横山也寸志の観てきた!クチコミ一覧

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兎、波を走る

兎、波を走る

NODA・MAP

大阪新歌舞伎座(大阪府)

2023/08/03 (木) ~ 2023/08/13 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

 野田秀樹の「兎波を渡る」を観た。
 このところ、彼の作品は、「忘れられない、忘れてはいけない不条理に向き合う」というコンセプトで作られている。「エッグ」=「731舞台・人体実験」「Q」=「シベリア抑留」というような、無辜の民が、歴史の不条理に巻き込まれて塗炭の苦しみを味わう。それが、最初は、全く関係ないような、「幻の東京オリンピック」だったり「ロミオとジュリエット」だったり「源氏と平家」だったり、して、彼の得意な「言葉遊び」をしていくうちに、単なる遊びでなく、意味の糸がつながっていって、結末に向かって、謎がほどけ、そこに、不条理な状況に放り込まれた、無名の人々の苦しみ、生き様が浮かび上がってくる。忘れてはいけないのに忘れ去られようとする、一人一人の人間の無残、悲痛な思いが浮かび上がって胸を打つ。そういう意味では、唐十郎の正統な後継者だろう。

ネタバレBOX

 今回の出だしは「不思議の国のアリス」を上演する廃園となろうとする遊園地。兎に付いていった、〈娘アリス〉(多部未華子)は拉致された子どもとなり、兎は工作員となる。兎の一人は脱北して、拉致問題を告発した元工作員〈アン・ミョンジン〉(高橋一生)となる。そして、拉致された我が子を探し出そうとする〈母アリス〉(松たか子)。
 今回は2時間少々と最近の野田作品にしては短めなので、分かりやすい。3時間を超える大作となると、投げた糸が、つながっているのだろうけど、見ていて混乱する。もちろん、今回の作品でも前段に書いたような単純な話ではなく、「カジノ」の問題や「生成AI」の問題も複雑にからみ合っている。
言葉遊びで言えば、[妄想するしかない]は、ほとんどバーチャルに侵食されている現実、子どもたち(大人たちも)をそんな世界に拉致されている「今」と[もう・そうするしかない]国=違法でも、非人道でも、[そうするしかない]所まで追い込まれている(?)全体主義国家をかけている。工作員である[兎]はローマ字読みで[USA GI=アメリカ兵]となる。日本風の軍服を着た教官と兎。
 なぜ、工作員なのに「アメリカ兵」なのだろう、と思っていたが、ラストで、氷解した。[もう・そうするしかない]国とは、「北朝鮮」だけでなく「ロシア」も意味するのだろう。まだ続く戦争、戦争犯罪に、ウクライナの子どもをさらって「洗脳する」という非人道的な、ものがある。
 工作員「兎」がピーターパンとなって、子どもたちをネバーランドにさらっていく。それも「拉致」の比喩で、子どもたちは「親なんかいらない。」と言え、と洗脳されていく。「ロシア」の拉致から、取り返された子どもの中には、すっかり洗脳されて、「ウクライナはネオ・ナチだ」と言う子さえいると聞く。
 〈アリス母〉は聞こえなくなった〈娘アリス〉の声を必死で聞こうとする。「母」は絶対に諦めない。それは「母」だから。「父」と違って、「母」は絶対殺さない。そして、何度も38度線を越えて〈娘アリス〉を救い出そうとする〈元工作員アン・ミョンジン〉は、「日本」のことではないか。かつて「もう・そうするしかない国」であり、朝鮮半島から人々を連行してきた全体主義国家であった。(野田の言う「忘れてはならない不条理」には「被害」だけでなく「加害」も含まれるのだろう。いや、「加害」こそ忘れてはならない、と言うのだろう。)戦後アメリカ側になり、「資本主義的要請」のもと、今また、非人道的な、踏み越えてはならない「流れ」、「力」に身をまかせていないだろうか。「妄想するしかない国」に子どもたちを拉致されて平気で、その声を聞こうとしなかったり、「クラスター爆弾」や「核兵器」というような非人道的武器(そもそも武器は全て非人道的なんだけれど)の使用に目をつぶっていないだろうか。平和主義国家として、平和裏に、「戦争」を「非人道的行為」を終わらせる役割を担え。
 そんな野田のメッセージを読み取るのは、私の「妄想」だろうか。
 いや、そうではないだろう。「幻想」される「〈娘アリス〉を求め続ける〈母アリス〉」と「跳ね返されても跳ね返されても、38度線を越えようとする〈兎=元工作員〉」の姿に、限りなく絶望的でありながら、微かな、でもたしかな「希望」を見て涙が流れた。
昭和虞美人草

