旗森の観てきた!クチコミ一覧

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イモンドの勝負

イモンドの勝負

キューブ

本多劇場(東京都)

2021/11/20 (土) ~ 2021/12/12 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

時代の先端を行くナンセンスで不条理(absurd)な唯一無二の舞台。ケラリーノ・サンドロヴィッチが日本演劇に独自の世界を開いて見せて30年を超える。
戯曲作家としてだけではない。その舞台表現のために意中の俳優を集めたナイロン100℃を率いて座頭としてのリーダーシップ。正直に言って、「フローズン・ビーチ」のころまでは、真価がよくわかっていなかった。ほかにないというが、別役実があるじゃないか、日本の喜劇にはナンセンスの伝統があるじゃないか、だが、そんなことを言っているうちにケラは小さな演劇社会の俗論を振り返りもせず、さまざまな演劇の世界に自らのナンセンスを持ち込み、検証し(岸田國士からカフカ、オールビーまで)、ケラならではの世界を創り上げたのだ。この三十年、ケラが作った作品と、その出演者たちの演劇経験は、教条主義が主流だった日本の演劇の地殻変動を深いところで促してきた。
最近の例をあげれば、阿佐スパの「老いと建築」の村岡希美、長塚圭史にその影響を濃く見ることができる。すごいとしか言いようがない。
そのナイロン100℃の47回目の公演。出発の原点に戻って、ナンセンスを描くという「イモンドの勝負」は本年掉尾を飾る秀作だった。
この舞台、ストーリーは、もちろんある。しかし、ストーリーの役割は普通の演劇作品と違って、多義的で漠然としている。不幸な家族環境から、孤児院(院長・犬山イヌコ)で育ったスズキタモツ(大倉孝二)が選ばれてスポーツの世界選手権に参加する、というのがメインの筋立てだが、タモツの不幸な肉親関係の葛藤とか、探偵が政府高官に依頼されて四つの謎を探るとか、それぞれに結構波乱万丈の脇筋のストーリーが組まれていて、それが複合的にナンセンスな笑いとともに展開する。タイトルの「イモンド」というのも結局なんだかよくわからない。(戯曲で調べて見ればどこかで言っているのかもしれないが、そんなことはどうでもよく客が勝手に想像して、誤解すればいいのである)
舞台では様々なナンセンスな警句が次々に放たれ、笑っているうちに忘れてしまうが、私が気に入ったのは「ミステリの犯人は必ずしも登場人物である必要はない」、ミステリにとっても演劇にとっても、チョー不条理でナンセンスなテーゼである。通りがかりの町の人がみな尾行していることを知っている探偵(山内圭哉)が、犯人を尾行する、とか、話としてはクライマックスになる世界選手権の競技がじゃんけんで、タモツはどこまでも勝ち続け,相手は後出しをしても勝てない。万人熱狂の勝ち負けを笑い飛ばす。一方では「生きていて仕方のない人なんか、二割くらいしかいませんよ」と平然と言ってのける。
出演者は長年のナイロン100°Cnのメンバーに、赤堀雅秋、山内圭哉 池谷のぶえの客演。客演と言ってもこの劇団とは共演も多かった俳優たちだから今回はすっかりケラの世界になじんでいる。
ケラの舞台が時代を超えても古びない要因に、前世紀の後半から、大衆の支持をえて、表現文化の底流を形創るようになった音楽、映像表現を巧みに舞台に取り入れていることがある。もともとミュージシャンだったから、音楽のカンがよく、映像も、上田大樹という個性的でケラと合う作家と組む。今回もそこも鮮やかに決まっている。連鎖劇のようなタイトル映像が出てきただけで観客は嬉しいのだ。変な被り物の動物も、出てきただけで可笑しいが、なんだかわからない。これで、一幕1時間45分。15分の休憩をはさんで二幕1時間20分。3時間20分がダレない。ひょっとすると、これ以上はないかも、と思わせる充実した公演だった。
ケラも作品数の多い作家だから、井上ひさしと同じですべてが成功とは言えない。だが、後年(それがはるか先の時代であっても)ケラを再発掘しようとすれば、必ず「イモンドの勝負」は再演の候補になるだろう。この作品にはケラのナンセンスが集約されている。



ガラクタ

ガラクタ

TRASHMASTERS

駅前劇場(東京都)

2021/11/19 (金) ~ 2021/11/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

北海道の漁村の核廃棄物廃棄場受け入れの可否をめぐる政治劇だ。
いずれ、国としては必要なものだから調査だけは受け入れて交付金を受け取ろうという町長(森下庸之)指導の受け入れ派と、放射性物質反対の反対派(星野卓誠)が対立して、小さな二千八百人の町が分断する。現実にある話だから、描写は一方的、教条的ではないが、やはりドラマとしては浅い。ことに村出身の記者(岩井七世)が出てくると、その設定も甘く、キャンペーン風になってしまう。
簡単に言えば、長い時間に耐える正義・正論か、目先の金か、という議論になるが、それは、原子力のような科学に基づくものでなくとも、歴史の中では幾つも起きてきた。どこでも見られたことでは廃藩置県にはじまり、鉄道駅の設置。教育機関の設立。などの是非で全国的に見られた地域内対立で、その時に起きた議論とあまり進んでいない。どちらの側も、それぞれを正当化する大きな思想というか、モラルが見つかっていないので、どうしても現実の生活レベルで落としどころを見つけることになる。どちらの側も根本には過疎地の貧窮化があるのだが、促進派は将来の繁栄期待、反対派は技術進歩による無効化で、どちらも、実はどうなるかわからないところで戦っている。これも昔とあまり変わっていない。時間に対する確固たる信念に乏しく、また社会に対する構想力が浅い国柄が反映する。ドラマの中の議論も上滑りするし、登場人物の、それぞれの事情も類型的になるし、演技も引きずられてしまう。
作者もそのあたりはよくわかっているようだから、新鮮な視角で見せてほしいものだ。
「背水の孤島」のような素材はそれほどあるわけではないが、観客はあの作品の衝撃を忘れていない。

鴎外の怪談【12/16、12/19、12/25公演中止(12/19は1/30に延期公演決定)】

鴎外の怪談【12/16、12/19、12/25公演中止(12/19は1/30に延期公演決定)】

ニ兎社

東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)

