The Fantasticks
東宝
シアタークリエ(東京都)
2022/10/23 (日) ~ 2022/11/14 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
幼いころから馴染んできた童謡を聞くような懐かしいミュージカルだ。
何度も上演され、いまは、わが国でもアメリカ同様、学校の文化祭やアマチュア劇団の上演もされる古典である。東宝制作のクリエの舞台は、中堅、新人から成るプロダクションだ。
もともとが南部の田舎の大学から生まれた作品と言うだけあって、構造は単純で、親の不仲な隣り同士の恋人の青春譜である。若い二人、マット(岡宮来夢)とルイーザ(豊原江理佳)。頑固だが人のいい父親たちは今拓哉と斎藤司、二人の中を裂くべく雇われるならず者は青山達三と、旅芸人のモーティマー山根良顕。物語の語り手は愛月ひかる。
どこかで舞台を観た記憶がある俳優ばかりで、堅実な公演になった。演出は上田一豪。演出者はもう四十歳に近い年齢だが商業ミュージカルでは若手の方だろう。突出した役者のいない座組を手堅く、原作に沿って優しいミュージカルに仕立てた。昔のあまり流行らない遊園地のような電飾をつるした中に、一段高い場所を設けただけの装置も、その陰に置かれたピアノとギターにドラムと言う音楽も素朴でいい。物語は昔風にほとんど歌で進んでいき、二幕になると、雇われた悪者たちとの殺陣もあるがいずれもお約束の進行である。お馴染の主題曲は最後に出てくる。これがないとやはりヒット・ミュージカルとは言えないだろう。若い二人が恋を成就するまでが一幕、60分。その破局と仲直りが二幕55分。
東宝が日比谷の基幹劇場で、内容的には派手でもない「アルキメディスの大戦」や時代遅れと言われかねないこの作品を一万円以下のS席で幕を開けるのは、自社の基礎と将来を見据えてのことだろう。そこはさすが長年の商売うまいなぁ、と言う感じと共に、興行者の伝統も感じた。実は筆者はこのミュージカルの芸術座初演を五十年余年前に見ている。その時はオフブロードウエイのミュージカルがわが国で初めて上演される、と言う触れ込みだったが、正直言えば、ぎごちなく面白くもなかったし、客席はガラガラに等しかった。(今回はほぼ7割)。まだ、小屋に客がついていない頃で、前後して森光子や三益愛子の女優芝居でこの小屋は満席続出の劇場として東宝演劇を定着させることになるが、いまでも、この9月から十月公演のような地味な公演も、忘れないところ、千と千尋やレミゼの演劇興行に連なっている大会社の底力を感じないではいられない。パルコ焦るな、公共劇場も伝統は片隅では考えろ、と言う教訓である。
精神病院つばき荘
トレンブルシアター
シアター711(東京都)
2022/10/12 (水) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
医師が前職と言うのは作家にはよくあるが、演劇人では非常に珍しい。創作現場に時間がかかるから、片手間で少しづつ拡大していくという手が使えない。関西から出てきたくるみざわしんは中年になってから、まず投稿戯曲で注目された。今春初めて見た作品(阿佐ヶ谷ザムザ・「ひとつオノレのツルハシで」)は新人らしからぬ戯曲だと思ったが、それはこちらが知らないだけで、関西では多くの作品が既に上演されていた。
今回の作品は医師として専門領域である精神科病院の現状についての物語で、専門領域だけあって、知らないことが山盛りで、それだけでも興味深く見ることができた。前回と同じ告発劇で俳優も同じ。戯曲のスタイルも似ていて、セリフで押していく。
今回は一部の政・官と民間の阿吽の呼吸で戦後乱立した精神病院の現状が告発されている。
登場人物はそういう病院の雇われ院長(土屋良太)と、長期入院の患者(川口薫)、30年以上勤めている女性看護師(近藤結宥花)の三人。長期入院患者で成立している病院なので、長い習慣的ルールで病院が維持されている。形としては民主的、合理的な入院患者と病院側の定期的な会合もあって、そこでの合意で病院の日々が回っている。院長は取りまとめ役だ。長い慣習の中には古くなるものもあるし、新しい時代のハラスメント規制や事態の変化にも対応しなければならない。この舞台で描かれる問題点は、原発事故が起きた時に備えて、どう対応するかを平時から決めておくことの可否(是非ではなく、出来るかどうかで、なんとしても、病院側は出来ることにしたいが、現実にはまったく無理である。こういう事態はいま疲弊化している日本の現実として随所に見られる)である。病院長が巧みにうやむやにする経緯が喜劇調に描かれる。
だが、後半、原発事故は現実のものになる。日本のほとんどが住めなくなる。そこでも、院長は生きている。
1時間45分ほど、セリフ続きで、主役の医師を演じる土屋良太は大車輪で、熱演である。ほかの二人もそつがない。ただ、前回は演出が芝居を面白くする経験も豊富なベテランの鈴木裕美だったので、同じような狭い舞台ながら動きも俳優の性格付けも派手で、飽きない作りだったが、今回はセリフを立ててほとんど板付きである。(演出・大内史子)。それだけに人間的な共感よりも告発の趣旨が中心になってしまったのは、セリフも内容も面白かっただけに勿体ないような気もする。初日はいろんな客層で満席
A・NUMBER
サンライズプロモーション東京
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2022/10/07 (金) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
日本ではあまりお目にかからない種類の脚本で僅か70分。それでいて一夜芝居である。
父(益岡徹)と息子(戸次重幸)だけの二人芝居。4歳のかわいい盛りに息子を亡くした父はクローンの息子を作成して、幸せに暮らしてきた。しかしその息子が成年に達しようとするとき、息子は同じクローンが20体以上作られたことを知ってしまう。父を難詰する息子のシーンから始まり、息子の知らなかった父母(母も亡くなっている)や兄弟の事情が明らかになってくる。未来SF系の設定になっているが、これは現代科学の先端の遺伝子工学の話題を好機とした家族論である。話題も事件も多岐にわたっていて面白い。
