1
四月大歌舞伎
松竹
片岡仁左衛門の作品は、過去幾つも観てきましたが、
昨年、国立劇場で「通し狂言 霊験亀山鉾」を観て、
久ぶりに孝夫(この方がしっくりくるなあ)悪の魅力に痺れました。
そこで、齢を考えると、彼の舞台は、少なくとも関東でやる演目については
全て観なくてはと決意した次第。(ただし、先月の玉三郎との共演を見逃したのは大失態)
今回の「通し狂言 絵本合法衢」は最高。これぞ悪の境地という芝居で、
ご本人もこの芝居は体力的に今回が最後になるだろうとのこと。
そこで松竹が気を利かせて「一世一代」と付けています。
そごいんですよ。
無茶苦茶な悪の魅力。とにかく何人殺すんだよ!てなくらい、殺しまくります。
最近はやりのナレ死もあったりして、え、殺されちゃったの!てのも含めて、とにかく、冒頭に出てきた人物、
みーんな殺されます。
「霊験亀山鉾」「四谷怪談」「桜姫東文章」と南北の作品とは、片岡仁左衛門はとても相性が良いです。
次回はどんな舞台やるんだろう。
期待、無限大ですね。
2
疑惑の教室にて
カスタムプロジェクト
他の皆さんが、舞台の内容を細かく書かれているので、重複は避けます。
もう四半世紀前になりますが、フジテレビの深夜で「トラップTV」という番組がありました。30分の推理ドラマなのですが、吹越満が演じる「あなた」を、昼の庭園に友人が訪ねてきて、「あなた」が提示する写真と説明で、友人が犯人や事件の顛末を推理するといったエンタメです。タイトル通り「トラップ」が仕掛けてあるので、友人は「あなた」に、まんまと裏をかかれるのですが、今回の舞台作り込みの丁寧さといい、とても良い意味で、この番組を思い起こさせてくれました。
今回の舞台でも、ビデオや写真、図版を多用して、視覚で伝えるところと、セリフで伝えるところを、きちんと整理して推理劇としての整合性を保ちつつ、ツッコミどころもむしろ愛嬌にして、かなり楽しませてくれました。確かに、奇想天外な設定でもあるのですが、そこがエンテメ度を増幅してくれる、1粒で何度もおいしい、グリコアーモンドキャラメル的な舞台です。
ここまで作り込んだ推理劇ですから、演技上で過度な演じ込みや、ましてや表現ミス、セリフ間違いなどがあっては興覚めもいいところなのですが、そこは演技に齟齬が生じないように演じきった役者の皆さんは見事。
そして、丁寧な資料作成や淀みない舞台進行に尽力された裏方さんたちの手腕も立派。
とても楽しめた2時間半でした。
ただ、惜しむらくは、再演が難しいところですよね。手を加えて、別の結末の舞台にするのもとても面白そうではありますが。
初日の昼の部では、全問正解者は1人(どういう思考回路しているのでしょう、驚愕です)、夜の部は8人だったとのこと。この劇団を過去観た方には、1度回答編は見たものの、再見でいろいろ検証してみたいという方もいたのでないでしょうか。いや、それとも、夜の部の観客の皆さんは、結構な熟達者だったのかな。
他の方がおっしゃっているように、年2回見たいなあ。このレベルの作品作りが難しいことは、重々承知していますが、ご検討ください。半端な作品になるのなら、年1回でもという声は聞こえてきそうですが。
3
遺産
劇団チョコレートケーキ
前回公演の「ドキュメンタリー」とのつながりは、パンフレットやここに書かれている皆様のご指摘通り。登場人物が重なっていないとのことだが、西尾友樹氏や浅井伸治氏は役柄が全く異なるのだけれども、岡本篤氏の今井は「ドキュメンタリー」の元グリーン製薬研究員だった老医師とどうしても被るなあ。実際、途中までそういう目で見ていました。
