面白いし、「便座」なんていう言葉の遊びも楽しい。
ラストシーンはしんみりさせる。
満足度★★★★★
熱演、そして曲がいい
「♪十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た♪」の曲は今も耳に残る。
それだけにラストはキツイ。