作者キリル・チャーチルは、半世紀前にはイギリスの若い女性劇作家としてもてはやされ、日本でも「クラウドナイン」や「トップガールズ」は何度も上演された。今で言えば、ルーシー・カークウッドのような勢いがあった。これは02年の作品、日本初演である。(作者は現在も存命のようだ)
ジェンダーを意識した作品を書いてきた作者だけに、舞台には女性が全く出てこない。舞台は、二人だけの対話で進んでいくが、その奥の一段高く置かれた黒のアルコーブには男女の様々の衣装の黒い顔の人形が階段状に五六体立てられている。ここの照明がいつの間にか微妙に変わるところ、ものすごくうまい。(演出・上村聡史・照明・沢田祐二)
中年のころ、ロンドンで仕事で知り合った知人に劇場へ連れていかれると、こういう手の新劇がよくかかっていた。サザンよりは一回り小さなほそい通りに面した劇場で市井の観客が芝居を楽しんでいた。友人、夫婦連れ合いで来る客も多く、きっと彼らは帰り道パブにでも寄って、芝居のあれこれをネタに知り合いの噂話を楽しんだのだろう。観客の成熟も基盤にしているような芝居だが、日本でも女性作家が頭角を現してきているのだから、早くこういう芝居を日本作家で見て見たいものだ。桑原裕子、瀬戸山美咲、詩森ろば、たのしみにしてますよ。
ソハ、福ノ倚ルトコロ
演劇集団円
吉祥寺シアター(東京都)
2022/10/07 (金) ~ 2022/10/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
晩年、目を患って口述筆記で「南総里見八犬伝」を完成させた滝沢馬琴(佐々木睦)の家族、ことに夭折した息子の嫁みち(高橋理恵子)の奮闘記である。
この時代は馬琴のような大衆読み物をはじめ、浮世絵や評判記、芝居など、都市大衆文化の最初の興隆期で今までにも、浮世絵の画家の北斎、広重、写楽や出版元・蔦屋、作者でも山東京伝など、芝居にして立つキャラクターも多く、何度も舞台にも上がりテレビや映画の素材にもなった。どこか見たことがある、と言う既視感があるのは、今回は馬琴の日記をもとにして史実を追っているからでもあろう。円の総力戦の公演で、有力俳優はほとんど出ていて、文学座系であるだけに抽象セットであるにもかかわらず江戸爛熟期の雰囲気は言葉に出ている。佐々木睦、高橋理恵子はもとより、佐々木敏(北斎)、福井裕子(文盲の妻)、高林由紀子(みちの母)皆懐かしい俳優だが、脚本も含め、下町の言葉になっているのがいい。俳優の年月が生きている。若手では山本琴美(新米下女のむら)。
舞台はみちが口述を始めるところから完成まで、2時間半(休憩15分)にまとめているが、なくもがなの八犬伝の内容紹介や、登場人物、時代背景の説明など丁寧すぎてだれる。
キャラクターも物語も今どき、パワハラやジェンダー差別で指弾されることばかりだが、そういう歴史文化破壊の俗論に惑わされず、取り組んでいる。
芝居になりやすい時代と言えばこの後は明治の文明開化、大正リベラリズムの時代があるが、どちらも樋口一葉や伊藤野枝のような女性抜きでは成立しない。みちにも、劇的にはもっと個人に焦点の当て方があったと思うがどうだろうか。
アルキメデスの大戦
東宝
シアタークリエ(東京都)
2022/10/01 (土) ~ 2022/10/17 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
すぐれた戦争モノ・ファンタジーだ。
漫画から出発して、東宝の特撮映画、今回は商業劇場で劇化された。第二次大戦中の戦艦大和建造を素材にしたエンタティメント。演劇界期待の劇団チョコレートケーキの・作・演出のコンビが、都心の東宝の商業劇場へ初登場。巨大戦艦建造の国家の論理と、数学の合理性の対立と言う異色のテーマは成功するか、その首尾や如何。
幕前の静かな波の音のなかで、幕が開くと、敗戦まじかの海軍通信部。パラパラと置かれた安っぽい事務机で通信兵たちが無線にかかり切っている。大和沈没の報が飛び込んでくる。崩れ落ちる兵たち.このプロローグから始まるのだが、驚いたことに、この場面で使われたスカスカの机と椅子を組み合わせるだけで、海軍本部も、会社社長室も、長門や大和の船橋も、全場面を処理してしまう。緋毛氈一枚を斜めに置くだけで宮中を処理してしまった「治天の君」の、あっぱれチョコレート魂である。
結果はすべて想像以上によく纏まっていて、ジャニーズファン以外の若い客層が緊張して見ている。平日の夜、九分の入り。2時間55分(休憩25分)
チョコレートケーキにとっては手慣れた政治的対立の構図の作品だが、戦時の政治判断の失敗は、現在の政府のことに当たっての右往左往にも重なっている。それが嫌らしく表面に出ることのない表現にしているのもさすが。思い切って裸に近い汎用セットにしたのも成功している。その中でよく劇場の大きさを読み込んでスケール感を出す工夫もしている。それが、花より団子の実力派俳優陣と合っていて、敗戦のストーリーにふさわしい。一方、人気の福本莉子の設定はいかにも通俗で生かし切れていない。
ドラマの対立軸を戦争と数学の正義、と言う新しい視点にもっていったのも、ユニークで成功している。戦争は知らない観客が圧倒的に多くなった現在のエンタティメントにふさわしい。数学の板書などはちゃちいのだが、結局は普通の誰にもわかる話に落としていくのもうまい。
俳優はすっかり若くなって、軍人らしくはないが、現実に彼らが生きていた時代が遠くなってしまったのだから、これでも今の観客には馴染めるのかもしれない。造船中将(岡田広暉・好演)脇に回った役どころの少尉(宮崎秋人)の使い方も商業演劇定番ながらうまい。
クリエの興行としては大成功だろう。さすが、東宝。大手のプロの見切りの良さを十分に見せてくれた商業演劇である。
スカーレット・プリンセス
東京芸術祭
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2022/10/08 (土) ~ 2022/10/11 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇が、生まれた土地を離れて、抽象的な存在として生きて行くのは難しいものだ、とつくづく思う。