いっそ、それでもよかったのではないかな。この一点で人物の繋がりが明確になると、かなり、731部隊→非加熱製剤投与への連綿とした倫理観の一貫性が判るような気がするので。つまり731部隊で問われる倫理観(軍としての細菌兵器の開発、人体実験)と非加熱製剤投与の倫理観(利益至上主義、官民癒着構造)は、本来異なるもののはずだったのに、実はこの2つに関わった一部の者たちの倫理観には、通底するものがあった(人命の軽視)ということ。
731部隊に関わった「ドキュメンタリー」の老医師と、今回の今井は、共に731部隊での研究時代を至福の時間だったと回顧しながら、前者は非加熱製剤投与に抗い、後者は一生の後悔の念に苛まれる。しかし、そうではない、そうは思えない人々が、間違いなく関与していいたという事実、この方が戦時下という言い訳をも許されない決定的な証拠だと思う。
私は、こうした歴史的事実に基づいたフィクションに、誤謬の指摘をしたり、情報量を求めることにあまり意味があるように思えない。その解釈に意義を唱えるのは自由だけれど、あくまでもこれは創作活動なので、観客は舞台自体がどうなのかを語るべきだと思う。もちろん、その舞台観劇を契機に各々の事件について語ることは、舞台作者の意図するところでもあるかもしれないし、観劇者の探求心の発露でもあろうから、一向に構わないけれど。
だから、731部隊どうこうよりも、人間の宿業や贖罪への意識というものが、どれだけ重要かということを感じた。53人殺めた今井と川口少年に「生きろ」と言った今井は矛盾する存在ではない。それは、匿名な個人と知人との対応の違いではない。
李丹のラスト近くの舞は、見事。誰に悼まれず、隠蔽され続ける死の朦朧が良く表現されていたと思う。終盤に至るまで、その生と死の狭間を行き交うような、儚くそれで強い存在感は秀逸でした。
「マルタ」という表現は、「材料」という意味で「マテリアル」から来ているらしいのですが、私は「ドキュメンタリー」からずっと「丸太」だと思っていました。
枝(手足=自分の行為を司どり死生を左右する部位)を切り取られ、ただ無機質に並べられた材木。何に使われるかをただ待つ存在として。
アフターアクト
・浅井伸治氏=石井四郎中将に寄り添うように生きていく天野少尉の戦後。
語りのみかと思いきや、死の淵でもはや声も出ないはずの石井と、病院 のベッドの傍らで語り合う芝居が秀逸。また、731部隊を2人で再興させ ようと話す、おそらくは老境に至っている狂気。
部隊名を今度は自分に考えさせて欲しい(731部隊の正式名称は「関東 軍防疫給水部」)、大蔵大臣から予算を下ろさせるように脅迫する際に 持っていく毒物の指示を出してくれと、嬉々と話す天野が背筋を寒くす る。
・西尾友樹:今井の残した731部隊の記録を神奈川にいる731部隊の研究者に届けようと する、中村の後日譚。さっそくその人物の所に向かう中村、その顛末のお
話。
結局、彼はその人物ではなく、尊敬する大学の恩師に預けようと気が変わ りそちらを訪れる。恩師を尊敬するようになったエピソードである、河童 の話でかなり笑わせるのだけれど(それもグダグダ感満載で)、ラスト、 その恩師の姿が判ると、思わずゾクッとする、強めのブラックユーモア。
・岡本篤 :今井と死に面した妻との会話。
彼に妻が「あの封筒はどこなの?」と聞いた時の話が回顧される。
今井は、妻に例の記録の入った封筒の話など一切したことがなく、ひどく 驚いた。実は、彼は寝言で「封筒」とうなされることがたびたびあったら しく、そのことが気になっての発言だったらしいのだが、、、
封筒のことをどこまで話してしまったのか聞けなった自分、そして封筒の 中身のことを話してあげられない自分、その悔恨の情が吐露される。
どれもよいお芝居でした。この「遺産」観た方で、この計30分ほどの芝居が観れなかった方々は残念かも。
4
『US/THEM わたしたちと彼ら』『踊るよ鳥ト少し短く』