2021/11/12 (金) ~ 2021/12/05 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

森鴎外(松尾貴史)をめぐる明治綺譚だ。明治最後の時期、明治43年(1910年)の冬から翌春まで。鴎外は、軍医総監に出世し、文豪の名声も上がっている。若いころからの友人の弁護士平出(淵野右登)や三田文学に推薦した永井荷風(見方良介)などに囲まれ栄達の日々を送っているように見えるが、家では二度目の妻 しげ(瀬戸さおり)と実母(木野花)の嫁姑戦争のただなか。三人目の子どもも生まれようとしている。紀州からきている女中(木下愛華)は文学女中。
いかにもの、明治もの風情だが、ちゃんと今につながるテーマがあり、そして何よりも面白く組んである芝居なのだ。
舞台は鴎外の観潮楼の書斎。幸徳秋水の大逆事件がいよいよ結審を迎えようとしている。今春には、チョコレートケーキの古川健「1911」という大逆事件を素材に開いたすぐれた舞台があったが、こちらは、同じ事件をまた別の視点から見ている。
陸軍部内でも出世を遂げた鴎外は元老の山縣有朋にも直接意見を言える会議にも出席できる。大逆事件についても、でっち上げと分かっていても、天皇制専制国家を守るためには事件化するのはやむをえないのではないか、とも思う、いずれ医者の立場では、という逡巡もある。そいう言うジレンマにある鴎外を作者は家庭の中にある若いころには女でしくじった一人の中年男性、との立場とダブらせて巧みに話を進める。
もちろん歴史考証はされているだろうけど、鴎外が持ち込んだ洋書で西洋の自然主義を周囲は感化されていて、妻のしげが鴎外の「半日」に対抗して「一日」という小説を書いていた、とか、荷風がここで戯作者として生きる決心をする、とか、女中が大逆事件に連座する紀州の医者の元患者で同じく連座する紀州の西洋食堂で知ったデミグラスの味に鴎外が感心する、とか、この作者らしい愉快なエピソードをたくみに芝居に組みこんでいる。
戦後、いくつかの時代の節目に「大逆事件」が演劇で取り上げられるのは、そこに極めて日本的なさまざまな問題が隠れているからで、政治史、社会史的なアプローチを超えて、演劇にも幾つもの秀作がある。その中で、この作品は事件から少し遠いところにいた一人のインテリゲンチュアの姿を描いた秀作である。そのタッチがこの作者らしい時代との距離の取り方にも表れていて、しばらく、「事件モノ」で過ごしてきた作者の復調がうかがえる。
少し内容のことを書きすぎたが、この舞台、俳優のキャスティング、絶妙である。初演〈2016〉からすっかり顔ぶれを入れ替えたというが、それが成功して、リアルとカリカチュアの微妙な間合いが取れている。松尾、池田の軸になる二人はもとより、瀬戸さゆり、木野花の嫁姑、もいい。べたつきやすいところを今風に軽く深く演じている。モデルが実在するのでやりにくかった若い助演陣(見方良介 淵野右登 木下愛華)も事実に余りとらわれず、しかも観客が納得できる。今年の演劇賞でどこを上げられても素直に喜べる出来である。


アルトゥロ・ウイの興隆【1月13日~14日公演中止】

アルトゥロ・ウイの興隆【1月13日~14日公演中止】

KAAT神奈川芸術劇場

KAAT神奈川芸術劇場・ホール(神奈川県)

2021/11/14 (日) ~ 2021/12/03 (金)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

白井晃はKAATの芸術監督を務めている間にブレヒトの代表作を次々に取り上げた。これは最後の作品で、主役・草彅剛の人気と相まってもっとも当たった。現代的な無機的な抽象性を前面に出して展開する白井の舞台の特色がよく出た作品で、二年ぶりの再演だ。地方を含めほぼ2月に及ぶ長期公演だが、既にチケットはほとんど売れている。見た回も完売。
シカゴのやくざ者のウイが卑劣な手段を尽くし、仲間を裏切り,専制者に成り上がっていくブレヒト劇は、今回は一段とショーアップされている。
舞台上段の松尾諭に率いられたオーサカ・モノレールが演奏する主にジェームスブラウンの扇情的な迫力のあるサウンドで終始舞台は進行する。ウイを演じる草彅剛が踊り、歌など全身の表現で舞台を支配する。赤と黒でまとめた尖った舞台美術と衣装で有無を言わせない力量感が舞台から押し寄せてくる。
確かに、ブレヒトの舞台らしく、エピソードは字幕をつないで見せていくが、舞台から与えられるのは圧倒的なショーの力で、しかも、完成度も高い。80分づつの二幕に休憩が20分。見る方もくたびれるが、実によく出来ているのだ。キャスト、スタッフ、いう事なしの出来なのだが、それに反して、一観客としては、これは意外にもブレヒトの意図とはかなり遠い所へ来てしまったという印象はぬぐえない。パンフレットを読むと、白井はこれは現在の日本の政治状況に対する問題提起だと言っているから、ブレヒトの意図を曲げているとは思はないが、現実にはどうだろうか。
草彅剛のようなタレントイメージの固定している俳優を使う危険性は、そこに潜んでいるように思う。彼の熱演はおおいに評価できるし、いわゆる「いい人」イメージの俳優を使うというのはなかなかいいキャスティングとは思うが、時にウイが舞台から観客に同調を求めると、多くの観客は草薙に乗ってしまう。ブレヒトのいうように舞台を客観的、批評的に見るなどという事は観客には難しくなってしまう。俳優の生の力が80年前に書かれた戯曲を踏み越えてしまうのだ。それも、演劇の役割を果たすことになると、白井は言うが、それは危うい、と戦前生まれの筆者は思うのだ。
これは演劇と政治という問題に繋がっていって、簡単に言えないが、演劇の批評性、などという事は、戦後の時期にしきりに俳優座がブレヒトを取り上げていた時代とは環境が大きく変わってしまっていることをまざまざと感じることになった。


パ・ラパパンパン

パ・ラパパンパン

Bunkamura / 大人計画

Bunkamuraシアターコクーン(東京都)