ルーマニアの演劇人ブルカレーテが、南北の「桜姫」をモチーフに作った「スカーレット・プリンセス」。まずは、桜姫と言う芝居自体が男女の情念の交錯というテーマはわかるが、そのありよう(解釈)をめぐっては、人それぞれに多くの受け止め方があるだろう。歌舞伎として、一般的には孝玉のコロナ禍でも大歌舞伎で上演された名舞台でよく知られているが、現代では全く存在しえない人間関係をもとにした複雑な筋を一口で言える人は多くはないはずだ。その今の時世では糾弾されかねない、エログロとも、サドマゾ趣味とも、幼児虐待、ジェンダー問題、宗教問題、差別山積のストーリーの中から、人間の真実の心情が妖しい美しさと恐ろしさとともに溢れ出す。その背後には狭い島国の中で紡いできた日本人の生活や文化が凝縮されている。この国に生きていると、筋の倫理的善悪を超えて、俳優の様式的な演技にもとろけるような演劇的な感興・共感があるのだ。大歌舞伎だけでなく、木下歌舞伎でも来年上演を予告している(演出は岡田利規。今から待ち遠しいと思う作品だ)ところを見ると、若い人たちにも共感できるところが多いからだろう。
ブルカレーテをはじめてみたのは「ルル」で、これはよかった。今まで見たことのない官能的で自立したなルルだった。そのあとに野田秀樹脚本の「夏の夜の夢」。イタリアンレストランの厨房の話になっていて、不思議な新しい世界だった。最初はドイツ、次はイギリス、今回の「桜姫」は、はるか日本の作品である。ルーマニアが遠くなるにつれて、やはり、抽象的な世界になっていく。
一つの場で、その時しか表現できない演劇の宿命みたいなものかもしれない。演劇学者ならどこかで研究成果を出している課題かもしれないが、寡聞、不勉強で知らない。その生活感との距離が、見物としてはやはり隔靴掻痒になってしまう。フルショットで舞台を観ているときれいでよく整理されていて、原作や歌舞伎様式のの料理の仕方もわかるのだが、ワンショットでこれが桜姫、といわれると、清玄も桜姫も、個人の人格としてはするりと逃げていくような感じなのである。
オデオン座公演と同じく一文字の上に字幕が出るが、今回は全然とっかかりのない言葉で読まざるを得ない。大きなプロセニアムだから、演技と字幕の眼の往復につかれる。今回は字幕の輝度も低めに抑えられていて読みにくかった(抑えた理由も理解できるが)。経費もかかることはわかっているがやはり同時通訳で聞けるイヤホーン方式も採用してほしい。
ホームレッスン
パルコ・プロデュース
紀伊國屋ホール(東京都)
2022/09/24 (土) ~ 2022/10/09 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★
芝居は生物だから、うまくいかないことはある。
それにしても、という出来である。やはり、一番の原因は戯曲だろう。素材そのものは、今の時代に合いそうな家庭崩壊と回復の話なのだが、設定があまりにもご都合主義である。だれか、制作側でも指摘しなかったのかと思うが、場当たりの行き当たりばったりで話がどんどん進む。親と離れて施設で育った男(田中駿介)が出来ちゃった結婚しようと妻(武田玲奈)の家庭を訪れるとそこは百の家訓がある家庭で、母親(宮地雅子)の強権のもと気のいい父(堀部圭亮)は右往左往。弟(堀夏喜)は家訓を破って永の座敷牢暮らし。
この設定で、妻の出産まで。気がめいるような2時間で、三十代の女性客が多い客席もシーンと静まり返って見ている。喜劇でもなければシリアスドラマでもない。陰鬱な時間が流れる。
救いは、舞台の現場が投げていなかったことで、役者は神妙に勤めているし、演出もとにかくつじつまを合わせようとする。宮地雅子など、ガラに合わない役でだいぶ苦労しただろう。
パルコが、有望な人材を次々と起用して時代に合わせた都会の中間演劇を作ろうと熱心なのはいいが、無手勝流にならないように。蓬莱竜太、横山拓也、小劇場でもまれて出てきた人たちは大丈夫だろうが、若い人にはケアしなければ。なにしろナマものなのだから。
あんなに優しかったゴーレム
ヨーロッパ企画
あうるすぽっと(東京都)
2022/09/28 (水) ~ 2022/10/10 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
こんなに面白かったヨーロッパ企画。今年の上京公演はあうるすぽっと。
ここのところ素材が少し難しいなと思っていたが、今回は、原点に戻って、のびのびとファンタジーを楽しめる。
テレビの取材チームが名投手20年記念のヒューマンドキュメンタリーを撮りに投手とともに草深い故郷の村にやってくる、投手の思い出は、広場でゴーレムと呼ばれている大きな土偶(このデザインと、大きさがうまい)とキャッチボールをすることでピッチングの基礎が養われたのだという。エッツ、あの土偶は、生きている??!。このあたり、こういう話は沢山あって、ペガサスも生きていると村人は言う。土偶の意識調査をする地元の学者も現れる。テレビの取材班のスタッフの中でも話の真偽で意見が割れる。現在のマスコミ倫理の難しさもネタになっていて、ファンタジーとも混ぜ合わせ方もうまい。内輪もめが起きてくるあたり、それぞれの人物のキャラも嫌味がなくていいが、京都の劇団らしい関西風の会話で面白く弾む。再演というが、劇団員の息も合っている。
劇場の規模が丁度この舞台にあって、上下二段に組んだゴーレムのある広場とその下に住む少女の家の二重セットが生きている。かぶりもののペガサスの出し方などタイミング絶妙。客の心理をうまく捕まえている。
良いテンポで笑っているうちに2時間はアッと言う間に経って、こういう劇団は東京にはないナ、年一度の良い出会いの時間を持てたと、温かい気持ちで劇場を後にした。
住所まちがい
世田谷パブリックシアター
世田谷パブリックシアター(東京都)
2022/09/26 (月) ~ 2022/10/08 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
珍しいタイプの翻訳劇の本邦初演である。