オフィスコットーネ
『US/THEM わたしたちと彼ら』
傑作。これも2人芝居で、テロリストに占拠された学校の2人の男女生徒が主人公。
舞台に2面ある壁に、白墨と映像で、その日の学校の状況の変化を描き切る。
舞台に張り巡らされたテープは、交錯した立体感で、緊迫感のボルテージを上げる。
このあたりの演出や、舞台説明はどのようになっているのか、とても興味深い。
また、人質となった人数が、少しずつ減っていくことが、2人によって言葉で発せられ、壁の人数を書き直していくのだが、これも時間の経過と、死体が出ている体育館の状況を想像させて、観客を息苦しくさせる。
ラストは、ちょっと陰惨な感があるが、それも全て観客の想像力に委ねる演出は、何とも切なく、やりきれなさを観客と共有させることに長けたものだと思う。
観劇後には、「出口なし」千秋楽を観に行く友人に、この舞台の観劇を勧めておりました。
5
レバア
西瓜糖
「レバア」この題名については、パンフレットでの寄稿文でも、肝臓の「レバー」だと思っている記載があったが、私も同様に思っていた。肝臓というのは何とも血生臭さを感じさせる、戦後すぐの人心は戦中をの回想をそうしたものと思い起こさせるものと捉えさせることに無理はないと思った。だから、まんざら変な題名ではないではないし、舞台を観ながら、そのタイトルにどうやって帰着させるのだろうと関心を持っていたのだけれど、、、
そうか、あの「レバア」のことだったのか、彼が目にした「レバア」とは。
舞台の感想を幾つか読ませていただくと、現代の政治状況や戦争観に引きつけて述べているものがあったけれど、私はあくまでもあの時代に寄り添って、各登場人物の心情を読み解いていくことをお勧めしたい。むしろ、現代の問題に置き換えることを拒否して言うようにさえ思えるからだ。
だからこそ、この脚本は凄いのだ、と思う。
娘と2人暮らしの1件家に、何人もの戦争被災者が寄り添っって住んでいる。
彼らは、相互に名前を知らないし、経歴・出自も知らない。主の「せんせい」(小説家)に言わせると、その方が後腐れがなく面倒がないと言う。
だから、彼らは名前がない。「じいさん」「ぼくちゃん」「黒紋付(芸者)」「奥さん」「焼き鳥屋」。
そこに、1人の復員兵が裸足で、盗まれた自分の靴がここにあるとして尋ねてくる。
彼はそのまま、その家に居ついてしまうのだが、その目的は?というお話。
復員兵は、諸々、周囲に影響を与え、次第に「天使」と呼ばれるようになる。
登場人物たちは意識、無意識に関わらず秘密や影を持っている。
「せんせい」は、病弱の妻を放り出しての置屋通いで妻を亡くしている。
「奥さん」は山の手育ちらしいが、夫と子供を亡くして(「ぼくちゃん」を子供だと思い込んでいる)、アルコールに依存し、精神的に不安定だ。
「焼き鳥屋」は戦争で妻を亡くして、毎晩遺体を探している。彼には明かせない素性がある。
「じいさん」は耳がほとんど聞こえない、ということなのだが、実はその振りをすることから、自分の過去から身を守っている。
「ぼくちゃん」は吃音で知能薄弱だが、それも振りで自分の暗い欲望を隠すため。
「黒紋付」は、戦時中座敷に来る兵役徴収者に対して、積年の後悔があり、人知れず苦しんでいる。
では、「娘」と「復員兵」には、、、
暗澹とする現実を透かしながら、時に笑いを、時に戦争の傷跡を挟みつつ、舞台は淡々と進んでいく。そして、ラストでの「レバア」への帰結を持って、急転直下、ドラマは終わる。
復員兵が戦後に感じた違和感、「こんな銃後のために、自分は命を賭して戦地へ赴いたのではない」という思い。これは、彼の犯した犯罪や、最後に娘に話す娘の秘密への気持ちに通底する強い行動原理となっている。
では、娘の秘密とは?この道徳心の強い、父を軽蔑するほどの潔癖でまっすぐな性格。
