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未練の幽霊と怪物
KAAT神奈川芸術劇場
能舞台のような舞台と出入りの橋掛かりが白いマットで黒い空間に浮かんでいる。いくつかの現代演劇の秀作を上演してきた神奈川KAATの大スタジオ。
演技スペースを囲んで、中央に見慣れない伝統弦楽器を電子楽器につないだような楽器を演奏する音楽監督は内橋和久。上手に謡手の七尾旅人。意表を突く鋭い弦の音が鳴り響いて第一部の「敦賀」が始まる。チェルフィッチュ特有の体の動きとともに、さりげない口調で自分の敦賀をドライブした体験を語りだす旅人(栗原類)。旅人は敦賀のさびれた海辺で、世界の永遠の循環を夢見ながら失敗した高速増殖炉(石橋静河)に出会う。
チェルフィッチュの新作は、今までにない工夫がある。一つは、能の形式を積極的に取り入れていて、その伝統に沿って見るとドラマの世界に入りやすいということだろう。
ステージのセッティングだけでなく、物語のつくりも、ナレーションの音楽化も、第三の登場人物・聞き手の作り方(片桐はいりが狂言のアドで登場する)も、人間ならぬものに人格を与える手法も能・狂言の伝統を利用しているが俳優の演技、セリフ、衣装、舞台の内容も様式も全く現代である。それが混然一体となって、この「未練の幽霊と怪物」という非常に現代的なテーマを浮き上がらせる。
第二部「挫波」では、建設中の国立競技場の周辺を散歩している男(太田信吾)が、斬新な設計をしながら、世俗的な理由から実現しなかったオリンピック国立競技場を設計したザハ・バディッド(森山未來)に出会う。高速増殖炉も国立競技場も人間の叡智を集めて実現を願ったモノではあるが、その夢はいまも人びとの脳裏に残りながら葬られている。そして、その夢への思いは形のない「未練の幽霊」になって今の世にさまよい、廃墟や間に合わせのの「怪物」となって立ちすくんでいる。現代を表現するのに、最も象徴的な二つのモノは極めて政治的な色彩を持つが、その背後には現代に生きる名もない人びとの見果てぬ夢にも裏打ちされている。「三月の五日間」で見た世界を覆いつくすような舞台がここに出現した。
今までにないことで言えば、もう一つは既成俳優や、音楽家の登場である。それで、細部への完成度が高くなった。
演劇は、今見た時点で完結してしまうものではあるが、いつまでも見たという事がに観客の記憶に残ることは非常にまれな幸福だと思う。本年随一の傑作だと思う。一部二部共に55分。間に休憩10分
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帰還不能点【3/13・14@AI・HALL】
劇団チョコレートケーキ
太平洋戦争にあれだけ不利が明白だったのになぜ日本が参戦したか。戦後さまざまなところでその理由は論じられてきたが、これは当時の若手エリートを官、軍、民間から集め、内閣のブレーンとなるべく設立された総力戦研究所の記録を素材に、国が開戦の決意をする帰還不能地点を探る歴史探索のドラマである。
のっぴきならなくなる帰還不能点が、仏領ベトナム南部の油田占拠のための進駐の時点(アメリカの強硬姿勢の引き金となった)と言うのは、おおむね現代史では認められているところで、この作品はその不能点を確定するよりも、既に明らかになっている多くの資料の上に立って、科学的に検討すれば、だれもが日米戦回避となる結論が、なぜ内閣をはじめ、国民の総意にならなかったか、を描いていく。
この作品を特徴づけるのは、それを明らかにするユニークな手法である。
戦後五年、総力戦研究所のメンバーはそれぞれの持ち場で市民に戻っている。その仲間の一人、日銀から出向していた一人が亡くなって、その人が戦後にむかえた後妻が経営している居酒屋で開かれるしのぶ会に当時の会員が集まってくるところからドラマは始まる。すでに数人の故人もいるが、生き残った彼らは、自分たちの研究が戦争を止められなかった理由に改めて向き合うことになる。集まった九人のメンバーはかつての開戦前の自分たちの意見がどのように当時の施政者、政府や軍によって退けられていったかを演じてみるのだ。ここも普通は一人一役になるところだが、夫々がいろいろな役を演じる。つまり、東条も松岡も近衛もいろいろな研究員がやる。その趣向は、意外に利いていて、誰もが行き当たりばったり時世に流された判断しかできなかったという事を如実に表すことになった。反面、研究員ひとりひとりは、それぞれの専門分野で事実と科学に基づいて開戦反対を唱えるのだが、その背景となる個人の信条はえがかれていない。
それが描かれるのはドラマの枠になっている戦後のシーンだが、ここは、亡くなった研究員の後妻(黒沢あすか)のドラマが、圧倒的でほかの研究員のエピソードはかすんでしまう。