社長(仲村トオル)、警部(渡辺いっけい)、教授(田中哲司)の三人の登場人物が、違う入り口から入っても、同じ部屋で鉢合わせしてしまう。設定だけでなく、会話のズレも普通の笑劇とは桁外れのナンセンスぶりで、それがほぼ1時間半、機関銃のように続く。思わぬ地下からの掃除婦(朝海ひかる)の登場で舞台の色合いは少し変わるが、2時間休憩なしの台詞ぶっ通しである。小理屈で、もっともらしい教訓に落としていないところもいい。
イタリアのコメディアデラルテの原作と言うが、日本で上演されると、外国にも、ケラのような作風や、別役のような戯曲も健在なのだと教えられる。演出・白井晃、世田パブの芸術監督新任で、ずいぶん張り切った。しかし、こういう本は横を縦にすればいいというものではない。日本上演のジャパナイズも成功している。今回は俳優の頑張りも大きい。いろいろな出身背景の俳優たちが中年に及んで、積み重ねた舞台の実力をそれぞれに十分に発揮している。隙のないあまり見ない喜劇になった。
天の敵
イキウメ
本多劇場(東京都)
2022/09/16 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
イキウメらしい作品で、この再演ではかなり、エンタティメント化も進んでいる。長くもなって、2時間20分ほど。
イキウメは設定の奇想天外度で大きく面白さが左右される。初期作品は日常の一部を隠してしまうような設定が成功していた。「天の敵」では「生命」。一人だけ死なない、となると、どうなるか。
この不死を発見した満州戦線の飢餓の経緯から始まり、不死の条件は、人の生き血を食料にしなければならないとか、日光のもとに出られない、とか非日常の条件もあるけど、それよりも、周囲の人間と共に老いていけない、という日常的な苦しい条件もある。この辺のぎくしゃくも巧みに設定されていて、ドラマは面白く展開する。
幕開きのシーンがテレビの料理番組で、そこでは自然食品とか、長寿のための食生活とか、現代の食・健康ブームが描かれていて、これも、イキウメの特色だが、思わぬ切り口からの現代世相批評になっている。ここが今回はずばり、当たった。
舞台も、かなり余裕を持っていて、一杯飾りの舞台作りにも随所にあるお遊び的なシーンも外してはいない。全体は若干長いかな。プロローグの実際に料理するところとか、最後の部分は少しもたれる。お馴染の俳優たちもすっかりガラと持ち役が決まっていて楽しませてくれる。小劇場としてはこういう独自の作品で、ここまで来たのはお見事で、観客も随分楽しませてもらった。
本多劇場で十九公演。見た回もほとんど満席だった。
燐光のイルカたち
劇団青年座
ザ・ポケット(東京都)
2022/09/23 (金) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
はじめてみる関西の小劇場出身の作者の作品だ。日本の創作劇を上演することに積極的で実績もある青年座が、経験豊富な演出家・宮田慶子を立てての上演である。
ストーリーも劇の構造もユニークな新人の登場である。イキウメに似て時代設定も場所設定も架空、と言うより不詳と言う感じである。内戦下の架空の街の喫茶店を営む一家が舞台である。店は内戦のため、南北の境界に壁を立てた国の、その南の壁際で細々と営業を続けている。壁の上からは常に監視兵の眼があり、戦火の音も、スパイの疑いなどの捜査員が出入りするなどの緊迫感もある。
しかしながら、その壁にはそれほど難しくなく行き来できる抜け道もあり、農家を営む市民が戸外で働くこともできる。店には映画に深い愛情を持つ若者や記録映像を作る人たちも出入りしていて、そこがこの場所を現代の暗喩として性格づけている。
この場所で一家が遭遇するのは、一家離散であったり、官憲の強制捜査であったり、壁を越えてくる者への人間的な支援であったりするが、その描写はストーリーを紡ぐというより生活の断片を並べていくという感じで、そこもこの作者を特徴づけている。作品のリアリティは、境界線を挟んで関西弁と、標準語で話される言葉が違うとか、映画への情熱への共感とか、喫茶店で提供される食物とか生活上の細部で保障されており、南北の政治体制の主張や、戦争の原因、現在の戦況などは一切触れられていない。市民にとって戦争とはこういうものだという戦争に慣れ切った世界である。かつて衝撃的であった「寿歌」の世界がいまは架空の街角の喫茶店に転がっている。
ディストピアのドラマとして、中身は、イキウメや寿歌が透けて見えて、それほどのことはないが、関西弁の力とか、市民生活の細かいリアリテイがとりいれられており、フラッシュバックで短いいシーンを重ねる手法も最近では珍しい。
演出家としては青年座のリーダー格の宮田慶子はこういう作品はあまり手の内ではない(と言うより最も苦手ではないかと思う)だろうが、生活感のとか、家族関係の膨らませ方はさすがの出来で2時間飽きない。しかし、若い俳優たちはもっと頑張ってもらわなくては。関西弁のセリフも浮いているし、ベテランに交じると狭い劇場で人数も少なくないから無駄な動きも目立つ。*の一つは新参作家へのオマケ。
ガラスの動物園
新国立劇場
新国立劇場 中劇場(東京都)
2022/09/28 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
演劇は、演じる側も見る側も上演される国(場所)を逃れられないものだと思う。
フランスの代表的な劇団がアメリカの戯曲(それも80年も前の)を母国上演のまま日本でも演じるという。劇団招聘公演と言う興行だけでは絶対に引き合わない形で、したがって国立の劇場の税金公演である。
その疑問はあとで書くが、まず、芝居そのものについて。
「ガラスの動物園」は室内劇で、半円形の新国立のオープンな舞台では俳優たちもやりにくそうで、最初しばらくは、何か身振りも不自然に大きくて、違和感があったが、そこは次第に収まって、後半のローラ(ジュスティーヌ・パジュレ)とジム(シリル・ゲイユ)の場面などはなかなかいい。ジムが黒人俳優と言うのはアメリカなら今のご時世ならやりそうなことだが、この舞台ではまったく自然で、フランスらしい(最近のヨーロッパ映画でもよく見る)。追憶の劇ともいわれている過去にとらわれている人たちの物語でもあるわけだが、このジムは未来も既に過去に取り込まれているような風情であった。