復員兵が見たある彼女の仕草が、彼の戦時への悔恨を深め、彼の脚をこの家に向かわせ、娘にある行動を採らせるだけれど、それが余りにも悲しい。
そして家から、こっそりと去ろうとした復員兵に、「黒紋付」がかける「あなたは、私の生きる灯だから」(ちょっと違うかも)という言葉は、彼にどう響いたのだろう。
何が凄いのたって、秋之桜子の脚本は戦争体験もないのに、何でここまで戦後間もない人々の心情に深く思いを馳せることができたのだろうかということ。
パンフレットの冒頭で、祖母から半分以上は嘘の戦争話を吹き込まれた、と笑って書いているけれど、それだけでここまで書き込めないだろうに。恐るべし。
帰りに受付でパンフレットを発見。1500円とやや高めだったけれど、本作の余韻を味わいたくて購入しました。ただ、内容的には出演者のポートレートと紹介、稽古風景と、ほとんど内容がなかったなあ。
これでしたら、フライヤーで十分な気もしますし。やはり、作品の解題や、脚本作成のきっかけや作成過程、あるいは出演者の作品解釈など、より作品を深く理解できるための資料性を期待したいです。HPでは、各役者の動画コメントも観れるのだし。
同額だったから、台本を買った方が正解だったみたい。
6
慕情の部屋 2018
スポンジ
他の投稿者さんの諸々のご意見に、それぞれ賛同。
パンフレットを読むと、中村匡克さんは初演時に、かなり忸怩たる思いをしたようで、今回の再演にそのリベンジを誓ったように思えます。
その意思が最も反映しているのが、舞台装置ではないかな。
とにかく、場面が変わる替わる。
タクシー内、スーパーのスタッフルーム、留置場、警察の面会室、主人公阿久津の部屋、レンタルビデオ店、殺される夫の営む理髪店、最後には、スーパーのレジから、上の丸井の前。その間ところどころで、法廷であろう被告 阿久津と証人たちの証言が、独白調で挟まれる。手間をかけた舞台装置を駆使しながら、一方で多少の周辺の雑多さを無視した場面設定。過去と現在をないまぜした(それでもわかりやすい)、舞台進行は見事の一言。
初演の新宿眼科画廊では、全体のスペースや十分な舞台裏がないことから、今回のような舞台装置はしようがなかった。そして、この舞台装置なくしては、この物語をここまで描き切れなかったはずだ。
タイトルを「慕情の部屋」のままにせず、敢えて「2018」を付けたことに、過去への悔恨を拭い去り、今作を描き切ろうという作者の強い意志を感じた。
それと、留置場のセットはどうしてもやりたたかったのだと思う。中央に設置された留置場は、この作品の重要な補足として機能しているから。
留置場内の被疑者達のやりとりは、緊張を強いられるであろう物語進行に、一服の安らぎを与えると同時に、救われる者と救われない者との断絶を観客に示してくれる貴重な設定。そして、事件の全貌を暴いてくれる貴重な仕掛けでもある。
事件の全体像を明確にさせながら、2つの短い場面を最後に2つ入れることで、阿久津を絡めとった翔子の心情に思いを馳せる作者の情緒性には感服しました。
7
渇愛
名取事務所
名取事務所は、題材、脚本、演出、役者その他内容云々ではなく、とにかく観ようという劇団なので、今回も何の予備知識なく劇場に向かう。(せいぜい、知識は韓国の脚本だというくらいです)
上演時間を見ると、85分。案外短いな、という感想。
舞台が始まると、数分のペースでやたら暗転で舞台装置が変わり場面が変わる、車のブレーキ音のような甲高い雑音が発せられ、フラッシュバックのような照明が点けられる。次第にそれらの場面が、観客の意識の中で繋がっていき、ことの顛末を憶測するころには、舞台の展開も落ち着く。が、終始薄暗い舞台は、観客に沈鬱な気分を強いたままだ。血糊のついたシャツ、連綿と続く暴力、息子と少女の静謐な死の儀式。