2021/11/03 (水) ~ 2021/11/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

コロナに翻弄された一年の終わりを笑いと祈りで締めくくる祝祭劇だ。休憩を入れて、3時間10分。夜の劇場を出ると、町は戸惑いながらもクリスマスを迎えようとしている。その街をパ・ラパパンパンと口ずさみながら家路につける音楽劇である。
こういう観客の心を和ませ癒す舞台は極めて少ない。この劇場はかつて串田和美が芸術監督だった。オンシアター自由劇場を率いて、わが国で初めてのエンタティメントの音楽劇の道を拓いた。その伝統を、同じ小劇場でも、全く違う背景から出てきた松尾スズキが受け継いでいる。本人は意識していないかもしれない。しかし、劇場がその記憶を受け継いでいる。日本の劇場文化の成熟に感動がある。成功に理由はいくつかあるが、第一はこの見えない劇場の力だと思う。
もちろん、個々の作品の良さもある。「パ・ラパパンパン」について言えば、作構成がいい。
主人公は、ろくでもない青春小説しか書けないまま三十歳も半ばになった女流作家(松たか子)だ。担当の編集者(神木隆之介)に持て余されながら新境地のミステリー小説に挑む。この設定の中でスクルージ(小日向文世)が殺された謎を追う「クリスマスキャロル」のミステリー化が図られる。ミステリ内容と上演の季節がぴったりと合う。古典の登場人物たちと、現代の向こう見ずな作家と編集者の気ままなミステリ化とが交錯する。作者はテレビでは第一線だが舞台は珍しい藤本有紀。テレビで培った時代とのテンポの合わせ方がうまい。ダレそうな話を現代の突っ込みを入れながらいいテンポで運んでいって、最後には大団円にもっていく。その大団円もいかにもテレビ的な万人を感動させる納め方なのだが、それがうまく収まる。そこへ主題歌を持ってくるうまさ!
松たか子がいい。三流のダメな作家が、それでもやはり書かなければとなるドラマを、このクリスマスストーリーの中で生き生きと演じている。歌がうまい。主題歌は三回歌われるが、三つのバージョンそれぞれに歌い方を変えていて、ことに、神の声ともいうべき聖歌風に歌い出した時には劇場が吞まれた。(この演目のタイトルは、何のことかと思っていたが、その謎は途芝居の中で明かされ、抜け目なくクライマックスに続いていく)
松だけではない。スクルージの小日向をはじめ古典の人物たちを演じる大人計画のお馴染のメンバーも役を面白く演じてドラマを盛り上げている。
スタッフワークもよく、作曲の渡辺祟は、こういう芝居での音楽の役割をよく心得ている。説明的な音楽はなく、音楽になれば、観客を打つ。美術(装置・衣装)、音響もよかった。
昨年の「フリムンシスターズ」も松尾スズキらしくてよかったが、ここでは劇場芸術監督の演出としていい仕事をしている。

ネタバレBOX

[パ・ラパパンパン」というのは神の声を伝える先導者の太鼓の音である、と劇中説明されるが、見事にそれで締めくくられた。皆神の子になるすばらしいクリスマスの夜だ。
ジャンガリアン

ジャンガリアン

文学座

紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)

2021/11/12 (金) ~ 2021/11/20 (土)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

創作戯曲が二作ほとんど同時に東京の主要な劇場で公演されるのは極めて珍しい。
好評だったiaku公演「フタマツヅキ」に続いて、老舗大劇団の文学座による「ジャンガリアン」。若手劇作家の中でも、ここ数年、一作ごとに力をつけている急成長の関西出身の横山拓也、大忙しである。
「フタマツヅキ」は東京の噺家脱落一家の物語だったが、こちらの舞台は関西。同じような庶民の市井劇である。
舞台は創業60周年の老舗のとんかつ屋「たきかつ」の店。ネズミが頻りに出没する古ぼけた店をリニューアルして店を継ぐと家業には見向きもしなかった長男の琢己(林田一高)が戻ってきた。商店街の中でも独自老舗を売り物にしてきたが、母(吉野由志子)と一人だけのとんかつ揚げの職人(高橋克明)ではのれんを守るだけで経理も満足にできていない。将来は会社組織にして商店会にも加入したいが商店会長は、母の離別した先夫(たかお鷹)で琢己の実父、というのも話をややこしくしている。外人留学生支援をしている常連客(金澤映実)がねずみ退治には対抗する別の種のねずみを飼うのがいいと、ジャンガリアン種のネズミの繁殖をやっているモンゴルからの留学生(奥田一平)をつれてくる。人手は欲しいのだが、外国人という事で周囲の目は厳しい。・・・・
というような物語の展開で、二年前に障碍者の性処理という難しい問題を普遍的なドラマにした「ヒトハミナヒトナミノ」と同じ、横山戯曲、松本演出。先の「フタマツヅキ」に比べれば、町内の小企業とか、外国人労働者問題とか今日的な問題を扱ってはいても、大劇団公演らしい素材選びと処理である。
それだけに、無難なウエルメイド劇に仕上がっていて、それが残念とも、よかったともいえる出来である。劇場もサザンになると文学座・横山の組み合わせでも満席にはならず、7分の入り、老人の観客が多いからこういう穏当な舞台になるのもやむを得ないだろうが、この組み合わせなら、やはり「ヒトナミノ」のような意欲作を見たくなる。少し回数を増やしても、アトリエで次回作を見たくなる。劇場が大きくなったせいか、出演者にもいつもの人の肌触りが薄い。大阪の話なので当然大阪弁だが、新喜劇なら、こうは言わないだろうというところがかなりあって、もちろん、文学座だから動きもよく、セリフはちゃんと方言指導通りにやっていて、よく聞こえもするが、そうなればなるほど、大阪弁の独特のニュアンスからは遠くなっていく。東京の芝居だなぁ、という舞台だった。

ザ・ドクター

ザ・ドクター

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2021/11/04 (木) ~ 2021/11/28 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