映画で見る女優のイザベル・ユベール(アマンダ)は舞台でも実績のある人ということだが、その真価を見るには、やはり千人以下のプロセニアム舞台で見たかった。冒頭のトム(アントワーヌ・レナール)の語り手として観客に語り掛ける場面も、手品で、これだけの観客を掴もうというのは無理だ。
舞台は、刷毛で茶色の汚しを賭けたようなモルタル壁で囲まれた一室。半具象の難しいセットだ、バルコニーの場は舞台の前面で演じられる。4人だけの芝居で幕間なし、黒スクリーンを下ろしながらの場面転換で二時間。音楽も音響効果も控えめだが、あまり「アメリカ」を意識してはいない。日本で上演される「ガラスの動物園」は日本人好みの小市民家族人情劇でまとめて人気があるが、このフランスの劇団の公園とはタッチが違う。演出者(イヴォ・ヴァン・ホーヴェ)はアメリカに特有な小さな人間関係の中でも独立を求めるところに注目したと言っているが、そのこと一つでも、日本とフランスでは解釈が違い、日本ではおセンチ、フランスでは孤独を厭わない、ということになるのだろう。そういう他国の有名戯曲に対する違いは実際に公演を見て見ないと分らない。そいう機会は留学でもしないとなかなか得られないが、この公演は、そういう違いが分かって面白かった。
翻訳字幕は舞台中央の一文字の上の黒幕に出す。日英で出るのだが、丁寧なのはいいが、演者と距離があるので目が忙しい。同時イヤホーン音声も選択できるようにした方がよかったと思う、どうせ、舞台も第一原語でやっているわけではないのだから。
舞台は、なるほど、という出来ではあったが、なぜ、フランスの国立劇団を招聘しておきながら、フランスの芝居をやらなかったのかは疑問が残る。フランスはアメリカよりも古い演劇の伝統もあり、古典も不条理劇も、さらに現代劇も皆フランスに名作がある。一度、「ゴドー」をフランスで見てみたいと思っている観客は多いと思う。欧米では歌舞伎のような継承はないから、時代によって演劇作品はどんどん変わる。今のパリの劇場はどんな風にやっていて、それをどう観客が見ているかは演劇ファンは関心がある。この「ガラスの動物園」はコロナでろくろくパリでもやっていないという。なんだか長年の政府間取り決めを誓文払いしたような印象である。
有名女優と、有名戯曲を出しておけば客は集まるだろう、それで言いわけは立つ、という下心が見え見えで、国立劇場の所業としては寂しい。事実、客は一階は埋まっていた。しかし、戦後最初にバローが来た時も、つい十数年前にムヌーシキンが太陽劇団を引き連れてやってきたときも、演目はいかにもフランスらしい一筋縄ではいかないもので、それを機会に学んだことも多い。だが、今は、海外の劇団の上演をというのなら、大きなカンパニーは無理でも、ちょっと気をつけていれば東京ではいくらでも見られる。(ミュージカルならほとんど日本ツアーをやる)今の時代の招聘公演の在り方は少し真面目に考えてほしい。
最期によかったのは高いパンフレットは売らないで、欧米の劇場のようにタダで観劇要覧のような小冊子を配ったことでここは国立劇場らしいおおらかさだった。
ドードーが落下する
劇団た組
KAAT神奈川芸術劇場・大スタジオ(神奈川県)
2022/09/21 (水) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
久しぶりに加藤拓也の創作劇、それも自分に身近な青春喪失劇である。
「無用の人」ドラマは、今までにもチェホフを発端に(もっと昔からあるだろうが)数々見てきたが,これはまがうことなき現代劇。相変わらず、うまい。
現代の無用の人は芸人社会からおちこぼれて30歳代になってしがない食堂のバイトなどをやっている夏目(平原テツ)と、それを取り巻く男女。信也(藤原季節)は友達として事ごとに夏目の面倒を見るが、歳を経て、その距離は次第に遠くなっていく。二人を中心になんとなく集まっている同世代の若者グループの、いかにも今風の3年間の物語を、現在、三年前、一年前、直前と時間設定して辿っていく。自殺するとか、警察に捕まるとか、深刻なものから、男女関係、親子実家問題、友人関係、日々の生活問題と、この世代にありがちなエピソードに加え、知的障碍者への性犯罪とかエグイ現代社会タネも交えて物語は進むが、それらを解りやすいテーマにしがたって並べてはいない。最後が、突然のように終わることも含め、作者が当日ビラで述べているように一つの時代の人間関係記として描いているだけで、評価もしていなければ、感情を伴走させてもいない。それでも面白く見てしまうのだから、この作者、やはり並大抵の才能ではないと思う。
現実の社会にはこの若者程度の総合失調症の人たちは普通に生活している。内心、自分たちは世間には見えない方がいいんじゃないか、と思いながら生きているし、周囲もそこは塩梅してきた。しかしその亀裂は時に露呈することもあるわけで、丁度安部国葬の日にこの芝居を観たのも奇縁であった。いや、そこは病を持つ人たちだけでなく現代のどこにも誰にも遍在することだろうと、観客は解らないでもない。少し引いてみれば、誰もが個人の壺に入ることを推奨しているような社会への批判劇にもなっている。
今回は、そういう無用の世界に生きる人たちをマダカスカルの絶滅した飛ばない鳥ドードーになぞらえているが、そこは作劇的には少し性急だったかと思わないでもない。
この作者の才能はよくわかっている。しかし、こういう生モノを扱っていると思わぬけがをしてあたら才能を潰すこともある。この作・演出者に「ザ・ウエルキン」を持って行ったのはさすが、シスカンパニーの見識であった。「ザ・ウエルキン」ジェンダーを問う難しい側面を持っていたが、ほとんど完璧と言っていい演出だった。それは翻訳台本だったからのびのびやれたからだろう。野田秀樹もこの年代には、よく古典や小説原作の作品に取り組んでいた。日本古典をベースに野田の桜の下のような新作を期待したい。
血の婚礼
ホリプロ
Bunkamuraシアターコクーン(東京都)
2022/09/15 (木) ~ 2022/10/02 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★