実際の事件をモデルにした、という文言を読むと、確かにそちらに意識が流れていきがちだけれど、舞台と並行している時間枠では、狂気の隙間に嵌り行く人々を見ていると、消耗が激しくてそんなことに頓着する余裕さえない。
特に、養子ジンギがジェソプに対して何度も「本当に悪いのはあなただ!」と叫ぶ場面は、その真意がつかめぬ間に、ただただ不快だ。
観劇者を選ぶ舞台。
真実は何なのか、養子ジンギはなぜジェソプの家庭に入ったのか、彼はそもそも何者だったのか、彼の家庭環境は本当だったのか、ジェソプの妻の神がかりとは何だったのか、妊娠時に出た発疹や時折起こる発作の原因は?彼女はなぜどのように自殺したのか、息子は自殺相手の少女とはどこでであったのか、そしてジェソプが最後にジンギに放った罠は成功したのか、etcの謎は、最後まで解かれることはない。
そして何よりも一番知りたかった、養子ジンギがジェソプに対して何度も「本当に悪いのはあなただ!」と言った真意は、なのも語られずじまいだ。
後味凄く悪いのだけれど、役者の舞台挨拶のないところ含めて、鵺的や鬼の居ぬ間に連なる文脈にある。終演後、私としては首の周りの汗を拭う不快感がむしろ心地よくさえ感じたのはなぜだろう。
8
ロンギヌスの槍
風雷紡
「ロンギヌスの槍」は、一義的には赤巌委員長を刺殺した17歳少女まことのナイフのこと。一方で、象徴的に見れば、あらゆる行為に理由を求めようとする、人間の理性的な思考に対する揶揄とも思える。
神はただ許しを与えるのではない、それは「裁き」の結果なのだ。「裁き」というと、そこには当然、当事者の自由意思に対する、罪状の重さが勘案されるはずのものなのだが、神の「裁き」とは、神の「意思」の総体であり、いわゆる「神の思し召し」とはまさに「裁き」ななのだ、とこの物語は言っている。きよしの死も、赤巌委員長の死も、ラストにおとずれる生あるものの死と、生を与えられることのない死も、全ては「裁き」である。一方、父親が戦争に行き死なずに帰還できたのも、母親が子供を失い苦しむのも、赤巌夫人が少女に激烈な憎悪を抱くのも、これもやはり「裁き」なのだ。
そこに「理由」を見出すことに意味はない、ただそれは「意思」なのだから。人間はそれぞれの事象に、正解のない「意味」を見出すことに人生を」さ挙げるしかないのだ。
17歳のまことが刺殺にいたった「意味」は何なのか。まことが刺殺に向かい階段を上る姿は象徴的だ。一段上るごとに、逡巡と決意とが目まぐるしく交錯する。彼女は自らの意思で、刺殺を止めることができたはずだ、と観客は思う。しかし、それは、この物語では何の意味のない。この感情の交錯さえ、「意思」によるものであり、こうした感情の発生の「意味」を考えることしか、人間の存在の埒内にはないのだから。
こうした人間の行動における合理性の排除は、不条理な状況に見える。しかし、この物語が語っているのは、「不条理」の否定であり、また神の名を借りた「運命」の肯定でもなく、自由をもって現実に抗おうとする無力な「実存」なのではないかと思う。
舞台は取調室での会話をもって進行するが、頻繁に出てくる回想シーンや取調室外のシーンも、観客の視線や、刑事たちの視線を取り入れて、場面転換を無理なく行っていて素晴らしい。
特に刑事を演じた霧島ロック氏と杉浦直氏が、とてもよい。狂言回し宜しく、時に軽快に、時に重厚に話を進行させるし、掛け合い1つ1つが、この淀み見えなくなりそうな物語を、ひたすら日の光の下に救い上げて見せる。
テンポもよく、場面の繰り返しも、散漫になりそうな観客の注意をテーマに引き戻してくれる。
浅沼稲次郎暗殺事件に材をとっているけれど、それはこの事件からテーマを取り出したのか、あるいはテーマを表現するのに、この事件が適していたのか。ちょっと興味があるところ。初見の劇団なので、次回作以降でそれが見極められたよいな。