開いてからもう十日もたつのに、ネット批評に見てきた、が一つもないのはなぜ?。??と思いながら見れば、全く隙のない完璧の舞台。主演の大竹しのぶをはじめ、巧みなキャスティング、栗山民也のよく読みこんだ演出に従って一糸乱れぬ演技、美術をはじめ、過不足ないスタッフ・ワーク。テーマはコロナで誰もが直面せざるを得なかった「死」をめぐって科学と宗教はどのように人間を救えるか。受けないはずはないのに。
ほぼ、三時間近い舞台の完成度を評価するにはやぶさかではないが、その完璧な取り組みに落とし穴があったとも思える。
昨年ロンドンで上演されたイギリスの舞台は主軸のテーマをめぐって、信仰と科学だけでなく人種、性差別、階級問題、のような一般的な問題に加えて病院の組織や経営問題、日々の生活問題、テレビ番組まで現在のロンドン市民の直面する「ドラマ的な」問題が網羅(でもないだろうが)されている。その戯曲は若干はテキストレジされているのだろうが、ほぼ上演されたものに近いと思う。違うのは「肉体を持った俳優」である。
日本の俳優が下手と言っているのではない。日本の俳優が英国俳優の真似をしても仕方がない。第一、そんなことは誰もしていないだろう。肉体にしみ込んだ英国と日本のどうしようもない違いが戯曲との距離を置かせてしまったのではないか。
このような最新の戯曲をパルコがこのスタッフ・キャストで積極的に取り上げたことは多としなければならないし、この戯曲もつまらないわけではない。この詰め込み方のうまさなどは若い作家には学んでほしいところでもある。国境を越えて、演劇を咀嚼するのは、観客も含めなかなか難しいものだとつくずく思った。
、そうでなければ、「フタマツヅキ」をこれだけ理解し、感動し芝居を楽しんだこのネットの観客がこの作品に対して黙っているのは理解できない、


ネタバレBOX

珍しく、劇場の機械トラブルとかで幕間が20分伸びた。幕間40分。しかし、ここで帰る客は数人しかいなかった。芝居は結果が知りたくなる出来である。
老いと建築

老いと建築

阿佐ヶ谷スパイダース

吉祥寺シアター(東京都)

2021/11/07 (日) ~ 2021/11/15 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

こういう舞台が上演されることに感懐がある。
まるで、昭和の新劇のようないっぱいセットの人間劇を長塚圭史が、上手に書いている。テーマは「老い」だろう。さすがに、滅びゆくものの美しさ、などという凡なところには落としていないが、阿佐ヶ谷スパイダースを率いて出てきたときのやんちゃぶりを知っているだけに、結構ウエルメイドな出来に「歳月」も感じる。人間が生きて生活する家に、今年流行の「生きた記憶」を埋め込んだあたり時代を上滑りさせない工夫もうまいものだ。いまは横浜の大きな劇場の芸術監督だもんなぁ。
ドラマは大きな庭付きの家に住む孤老女(村岡希美)をめぐる人間模様である。亡くなった建築家の夫が残した家に住む老女はそれぞれ自分の生き方をする息子娘とは距離を置いて、ひとり毅然と生きている。昭和モダンの家のセット(美術・片平圭衣子)が単純だがよく雰囲気を出していて、今の80-50問題や介護の問題も裏に抑えながらの現代人間模様である。セリフがうまい。
プロットの軸が、明確にならないで進んでいくので、一種の家族のシチュエーションドラマかと思っていると、最後の五分の一あたりで突然調子が変わって、ストーリーのドラマチックな謎解きになる。最初の家族風景の部分が、昭和新劇風によく出来ているので、そのまま終わるのかと思っていたらそうではなかったが、そこは賛否両論あるだろう。ドラマチックに終えるには筋立てが少し無理なのだ。
しかし、演劇としてはよく出来ていて、長塚圭史がかつて三好十郎に入れ込んで何作かいい再演をしたことが役立っている。実話キャンペーンドラマみたいな舞台が多い中で見ると新鮮でもあるし、芝居を見たような気にもなる。
村岡希美は、家族を押さえて現代を生きる不機嫌な老女を演じて堂々たる主演である。昭和の戦前のいい時期に生まれ、戦後も時代に沿って生き、戦前の東京郊外の家に住む東京市民の雰囲気を身にまとっている。戦後の世田谷でなく、戦前の杉並の空気が作りモノでなく出来ている(村岡花子の姪だもんなぁ。もっとも花子は大田区だったが)。昭和新劇には時に登場して、山の手女は東山千栄子が一手販売していたような役である。それで、気が付いた、というのもうかつな話だが、これは、昭和という時代を批評したドラマなのであろう。そう見れば、戦前の家を老人向けに改築しながら、その栄華の余禄で生き延びている我が令和時代の姿をこういうドラマにして見せたのが長塚圭史、というのにも感慨がある。ここが第一のみどころだ。
昼間なのに、吉祥寺シアターは層の厚い個人客で完全に満席だった。日本の観客も成熟している。

オール・アバウト・Z

オール・アバウト・Z

ティーファクトリー

ザ・スズナリ(東京都)

2021/11/06 (土) ~ 2021/11/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

コロナ禍の中で、さまざまな形で「人造人間」が現実化してきた。映画ではよく登場するし、小説でも今年はカズオイシグロの「クララとお日さま」や平野啓一郎の「本心」のように、人間との共存社会を正面から描いた作品も評価を受けている。その中で、演劇はチャペックのロボット初登場が戯曲作品であるにもかかわらず、あまり成功しない。ホンモノの人間が「人造人間」を演じることにうさん臭さがあって、作る方にも、見る方にも演劇の愉しみをはぐらかされるようなところがあるからかもしれない。(本物のロボットではやはり芝居にならないのは平田オリザで実証済み)
現実に近くなればなるほど、人間との共存をあらゆる面からさまざまに考慮しなければならなくなり、それはまた、人間の築いてきた歴史・文化を総動員して思索しなければならなくなるから、現実でも架空世界でも一つの「世界」を作るのは大変な作業になる。
しかし、それを考えなければならない場面に人類は近い将来、必ず直面する。コロナ禍はその小さな前兆だ。
テーマはよくわかる。平田オリザが「産業」からアプローチしたのに比べるとこちらの方が深刻だ。
舞台は・・・・
基礎的なアンドロイドができた約三十年後、2050年代。さらに進化したアンドロイドZを創るために、人類が何をするか、というドラマである。
正面から挑んだテーマは大きすぎたのか、結果的にあまり要領を得ないが、設定も今までのSFモノの便宜主義に比べてよく出来ている。劇作家の描く未来ものは、映画や小説と違って、結局ホンモノ人間が演じなければならない、というところから、何か大きなリアルな発見につながるかもしれない。
小劇場出身では(小劇場のいい加減なSF仕立てはさんざん見たがろくなことにになっていない。平田オリザの試みもやってみただけ、だと思う.)この作家は構造もしかりしていてこのテーマが演劇で書ける作家だと思う。はじめからZを目指さないで、小さな素材から始めてみたらどうだろう。