スペインといえば「血の婚礼」を連想するほど、知られた戯曲で、今までも、ぶどうの会から始まって、何度も見た覚えがあるが、いずれもタイトルにあるように、結婚と殺人が同時に起きる荒々しい人間の根源的な生と死をエキゾチックな南欧の地方風景の中で描く舞台だった。今回は杉原邦生演出。よきにつけ、悪しきにつけ、今までに見たことのない「血の婚礼」だった。
杉原演出は、今までも、唐や太田省吾、さらには、グリークスや木ノ下歌舞伎と、さまざまな作品で見てきた。古典から現代劇まで、自らの戯曲解釈と、今見るという現代演劇の立場が考えてあって、成否はあるがどれも演出家の存在を明確にする舞台であった。今回はロルカ。
ロビーに出ていた演出者の弁によると、今回は作品に描かれた人物たちの「思い」の葛藤を中心に置いた由。
舞台は白い壁にあみだくじのように筋交いの柱が埋め込まれているスペインの農家の一室、この四角い部屋が斜めに置かれていて、四角い部屋の端が三角形に組まれている。そこに二つの出入り口。窓があって、そこから外の広場がうかがえる。
原作一、二幕がここで演じられる。壁に当てられる照明の色で若干の変化はあるが、ここで、結婚する男女の家族的背景が説明される。専ら立ったままの台詞による説明で、若い演者たちの台詞力もあって、舞台の熱量が上がっていかない。折角結婚式から花嫁と情夫の逃亡、と言う盛り上がるべき一幕の幕切れもさして華やかでもなければ、サスペンスがあるわけでもない。演出者のいう「思い」も生煮えである。
二幕は、荒涼とした原野。ここで神々の出現も演じられ、そのあとは、ほとんどコクーンの裸舞台をいっぱいに使った派手な振付の花婿と情夫の殺陣。
全体としていつもながら様式的な統一は、決まっているのだが、だからと言って、新しいロルカの発見があったわけでもない。不満はやはり、このドラマは、思いというならセリフや殺陣の動きでなく、人間の肉体のリアルな演技で表現しないと時代を超えられないのではないか、という疑問である。
その点では、今回の若い俳優たち、花婿の木村逹成 情夫の須賀健太 花嫁の早見あかり、いずれもあまりにも現代そのままで、結婚式も六本木の結婚パーティもどき(それは今までの杉原演出にもよくあったことだが)今回はそれが、ロルカの世界とうまく重なっていかない。ベテランの安蘭けいもスペインの母性には及ばない。
音楽は今まではギター音楽やフラメンコが定番だったが、なんだか中世宗教音楽のようで、それはそれでよかったが、舞台との兼ね合いで言うと、時々ドカンと大きな音を挟む音響効果と同じく舞台になじんでいたとは思えなかった。
今まで基本、リアリズム演劇でふり幅いっぱいにやってきた「血の婚礼」を新しいスタイルでやろうという壮図はいつもながらの杉原演出らしく、小劇場も商業劇場も高いレベルで演出できる若手演出家として今後も大いに期待するが、今回は行き届かなかった。
入りは平土間が八分、二三階は苦しい。
笑顔の砦
庭劇団ペニノ
吉祥寺シアター(東京都)
2022/09/10 (土) ~ 2022/09/19 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
独特の劇空間を見せてくれるぺニノの公演。期待を裏切らない本年屈指の舞台だった。
今回はリアルな僻地の漁村のアパートの二部屋が舞台で、その日暮らしの漁民たちと、認知症の親を抱えた父子家庭が登場する。幕開き、漁から上がってくる小さな漁船の、船長(緒方晋)と弟子二人(野村真人・井上和也)。漁師らしい大声の遠慮のないやり取りで、現代のその日暮らしのありようも見えてくる。しばらく見ない間にこういう現実的な生活描写、会話の台詞がすごくうまくなっている。以前アパートの一室でミニマリズムでやっていたころは頭で考えた世界だったが、ここではリアルに日本の肉体労働者の生活を掴んでいる。開幕の時は空室だった隣り部屋に認知症の老母(百元夏江。埼玉芸劇の老人劇団の俳優で、日本舞踊のお師匠さんだった由、よく見つけてきたものだ。これだけでもびっくり)を抱えた地方公務員の父子家庭が転居してくる(この設定もうまい)。この親子も典型的な設定なのだが、実直に見えて何もできない父親(たなべ勝也)や、世間をすでに投げているような娘(坂井初音)が、それでも老親を中に家族からは逃げられないところなどうまいものだ。五年前に、岸田戯曲賞を受賞したのも肯ける。
漁師となる若者〈FOペレイラを宏一郎〉預かることになる、とか、接点のない二つのグループが初対面の挨拶で悩むとか、日常的な些細な事柄の中で、寒い冬の日々の三日ほどの時間が過ぎていくのだが、このどーしよーもない出口のない生活は確かにこの国のどこにでも形を変えて存在する。そこで生きて行くにははもう、テレビで見るマカロニウエスタンや文庫本の「老人と海」の助けなんかは役立たず、只、食って笑って生きていくしかない。「寂しい」と言う言葉の実感に老いの見え始めた船長が戸惑うところなど絶品。言葉では表現できないところが芝居になっている。キャストは関西の小劇場を中心に組まれているらしく、知っている俳優は一人もいなかったが、実にリアルである。とても地ではできない役ばかりだから、よほど稽古がうまくいったのだろう。あるいはキャスティングがうまいのか。これだけでも評価できる。
舞台は細かいアパートの飾りや、あまりなじみのない俳優たちの熱演でドラマチック空間になっている。この作者は宗教的な絶対的存在に関心があるらしいが、この貧しい部屋にこそ神宿る、と言う感じなのである。フランスでの公演を終えて、最終公演の由。若い観客も多く九分の入り。
蛇足だが、席ビラを作るなら、ぜひ配役表を配ってほしいものだ。折角俳優の名前をお馴染にしようとしても五十音順の俳優の一覧だけではとっかかりがない。配役を調べるだけでもずいぶん時間を要した。
毛皮のヴィーナス
世田谷パブリックシアター
シアタートラム(東京都)
2022/08/20 (土) ~ 2022/09/04 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
マゾヒズムの語源にもなったマゾッホの「毛皮のヴィーナス」を今、脚色上演をしようと女優オーディションをしている劇作家・演出者(溝畑淳平)のアトリエに、時間に遅れて、行儀の悪い女優(高岡早紀)が飛び込んできて、オーディションを受けさせろ、と強要する。