「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」
この表現では、彼らが目の前にしていた者とは別の者が、現れてくるということになる。
刺し通す前には見れなかった者とは何か。それは善悪の彼岸にいる者、何らかの力(神に限定しない)に抗おうとしても抗いきれない者、ただそこにいて生きていく人間という存在が見えてくるのではないか。パスカルに言わせれば「葦」のような人間のこと。
舞台後方のオブジェは、窓なんですかね。中央の部分が入り組んでいるなあ、と思ったら十字架だったんですね。すると、階段上はゴルゴダの丘ですね。きよしとまことの兄弟は、そこで死んだんですね。
9
害虫
劇団普通
「帰郷」「換身」「害虫」と観ていくと、石黒さんの作風は、日常的な繰り返しを、時間経過や場面転換に拘ることなく、それぞれその場での登場人物の意識や心情の差異で見せていくのが好きなんだなあ、と感じます。
今回の舞台は、5人兄弟姉妹の関係を一応頭に入れて観ることをお勧めします。
ちょっと整理しておくと、変なことに気づきます。(石黒さんは、全く頓着していない部分かもしれませんが)
長女・・・1人目の夫との子
長男・・・2人目の夫の連れ子
次女・・・2人目の夫との子
三女・・・3人目の夫との子
次男・・・付き合っていた(る?)男性との子
が同居しています。
整理が必要というのは、
本来の年齢順では、こうなっているはずですが、パンフレットでは長男と次女の順が逆になっています。
長男は2番目の夫の連れ子ですから、特殊な事情がない限り、次女より年長で、次女にとっては兄にあたることになります。
パンフレットを読み、舞台のセリフを聞いていると、錯覚に陥ります。
次女が長男の姉と思い込んでしまう、錯覚です。
また、長男は母親と血縁がありませんから、長女、三女、次男とも血縁はありません。唯一血縁があるのは、次女ということになります。
さて、次男は母親と婚姻関係のない男の子として生まれています。この兄弟姉妹の中で、長男と次男は最も遠い関係とも言えましょう。
兄弟姉妹で社会人として働いているのは長女だけのようです。(ただし、金曜の朝にゆっくりと食事の支度ができることを考えると、長男や次女と同じ境遇なのかもしれません)
長男はフリーターか、大学ないし専門学生(バイトをしている)。
次女も同様のことが言えます(夜、割烹で働いている)。
次男は、給食が出ていることから中学生か小学生のようです。
給食の内容や、高尾山に関する空想話からすると小学生のような気もします が、一方、空想話では担任の先生ではなく、複数の科目の先生が出てくること から中学生も否定はできません。
三女は、次女と次男の間ですから、高校生と考えるのが妥当でしょう。
ところで、母親は存命ですが、滅多に家に帰って来ないようです。
普段、どこで寝泊まりをしているのかはわかりません。
また、3人いた夫の生死も判りません。
母には今恋人らしき男性がいるようですが、それが次男の父親なのか、別の男性かも判りません。
整理します。
この家には、ほとんど子供たち(兄弟姉妹)だけが済んでいます。それも血縁が皆一緒ではありません。私生児もいます。その上、5名は年齢もかなり近いのです。
ある意味、ここは楽園です。兄弟仲が悪いということはありませんし、お互いを許し合う風土があります。母親への思慕はあるようですが、それに耽溺することはありません。
しかし、
唯一の長男の血縁である次女は、過去にケーキを食べられた恨みから(これも長男が犯人と限ったわけではない)、自らがやっておきながら、長男が冷蔵庫の中身やご飯を食べたと叱責します。