ダムウェイター - the Dumb Waiter-

ダムウェイター - the Dumb Waiter-

TAAC

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/11/03 (水) ~ 2021/11/10 (水)公演終了

実演鑑賞

久しぶりの「ダムウエイター」、昔地人会で見たっけ?いや文学座だったか(あやしい)、面白かった記憶があるので、ろくろくカンパニーを調べもせずに出かけたのが失敗だった。関西の演出者の個人劇団の公演。初見である。
五十年以上年令も違うのだから、こちらの好みばかりはいっていられないが、これで、若い世代は満足するのだろうか? 記憶に残っている限りでは結構サスペンスもあり、笑いも取れる不条理演劇と理解していたのだが、まるで不条理でも、不気味でも、可笑しくもない。役者は単調にセリフを言いあうだけで言葉を肉体化しようとしていない。技術もない。リアリズムで行こうとはしていないのに、頼るところがなく心細そうにドラマは進む。戯曲の面白さがうかがえない。七分の入りの若い女性観客もつかみかねている。
うまくいったのは音響効果。昇降機の上下音はともかく、終始響いている低音のノイズが劇場の場所と相まって作品にあっていた。70分。

女は泣かない

女は泣かない

名取事務所

小劇場B1(東京都)

2021/11/05 (金) ~ 2021/11/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

韓国の告発劇だが、韓国の社会事情がよく理解できていないので、隔靴搔痒である。韓国がハイテンション社会とはよく聞かされ、映画で見ることはあるが実際に触れてないのだからよくわからない。問題は家庭内性暴力で、幼児に被害を受け今は被害者の保護のリーダーになっている女性(森尾舞)が、主人公だ。しかし彼女の生活も、家庭関係も一部見せられれるがよくわからない。それを探るひとや支持する人も出てくるがその立場もはっきりしない。国内ではこれで理解できるだろうが、この舞台では思わせぶりな上にテレビドラマの劇伴のような安い音楽がガンガン鳴るので、余計わからない。初日だったせいか、俳優座、文学座系、新国立養成所と手堅い俳優たちが揃っているのに、まだ探りあって、韓国で行くか、日本流にするか、戯曲の線で行くか、決めかねている。主演の森尾舞だけは、その中で毅然と決めていて圧倒的にうまい。彼女はもっと大きな400人規模の舞台が十分支えられる実力者である。かつて演じた俳優座のブレヒトの新鮮な演技などを思い出した。
こういう家庭内でしか描けない暴力や性の問題は既に英米にすぐれた作品が多数ある。そこへ割って入るのは、単に時事性だけでは容易ではない


フタマツヅキ

フタマツヅキ

iaku

シアタートラム(東京都)

2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

横山拓也の芝居には、いつも、どこか欠けている家族と、どちらかが相手に過剰な思いを抱
いている男女が登場する。舞台設定もいつも風変りだが、今回は落語家になりそこなった老境を迎えようとしている男(モロ師岡)と妻(清水直子)、その長男(杉田雷麟)の家庭である。Iakuの公演は、いつもは関西のあまり知らない俳優がしっかりと良い芝居を見せてくれるのも楽しみだったが、今回は西日本が多いが全国オールスターである。主演のモロ師岡は千葉八街出身。浅草からの芸人。
いつものように(とスッカリ、東京の客も手の内がお馴染になっている)親子の葛藤が芝居の軸になっているが、これまたいつものように、いかにも昔の新派芝居になりそうなところが新鮮で現代のドラマになっている。
今回は初顔の多いキャスティングが功を奏している。モロ師岡と俳優座の清水直子の夫婦などは絶対によそでは見られない組み合わせだろうし、平塚直隆もザンヨウコ(潰れた演芸場の座主)もよくは知らないが、こういう役には縁が遠かったのではないだろうか。俳優お互いの間にちょっと距離感が見えるのも現代的で、新派芝居になるのを掬っている。
落語家になりそこなってアパートの管理人になっている元・落語家にかつての弟弟子(平塚直隆・話の裏の進行役で地味だがいい)に介護ホームでの落語の仕事を持ってくる。はじめは断っていた男だが、つい、その気になって・・・、というストーリーをフタマツヅキのアパートの部屋を盆の上にのせて,回転させながら見せていく。あの、間仕切りのふすまを開けるところが山場だなぁと観客は期待していて、その通りになるが、そこへ行くまではいつもながらうまい。話の中に「落語の「お初天神」を仕組んだところも巧妙だ、たまたま、小三治が亡くなって、NHKの教育テレビでこの演目を見たのも奇縁だった。
どちらかが相手に過剰な思いを抱いている、という事では、今回は上の世代でも下の世代でも女性の方で、そこは、時代だなぁと思う。前の「the last night recipe」と同じようにそれが男の器量を超えていく。しかし、それは結果論で、はじめは、…と作者は若い時の二人も、現在の長男の相手との関係も描いていく。周到である。
出演者ではやはりベテランで、モロ師岡、清水直子。彼らの若い時を演じた二人(長橋遼也
橋爪未萌里)素直なところで初めて見た杉田雷麟。
盆回しに賭けた舞台美術もうまい。1時間55分。拍手鳴りやまず、無粋な公立劇場の終了のアナウンスにめげずカーテンコール。

ぽに

ぽに

劇団た組

KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)

2021/10/28 (木) ~ 2021/11/07 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