ここから1時間45分、現代の女優と劇作家が、19世紀末のマゾッホの描いた男女関係をどう理解して実践していくか、と言う二人芝居がスリリングに展開する。
アメリカの劇作家・デヴィッド・アイヴスの戯曲で、ほぼ、そのままポランスキーが映画にして既に公開されている。この日本版は、戯曲や映画が持っていた原作(マゾッホ)へのヨーロッパ・コンプレックスから離れて、マゾッホの小説、アイヴスの戯曲、それを立ち上げようとする女優と演出者のナマの男女、という複雑な三重構造の中に現代に生きる人間を描き出そうとする。よく出来ている。
冒頭、雷雨のなか、ぬれねずみで下品さ丸出しでやってくる女優が、衣装を用意してきたと言って、脱ぐ。下着はまるでサドマゾバーのウエイトレスのような黒のタイツの衣装。その上に十九世紀のフリルのついて純白の衣装を着て見せる(衣装・西原理恵)。これで、演出家も一本取られるわけだが、このあたりで、観客も降参する。
二転三転する展開は次第に、いつ、女は男へ鞭を振るうのだろうというクライマックスへの期待へと変わっていくが、そこは見てのお楽しみだろう。
高岡早紀は今までの見た舞台ではあまり印象に残ったことがなかったが、これは熱演。相手役の溝畑淳平も、いったん出たら出ずっぱりの長丁場を見事にこなす。さらにこの舞台は二階を組んだ装置(長田佳代子)、劇伴奏でなく音楽として芝居に噛んでいく音楽の国広和樹、さりげない照明(佐藤慶)のフォローなど、この劇場(トラム)がそのまま、現代の「毛皮のヴィーナス」になっている。演出は文学座の新星・五戸真理恵。新人ではないが、ここまでキャスト・スタフを(多分)おだてまくって芝居をまとめきれるところなかなかのタマで観客は今後に大いに期待する。客席完売だが立見席がある。昨日はそこも満杯で壁際の本当の立ち見客もかなりいた。しかし立ち見で観てもご損はない(オトナに限る)と思う本年屈指の舞台だった。
加担者
オフィスコットーネ
駅前劇場(東京都)
2022/08/26 (金) ~ 2022/09/05 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
五十年も前に書かれたスイスのデュレンマットの日本初演が、まるで時局問題劇のように見えるのも演劇の面白いところだ。
世を捨てたかに見える化学者(小須田康人)がたまたま暗黒街の大ボス(外山誠二)と知り合いになり、化学の知識を生かして地下五階のラボで死体を溶解する仕事をはじめ、自らの生活を回復する。もちろん悪いヤツらは次々と警察(山本亨)や政治家にも手を伸ばして、化学者の知識を食い物にする。やがてそれは破局するが、ボスと科学者の間に女(月船さらら)も絡んで、大衆活劇的筋立てである。出演者たちがみな大衆演劇にも通じる分かりやすさに振り切って演じるので、テーマは明確である。それぞれのキャラクターも筋立ても通俗だが個性的で、駅前劇場としては長尺の2時間20分を飽きさせない。
母国ではデュレンマット作品としては不評で再演もしていないというのも肯けるが、そういうところがかえって、極東の国でリアリティを持つのも芝居ならでは。
今の日本の政治の裏筋をめぐる混乱も実のところはこんなものか、と連想させる面白さもあって久しぶりの直球時局劇になった。企画賞である。
伯爵のおるすばん
Mrs.fictions
吉祥寺シアター(東京都)
2022/08/24 (水) ~ 2022/08/28 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
Mrs.fictionsはあまりなじみのない小劇団だが、春にアゴラでみた「花柄八景」は今年の小劇場ベストテンにはきっと入るに違いない良い出来で、今回の「伯爵のおるすばん」も、劇団の看板演目で3演目と言うので期待して見に行った。劇場もアゴラからは格(客席数)上げで吉祥寺シアターだ。
Mrs.fictionsという小洒落れたネーミングの劇団も、作・演出の中島康太もこの二作以外は知らないし、今までのほとんど活躍の跡を知らない。たとえば、春に初めて見たMotextraの須貝英は少し調べたら、経歴が分かったが、この作家は今の段階では、ネットを検索した程度では出身・経歴が全然わからない。中島を軸に俳優数人の劇団らしく、今までも、多くの出演者はエイベックスの劇団4ドル50セントから借りている。今回は、さらに数人の客演があって出演者が12名。小屋に合わせてスケールアップしている。2時間20分と長い。
作・演出中島康太は、本も舞台面も細かく丁寧で、今の若者劇団にありがちの乱暴なところや、品のないところがない。大人のタッチなのだ。二作に共通しているのは、各エピソードは格段に面白いのに、劇の骨組みが弱いことだ。ちょっと素人っぽい匂いもする。
今回のテーマは、「不老不死は果たして人間にとって幸せなのか?」
作風はファンタジー志向と言うか、見た2つの作品とも舞台設定は未来に飛ぶ。「伯爵のおるすばん」は5つの時代のエピソードからできていて、始まりは1722年、次第に現代に近くなり、時代を超えて、最後には地球滅亡の日に至る。その間、56億年の物語が不死の定めのある伯爵(前田雄雅)と共に語られる。
それぞれの時代のエピソードは仕込みがあって面白いが、「花柄」のような具体性を欠くので、変化に乏しくなる。花柄が、落語の師匠に軸を置いてブレないが、こちらのブルボン伯爵は国籍も明確ではなく一貫性も見えないし、女性である。観客にとって具体的につかみにくい。ファンタジーはキャラクターものでもあるので、この「伯爵」の設定が苦しい。時代が変わるにつれて、存在そのものが具体性を欠くようになって、伯爵役の前田雄雅も戸惑っているようにも見えた。ファンタジーをうまく使って現代劇を作ったのはイキウメだが、こちらも芯の構造がしっかりしていると面白いファンタジー世界になったのにと残念。だが、今の劇界を見渡してこういう作風の作者が少ないだけに貴重な存在だ。
吉祥寺シアターはアゴラよりは一回り大きい小屋だが、見た回は3分に2くらいの入り。しかし、もうこのクラスの劇場での上演は出来るレベルは達成している。しっかり足場を固めて、次は1公演・公演数15を目指して、ユニークな舞台を見せてほしい。期待している。それにしても、この作者、どこから出てきたのだろう?