三女は、次女の思惑を知ってか知らずか、面白がりながら、それに便乗するように長男に食べ物を盗まれたと嘘をつき、長男を疑惑の目で見ます。
長女は、三女や次男の空腹にも、彼らの身勝手に怒り、それを放置します。
皆は、次男の分のカレーを残してあげません。
母親は、カレーを作って欲しいという次女の望みを聞き入れません。
そうです。この家庭では、冷蔵庫が全てを食べてしまうのです。
繰り返します。この家は、兄弟姉妹にとって楽園です。ですから、物語の何年か後、皆が社会人になったようですが、まだ兄弟姉妹は同居しています。
母親も家にいるようになったみたいです。
冷蔵庫には、害虫が湧いていたのかもしれません。
10
ブラックマーケット1930
ユニットR
今年度は、全作を通して観劇すると決めたリオフェス。。
すでに観劇済の「野外劇 新譚 糸地獄」「桜の森の満開の下」に続いて3作目の作品です
ちょっと、言い方は変ですが、先の2作品に比べて舞台劇らしい舞台劇でした。
アゴラこまばで上演されたということもあるのでしょうけれど。
アゴラこまばは、リオフェスの聖地という感じだったのですが、今年度はユニットRのみ。少し寂しい感もあると同時に、せっかくの岸田理生さん追悼フェスティバルなのですから、表現の可能性が広がっていると解すれば、ここれはこれで歓迎すべきことかと。
原作は「ハノーバーの肉屋」
私はこの脚本を知らないのですが、幾つかの理央さんの作品を混ぜている(あるいは翻案しているが正しいのかな)ようです。(そう役者さんが言われていました)
ただ、タイトルからわかるのは、第一次世界大戦後のハノーバーの人肉愛好家兼人肉屋のフリッツ・ハールマンの話だということ。
でも、パンフレットの配役では、ペーター・キュルテンと書いてある。
あれ、これって、ちょっと年代はズレルけれど、ヂュッセルドルフの殺人鬼じゃない。
両方とも第1次世界大戦後のドイツという共通点はあるけれど、嗜好が全く違うのに。
(キュルテンは動物性愛・強姦殺人、ハールマンは男色・人肉嗜好)
それと、ハールマンを支配するそしてハンス・グランスにあたる少年が少女になっている。
ここらあたりは、これから観劇する方は、予備知識をもって観られた方がよいかもしれません。ちょっとした趣向として、こうしたのだと思います。
舞台上では、ひたすら「肉」「肉」「肉」の発声と、食事シーンのオンパレード。
食欲、性欲、支配欲、そして殺人衝動、これらは通じ合うということを、しつこく教えてくれます。
グランスを女性にしたのは、食事それも肉食、ひいては人肉食のシーンを、料理を作るということでことさら強調させたかったのと、ストレートに性欲を強調したかったのではないかと。それにグランスは美少年だったので、変に男性にやらせるとクレームきそうだし。
肉屋をキュルテンとしたのは、戦後ドイツの殺人鬼を一つの鏡像として見せたいがためではないでしょうか。劇中、肉屋の分身がたびたび出てきますが、これがハールマンではないでしょうか。キュルテンは、ハールマンになった夢を見ている。
だから、人肉は食べられないし、グランスは男ではなく女なのです。
ラストシーンで夢?あるいは錯乱状態から覚めたキュルテンが、自分の最期望みとして発する名言「私に残された最後の望みは、自分の首が切り落とされ、血飛沫を噴き出す音をこの耳で聴くことです」を発します。
初日の懇親会でお聞きしたのですが、読み合わせから通し稽古まで、週1回のペースで計10回程度の稽古しかなかったそうです。ですから、セリフを定着するのに苦労した、と笑ってお話しくださいました。
他の小劇団も同じようなものなのかもしれませんが、それでも、このクォリティは素晴らしいですね。たった6公演とはもったいない限りです。