現代の市井で使われている言葉が、劇的言語として舞台に登場した。
KAATの大スタジオに円形舞台に組んでいて、中央に砂場のような丸い囲みがあり、向かって上手から太い綱で編んだ粗目の網が天井に向かって伸びている。囲みの中が室内、出口は、網で、外へ出ようとすると網を上下するのに四苦八苦する。現代の独特の内向的なところがこういう風に舞台化されているのもうまい。幕開きで、小道具操作が囲みの中の二つの箱から児童向けのプラスティック玩具をぶちまけて芝居が始まる。
二十代後半、松本穂香と藤原季節の通い同棲中のカップルが、うじうじと日を過ごしている。穂香は育児シッターのアルバイトをしていて小生意気な五歳児を預かっている。二人の話題は海外留学で英語を覚えたいという他愛ない話なのだが、やがてそのとりとめなさがテーマだとわかってくる。今風の会話がちゃんと舞台のセリフになっている。
若者の現代風俗を素材にした舞台ではもうだいぶ前に岡田利規の「三月の五日間」という秀作があったが、こちらはセリフを軸に松本穂香と藤原季節の二人が生き生きと動く。言葉は舞台を制する。ことに松本穂香はテレビでも活躍していると聞くが、舞台でこその魅力がある。
だが、そんな二人は自分が生きることにも、他人へのかかわりにもまるでモラルがない。男女の関係はあるが、人間愛はない。あずけられる子供、預けて良しとする両親、託児サービスの所長、と周囲は広がっていくが、どこも張り付けたような笑顔の裏はモラル欠陥社会である。そこをこの若い作者は実に巧みに展開する。本作の見どころでもある。
そこへ、大地震が起きる。
混乱の中で、預けられた子が行方不明になる。その責任はどうなる。男女がお互いに無責任であったことも、周囲が全く頼れないこともあきらかになってくる。そこへ、行方不明の子どもが帰ってくる。43歳になって、手足は既に黒ずんでいる。これは「ぽに」だ。
突然舞台はファンタジーのような展開になる。育児時間の延長の事務処理というリアルなエピソードからファンタジーへと飛躍するが、テーマは外さない。
とにかく、見せ切ってしまう力量は大したもので、肝心の「ぽに」は結局よくわからないままに大団円になる。なんだか初期の野田秀樹の芝居のようだが全体の印象は全く今の空気だ。それが、コロナの終息が見えてきた今という瞬間と連動しているところがすごい、休憩なしの二時間。
新しい才能が確実な一歩を踏み出している。
苦言を言えば、円形舞台を使うのには今少し細心の注意が必要だ。私の席は左側だったが、俳優を丸く動かすのはうまいのだが背中を向けると折角のセリフに随分聞こえないところがあった。今は場内拡声の技術も進歩しているからマイクやスピーカーを仕込むことはそれほど難しいことではないだろう

いのち知らず

いのち知らず

森崎事務所M&Oplays

本多劇場(東京都)

2021/10/22 (金) ~ 2021/11/14 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

岩松了の芝居では、よく変なことが起きる。観客にとってわけの解らないこと、と言ってもいだろうか。それも突然。
それは作者が舞台の上に起きることに、ある視角をつけているからで、普通は満遍なく観客に説明していくところを隠してしまう。だから、ある俳優が(経歴が隠されているために)突然観客に理解できない言動をしたり、とんでもないところから(セットが隠されているために)あらわれたり、ストーリーが飛躍したりする。劇中人物にとっては当然のことだが、見る方はそのたびにおやっ?となる。
その一部隠しの作劇術は三十余年前の初期のご近所三部作や竹中直人の会から冴えていて作者お手のものだ。岩松流不条理劇の核心だが、今回はミステリである。もともと、隠すことで読者を翻弄するのが本領のミステリではどうなるのか。
設定は平易なもので、人里離れた飯場に、かつては同級生だった若い男二人(勝地涼 仲野太賀)がやとわれている。舞台はその飯場宿舎の一杯。先輩(光石研)やさきにここで働いていた兄を探しにやってきた男(新名基浩)に教えられながらの職場だ。しかしその職場で行われている事業がよくわからない、山中にある療養所なのだが、そこで何が行われているか先輩をはじめ、皆言うことが少しづつ違う。経営者の身内らしい本部の人(岩松了)に聞いても判然としない。
死亡した人を蘇生させる、事業だとも聞かされ、兄を求めてやってきた男は、兄がその実験材料になっているのではと疑っている。先輩もその噂は否定しない。次第に疑惑が濃くなっていく…、という展開を、登場人物のキャラクターや小さな日常的な身近なエピソードを混ぜながら膨らませていく。二時間、三度の暗転だけで、かなり速いスピードで休憩なしで畳み込んでいく。俳優は全員よく頑張ってセリフをこなしている。岩松了。この作品を台本だけ渡されて処理できる演出者は…ちょっと思い浮かばない。やはり、作・演出、それに出演もやって終始舞台を完結させたお点前お見事ではあった。だが、latticeさんの「見てきた」ではないがこのお流儀になれていないとつらいことも事実だろう。終演後の通路では「どーなってんの?}という声も聞かれたが、それでも九分の入り。かつて、東京乾電池は岩松作品を上演することで固定客が大幅に減ったがめげなかった。今はもっと楽に勝負できている。
ここから先はネタバレで書くが、これはミステリのパロディがテーマという芝居でもない。コロナ禍が生んだ、現代の情報社会への痛烈なパロディでもあるし、常に不条理が伴う現代の社会劇でもある。

ネタバレBOX

将棋にはあまり詳しくないが、詰め将棋に「煙詰め」という課題があるそうだ。盤上にあるすべての駒が、詰んだ段階で盤上からすべて消えてしまう。最後に明かされる二人の若者の消し方は全く予想できなかった。学ランを下手から上手へ移す小さな工夫で、それを納得させてしまう。「いのち知らず」というタイトルは何のことかと、最後まで疑問が残っていたが、最後でやっと分かった。
紙屋悦子の青春【9月28日~29日公演中止】

紙屋悦子の青春【9月28日~29日公演中止】

(公財)可児市文化芸術振興財団

吉祥寺シアター(東京都)

2021/10/20 (水) ~ 2021/10/28 (木)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