追憶のアリラン(8/18~8/26)、無畏(8/24~8/27)
劇団チョコレートケーキ
東京芸術劇場 シアターウエスト(東京都)
2022/08/18 (木) ~ 2022/08/27 (土)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
自劇団の戦争を素材にした舞台6本をこの夏に一挙上演する企画の一本である。チョコレートケーキがこうした作品に取り組む意図は明確だ。残った子孫たちへ、と言うが、筆者のような先行する世代にとっても、良い企画だと思う。ことに中にすでに見た「帰還不能点」や「その頬、熱線に焼かれ」が入っていて、ことに前者は演劇的にもよく工夫されていて、単に、戦争を指導した者たちだけでなく、それを支えた社会も的確に描出していた。
「無畏」は昨年初演されたが、時期が悪く知った時にはすでに終演していて見逃した。A級戦犯となって処刑された南京大虐殺事件の陸軍司令官の松井岩根(林竜三)の戦争犯罪をテーマにしている。
戦争犯罪はどのように裁かれるべきかと言うテーマが難しい上に、事件そのものが複雑な事情の上に成り立っている。史実はかなり明確になってきているが、それにその時々の国際的な政治判断がついて回る。事件を客観できないところへ、松井の「誰かが責任と言うなら、私だろう」という結論を急ぐ判断があって、それが戦勝国による法廷で裁かれる、と言うところが悩ましい。いつもは、問題の中心から、距離を置く時間や場所をを発見するのがうまい古川健だが、今回はその余裕がなく、史実のデータををできるだけ詰め込もうとする。ほとんど弁明の余地のない上海派遣軍(原口雄太郎)と増援軍(今里眞)の司令官たちとその幕僚(近藤フク)たちが単純化されて敵役になってしまう。作者には、たとえ、部分的なドラマになったとしても、全体をイメージさせるだけの力量はあるはずなのに、今回はそこまで出来て居ない。
これは原爆乙女の米国による治療を描いた「その頬、熱線に焼かれ」の時も感じたことだが、現在まで尾を引いている現実を、観客が芝居の一幕として理解するには複雑すぎるのだ。しかし、そこが生で演じられる演劇のいいところで、今回の敗戦の八月公演は壮挙と言っていいだろう。
今のコロナ騒ぎの政府対応にも、この国の合理的なシステム作りが出来ない病弊は露呈しているのだから。(これでは芝居の「見てきた」にはならないが)
ひとつオノレのツルハシで
MyrtleArts
ザムザ阿佐谷(東京都)
2022/08/18 (木) ~ 2022/08/22 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
はじめてみる関西の劇団だが、成熟した大人の芝居になっている。
作者・くるみざわしんは関西を中心に既に幾つもの新人賞を取っていて、この芝居も、新人離れした完成度である。三十歳を超えてから演劇の現場に入ってきた精神科医と言う特異な経歴も作品に生かされている。
マートルアーツと言う劇団の公演となっているが、現実的にはプロデュース公演。東京の演劇人が起用されていて、その組み合わせ方も新鮮だ。3〇〇のベテランと新人、女優は新宿梁山泊、演出がジテキンの鈴木裕美。
登場人物は三人, 1時間半ほどの掌編だが、夏目漱石のもとを訪ねてきた農民上がりの田中正造信奉の青年、漱石の妻の三人による日本の近代の在り方に対する弾劾である.面白く出来ていて、無駄がない。タイトルになっているオノレのツルハシの使い方なんか、うまいものだ。作家として自立して牛込で講演した日。正造が死んだ日、それぞれの翌日に世間師の青年が訪ねてくる。
討論の内容や漱石、正造の人物像は、もう描きつくされているので、さして新しい発見はないが、芝居つくりがうまいのである。ことに近藤結有花演じる漱石の妻が生活の場から二人を逆襲する終盤が面白かった。川口龍の世間師は少し動きすぎだとも思うが、こういうリアリズムを外した人物造形は鈴木裕美のいいところで、狙いをよく呑み込んで、小さな舞台を飽きさせもしないし、引き締めてもいる。低音で使っている現実音の効果も選曲音楽もいい。
関西から、iakuとか、Kunioとか、芝居で勝負する人たちが東京に攻め上ってくる。正面からの戦いだから、東京勢も油断できない。これらはまともな戦いだからだ。観客も楽しみである。