昭和虞美人草

文学座

可児市文化創造センター(岐阜県)

2021/03/27 (土) ~ 2021/03/29 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

素直に面白かった。題名通り、漱石の『虞美人草』を昭和に置き換えたものである。昭和でも昭和48年。65歳の私が、大学入学したのが49年だから、まさに登場人物たちと同年齢なので、「ああ、そうそう。そんなこともあった。」という感じで、とても懐かしかった。「ラブ・アンド・ピース」「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」。大学紛争は安田講堂を頂点として、徐々に下火になりつつあったけれど、政治闘争から文化闘争へ、というような感じで、フォークやロック、アングラ演劇(私は、金沢大学演劇サークル「駱駝の会」で「状況劇場」や「黒テント」の芝居にはまっていた。)、既成の文化に対する反発が、若者たちを駆り立てていた。「物より心」「金より愛」の時代だった。そこらへんを、明治維新で四民平等、新たな世になりながら、薩長という田舎者が権力、金力を握って幅を利かせる世の中が嫌でたまらない、江戸っ子漱石の登場人物の「真面目さ」に重ねてある。
漱石の『虞美人草』の方は、主人公(=虞美人)?「藤尾」を権力、金力の権化にして、男たちが彼女に逆らうことで、「真面目」を貫き、藤尾という毒婦が自死することでめでたしめでたしという、勧善懲悪だけれど、とても情けない(一人の女性を殺して)勧善懲悪の物語になっている。漱石も後年、失敗作だと認めている。
そんな『虞美人草』をどう「昭和」に翻案するのだろうという興味があった。
宗近が「真面目さ」を説いて、小野と恩人の娘「小夜」とを結びつけようとするシーンは泣けた。そう。映画「三丁目の夕日」のように。ノスタルジーは病だと思いながらも泣かされてしまう。そして、ラストにあっと言わされた。藤尾を人種差別と闘う(ちょっと大げさか?)、まさに新しい女性として救っている所だ。(ネタバレになるので書かないけれど)最初の『アントニーとクレオパトラ』の話がうまい伏線になっている。
では、「悲劇によって人は皆『真面目』になる。」とは、今の世でどういうことだろう。そこが一番作者の伝えたかったことではないか。今の世の悲劇とは「コロナ禍」のことであろう。演劇や舞台芸術は特に、そのあおりを食らって、去年一年公演もままならない状況であった。私も久しぶりに生の舞台(高校演劇は除く)を観ることができてとても嬉しかった。
「真面目」とはどういうことだろうか。きっと「ずる」しないことであろう。「金力や権力を使ってずるしないこと。」そう考えると、この一年、「桜を見る会」だの「総務省接待」だの、権力者、権力をめぐる「ずる」じゃないの、という話が、真面目に耐えている庶民をよそ目に流行った。
「文学座」と言えば、今回『昭和虞美人草』を観て、「文学座」を検索していたところ、私のほとんど唯一「文学座」の役者で知っている(別に知り合いという意味ではない。)松山愛佳さんの退団を知った。なぜ彼女を知ったかというと、2015年に「新宿梁山泊」が唐十郎の『少女仮面』を李礼仙を招いて上演した。「ザ・スズナリ」まで見に行ったけれど、その時「貝」を演じた女優さんがとてもいいので、「梁山泊」にこんないい女優がいたんだと、驚いた。で、後で文学座の女優さんと知って「さすが『文学座』、層が厚い。」と思って(「梁山泊」の皆さんごめんなさい。「梁山泊」の芝居は私好きです。)それ以来ご贔屓の女優さんなんだが、(といってもそれ以来彼女を観るために「文学座」を観たりはしなかったんだけど。)退団と知って、残念。どうしてという気持ちがした。
これも「コロナ禍」の「悲劇」の一つなのだろうか。いや、そう(「悲劇」)ではないだろう。「真面目」に新しい道を進む彼女に、エールを送りたい。

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