「切ない」ドラマだ。
自分では動かせない大きな社会の流れ、その中で、何とか自分の立ち位置を見つけて生きていこうと健気に日々を送る人びと、その生活の哀歓に浮かぶ第二次大戦末期の九州の地方都市の小さな青春。
何度見ても、掴まれてしまう芝居だ。ことに今回は、新劇・小劇場から選ばれた実力のある俳優がキャスティングされていて、いままでの小劇場とは違う味わいのある舞台になった。いい舞台で、久しぶりの吉祥寺シアターの老若取り混ぜた満席の客席にもドラマはストレートに届いていた。
戯曲は、初期作品だけにストーリーに流されたような若書きのところも見えるが、終戦末期の絶望的な戦局の中で巡り合う青春のひと時が鮮烈に描かれていて、戦後何作か見た優れた戦争青春ものの映画に匹敵する出来である。その後(06年)映画化されたのもうなずける。
松田正隆がこの戯曲を書いたのはもう三十年も前、1992年、それから今までの歳月も感慨深い。考えて見れば、俳優はもちろん、作者も演出者もこの時代を肌で知っているわけではない。だが、三十年の前の初演の時は、まだこの「青春」を同じように生きた人は多く世間に残っていて、同時代風俗劇としての共感も大きかった。たが、今客席に当時を知るひとの姿はほとんどない。それはこのテキストが古典化したという事でもあろう。
古典となれば、時代を超える新たな責任も負うことになるだろう。
今回の舞台は、よくまとまっているし、主役の悦子を演じた平体まひろは十代後半の青春を見事に演じ切り、五人の出演者もそれぞれよく演じている(。しかし彼らの演技も体型もまぎれもなく現代の色を濃くまとっている。そこを超えろというのは過酷な要求であることは知っている)。演出も的確である。舞台装置(ラストの櫻)も音響(遠い潮騒の音)も絞り切って自然を見せ、聞かせているのも効果を上げている。選曲らしい音楽もいい。
しかし、と一言いいたくなるのは、つまらないことだが、客入れの音楽。あそこで流れるのは主にまだ戦局が逼迫しない前の東京の流行歌である。戦局逼迫が知れ渡っていた昭和二十年春に入ってからの雰囲気ではない。前半の二人の士官が訪ねてくるくだりでは若い客はよく笑っているが、あんなに笑わせては誤解されるのではないかと思った。
事実を追うばかりが能ではないが、古典を扱うときにはそれなりの覚悟がいるとも思った。



野外劇 ロミオとジュリエット イン プレイハウス

野外劇 ロミオとジュリエット イン プレイハウス

東京芸術祭

東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)

2021/10/15 (金) ~ 2021/10/17 (日)公演終了

実演鑑賞

もともと劇場の前の広場で上演予定だった野外劇をそのまま大きな東芸のプレイハウスの舞台に組んで上演するというイベント上演である。上演時間2時間で原作を追っているので、舞台を劇場内に移しても、とはいうものの、違和感はぬぐえない。
多分、としか言いようがないが、野外劇でやって入れば、祝祭気分でこのイベントの至らなかった演劇部分、やたらに元気がいいだけが取り柄の出演者たち、意図不明の役と俳優のジェンダー越え、結構複雑な原作のストーリー説明不足、などはかなりカバーできただろう。
観客にも参加感もあっただろうが。プレイハウスのいい椅子に座ってしまえば、愚老などは、肝心のバルコニーの場のあたりで寝落ちしてしまう有様.とてもみてきたといえる状態ではない。

ジュリアス・シーザー

ジュリアス・シーザー

パルコ・プロデュース

PARCO劇場(東京都)

2021/10/10 (日) ~ 2021/10/31 (日)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★★

オール女性キャストと言う大胆で意欲的な「ジュリアス・シーザー」である。今までにない新鮮さで、本年屈指の舞台になっている。シェイクスピアの意図を現代に通じる舞台に形象化した森新太郎(演出)の会心作である。
見る前はこの芝居を女性でやるのは無謀だと思っていた。それが見事にに裏切られた。
主要な登場人物、ジュリアス・シーザー(シルビア・グラブ)もブルータス(吉田羊)も、アントニー(松井玲奈)もキャシアス(松本紀保)もみな、野望と信義の中で権力の座を目指すギラギラした「男」である。それをオール女性キャストでやる。タカラヅカの亜流になるのではないか、今、現実に男が支配している権力構造のドラマが浮いてしまうのではないか、男ならではの情感が表現できるだろうか、そういう低い次元の杞憂を吹き飛ばす快作であった。
なんといっても、この作品をフィメールキャストでやると判断して、それを見事に舞台化した演出が第一の功績だろう。女性がやることによって、ドラマの中身が抽象化されて人間が権力に侵されていくテーマが明確になった。その権力の闘争を裸舞台で俳優の動きでダイナミックに造形していく力量、それに答えた女優たちは必ずしも役にふさわしい人気のトップスターではないが、舞台俳優としての日ごろの評価を十分に発揮している。。
登場人物全員、濃淡のある臙脂色で統一したローマ風衣装は、個々の役柄の説明を拒絶しているが、それがかえって俳優の魅力を引き出し、それぞれの権力に取りつかれていく人間像を引き立てている。中ではやはり主演の吉田羊。預言者の三田和代。人気だけに頼らない的確なキャスティングもいい。シーザーとブルータスの死の場面で流れる観客が全く予想できない優美なピアノ曲。序幕シーザーの凱旋から崩壊まで2時間15分・休憩なしの一気呵成にまとめたテキスト・レジの力も大きい。などなど、様々な仕掛けが相まってこのユニークなジュリアス・シーザーが生まれた。
選挙で権力の交代期にこのドラマを、と言う時宜を見据えたパルコの企画力も大したものだ。しばらく劇場がなかったパルコにはぜひ、興行界がなびいている(新国立劇場までも!!!)タレント興行ではない実のある演劇興行を成功させてもらいたいものだ、とは言っても、この優れた舞台、残念ながら、いかにも芝居好きの大人たちの観客でも、客席は半分しか埋まっていない。当日前売りで安価な切符も出ている。

夏の夜の夢

夏の夜の夢

演劇集団円

吉祥寺シアター(東京都)

2021/10/02 (土) ~ 2021/10/11 (月)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

舞台を二重に組んだグローブ座風の裸舞台の中央の高みに木材の森風のオブジエが立っている。それだけの愛想のない舞台に、二十人余の役者が次々に現れてはセリフを朗唱風に言う。稽古中はコロナ禍だったので、俳優間の距離をとったという。それがリアルではない独特の空間になっている。音楽は笛や小太鼓が入っているが現代音楽で、時に踊りもある。振付も、踊り手もパッとしない。テキストレジと演出は客演出の鈴木勝秀。近頃、現代化やコスチュームプレイ化でサービス過剰の「夏の夜の夢」を見慣れていると、森の中の恋人の取り違えと、町人たちの御前芝居に絞った構成で、祝祭劇らしい喜劇的なシーンの連続で休憩なしの二時間。演出が劇場パンフで正攻法のシェイクスピアと言っているように、この作品は、あまりごてごてと飾らなくても面白いのだと、納得できる舞台だった。
しかし、このように芯だけを上演するならば、俳優には今少し頑張ってもらいたい。かつてはこの劇団のシェイクスピアは安西徹雄訳だったが今回は松岡和子訳。言いやすくなったからか、若い俳優たちはほとんど、セリフを一気に口にするだけで,言葉のニュアンスの表現ができていない。味気ないことおびただしい。この劇団には声優としても高い評価のベテランがいるのだから、もっとキチンと教えたらどうだろう、この際、口移しでもいいと思う。そのうちにうまくなる。
この上演台本だと、音楽と、それに伴う踊りは芝居の雰囲気に大きな影響を及ぼす。音楽の曲は今風との折衷で悪くないと思うが、編曲が雑な感じがする。振付はやはりプロの振付師をスタッフに加えるべきだった。折角の妖精たちがそれらしく見えないではないか。
劇場は満席。コロナ明けの祝祭気分も溢れていて、観客も楽しんでいる。飾らないシェイクスピアの良さを久しぶりに見た。


或る、ノライヌ

或る、ノライヌ

KAKUTA

すみだパークシアター倉(東京都)

2021/09/25 (土) ~ 2021/10/05 (火)公演終了

実演鑑賞

満足度★★★★

この舞台で、六十五年も前に大学の一般教養の「社会学」で初めて教えられた「社会は基礎集団(肉親の関係)と機能集団(他人の関係)から成る」と言う社会の構造の原則を思い出した。
いま現実社会が、それぞれの集団の規律を失い浮遊していることから、さまざまな問題が起きる。肉親の欠如を社会が埋めきれず、逆もまた機能しない。言わば、人間がどこにも主なき「ノライヌ」になっている。
第三国人が幅を利かせているような都会の街で三人の女が、恋人に裏切られ、捨てられ、肉親を怪しげなカルト集団にもっていかれる。そこからの回復への旅の道のりをロードムービー風に描いている。2時間45分(休憩10分)と長い。
家族はいま、社会はいま。と問うが、あまり教条的に進まない。「横転」や「ひとよ」、「荒れ野」の現代の社会劇(と言うのも古臭いカテゴライズだが)作者としてのこの作者のいいところだ。今の社会に取り残されたような人々や集まりをジャーナリスティックに取り上げているが、舞台には今の風が流れているし、提示されるテーマは根源的だ。
一筋縄ではくくれない発展途上の作者で、今までも自作を再演するたびに(あるいは舞台から映画へとメディアを変える時に)書き直してバージョンアップしている。この作品は自分の主宰する劇団で、自分も気持ちよく舞台に出て、と第一稿風で、まだ、まだるっこいところや説明不足のところも多い。
以下はその感想と言ったところだ。
この作者、いつも舞台を進めていく主人公がなかなか決まらない。一人一人、丁寧に説明していき、その時のエピソードや芝居も悪くはないのだが、それに気を取られていると、それぞれの人物の関係が分かりづらくなる。観客が芝居から外されてしまう。
「ひとよ」の映画版が分かりやすかったように映画ならワンカットの映像で済むところが、芝居はそうはいかない。この作者は映画脚本も書くのだから今後の課題だろう。
もう一つ、「或る、ノライヌ」と言うが、実際に彼女たちの周囲にいるイヌそのものを擬人化して舞台に上げてしまうのはどうだろう。犬の社会の説明もいるわけで、それで随分尺を食って分かりにくくなっている。みんなで、路地で吠えれば、たしかに象徴的だがどんなものか。
舞台からは最近珍しくなった80年代、90年代の小劇場の匂いがする。最近の新しい劇団はちゃっかり、ドラマターグなどを置いて客観的に整理してしまうところを、ここはぐずぐずと引きずっている。それは脚本だけでなく、俳優の演技や、美術や照明にも表れている。その功罪は決められないが、今回はすべてに少しとっ散らかっているように思う。
といろいろ言いたくなるところがこの劇団に良いところで、きっと作者も、第一稿のつもりで気が付いているだろう。観客は付き合うしかない。
さらに余計なことだが、この「倉」(ソウと読むらしい)という劇場、新装なってから始めて行った。もう彼岸過ぎで、このあたり夜はすっかり暗い。とても劇場とは思えないところに入り口がある。元劇場のあったところに表示でもあればわかりやすいのに。


九月大歌舞伎【第二部のみ9月6日(月)まで公演中止】

九月大歌舞伎【第二部のみ9月6日(月)まで公演中止】

松竹

歌舞伎座(東京都)

2021/09/02 (木) ~ 2021/09/27 (月)公演終了

実演鑑賞

「四谷怪談」夜6時からの第三部。浪宅の場から隠亡堀まで、休憩20分を入れて2時間10分、超特急の四谷怪談だが(昔、夏芝居で見た四谷怪談はこんな見取りだったと思う)、名優二人の見せ場はちゃんと入っていて、一席置きの客席満席の見物衆はご満足。普段はジャニーズ客には困ったものだ、などと言っているくせに、こういう役者見物はやはり芝居の楽しみの一つだ。
芝居としては説明不足が幾つもあるが、ここのところ、コクーン歌舞伎や木ノ下歌舞伎で、普段はやらない場も見ているのでよくわかる。こんなところにもこの戯曲の現代上演の功徳もあると知った。


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