戦争を止められなかったことを深く恥じた故人は、戦後闇市の仕切りや担っていたのだが、たまたま、戦後の混乱の中で自殺しようとして見も知らぬ女を助け、生活のためになるならと後妻にまでしていたのだ。おおきな社会の悲劇を救えなかったからといって、ひとりの悲劇を見過ごしていいという事にはならない、と言うのが彼の戦後の信条である。ドラマの全体の軸として舞台となる居酒屋の女将でもある女性の運命が、前半の国の運命の裏打ちとなって効果を上げている。惜しむらくは黒沢あすかはガラはいいのだが演技がストレートで、戦後を生き抜いてきた女には見えないところだが、それはないものねだりだろう。
全体は、メタシアター作りの歴史ドラマと言ってしまえば、その通りなのだが、責任を押し付けあう倫理感の乏しさが当たり前になっている今の世の中では上演する意味は大いにあった。それは、単に芝居のスタイルとしてメタシアターであるなし、などという事を超えて、
歴史を俳優という肉体を使って立ち上げてみるという演劇の効用だろう。
少年のころ見た東条の演説が(まったく形は違うが)いまの総理大臣の論理構成と全く同じであることにも気づかされた。これもまた演劇の効用で、権威的な政府が演劇を弾圧したがる意味もよくわかった。
ラスト、もう一つの終幕が用意されているが、これはなくもがなであった。こうはならないのが人間の業のような気がする。
3
フタマツヅキ
iaku
横山拓也の芝居には、いつも、どこか欠けている家族と、どちらかが相手に過剰な思いを抱
いている男女が登場する。舞台設定もいつも風変りだが、今回は落語家になりそこなった老境を迎えようとしている男(モロ師岡)と妻(清水直子)、その長男(杉田雷麟)の家庭である。Iakuの公演は、いつもは関西のあまり知らない俳優がしっかりと良い芝居を見せてくれるのも楽しみだったが、今回は西日本が多いが全国オールスターである。主演のモロ師岡は千葉八街出身。浅草からの芸人。
いつものように(とスッカリ、東京の客も手の内がお馴染になっている)親子の葛藤が芝居の軸になっているが、これまたいつものように、いかにも昔の新派芝居になりそうなところが新鮮で現代のドラマになっている。
今回は初顔の多いキャスティングが功を奏している。モロ師岡と俳優座の清水直子の夫婦などは絶対によそでは見られない組み合わせだろうし、平塚直隆もザンヨウコ(潰れた演芸場の座主)もよくは知らないが、こういう役には縁が遠かったのではないだろうか。俳優お互いの間にちょっと距離感が見えるのも現代的で、新派芝居になるのを掬っている。
落語家になりそこなってアパートの管理人になっている元・落語家にかつての弟弟子(平塚直隆・話の裏の進行役で地味だがいい)に介護ホームでの落語の仕事を持ってくる。はじめは断っていた男だが、つい、その気になって・・・、というストーリーをフタマツヅキのアパートの部屋を盆の上にのせて,回転させながら見せていく。あの、間仕切りのふすまを開けるところが山場だなぁと観客は期待していて、その通りになるが、そこへ行くまではいつもながらうまい。話の中に「落語の「お初天神」を仕組んだところも巧妙だ、たまたま、小三治が亡くなって、NHKの教育テレビでこの演目を見たのも奇縁だった。
どちらかが相手に過剰な思いを抱いている、という事では、今回は上の世代でも下の世代でも女性の方で、そこは、時代だなぁと思う。前の「the last night recipe」と同じようにそれが男の器量を超えていく。しかし、それは結果論で、はじめは、…と作者は若い時の二人も、現在の長男の相手との関係も描いていく。周到である。
出演者ではやはりベテランで、モロ師岡、清水直子。彼らの若い時を演じた二人(長橋遼也
橋爪未萌里)素直なところで初めて見た杉田雷麟。
盆回しに賭けた舞台美術もうまい。1時間55分。拍手鳴りやまず、無粋な公立劇場の終了のアナウンスにめげずカーテンコール。
4
ぽに
劇団た組
現代の市井で使われている言葉が、劇的言語として舞台に登場した。
KAATの大スタジオに円形舞台に組んでいて、中央に砂場のような丸い囲みがあり、向かって上手から太い綱で編んだ粗目の網が天井に向かって伸びている。囲みの中が室内、出口は、網で、外へ出ようとすると網を上下するのに四苦八苦する。現代の独特の内向的なところがこういう風に舞台化されているのもうまい。幕開きで、小道具操作が囲みの中の二つの箱から児童向けのプラスティック玩具をぶちまけて芝居が始まる。
二十代後半、松本穂香と藤原季節の通い同棲中のカップルが、うじうじと日を過ごしている。穂香は育児シッターのアルバイトをしていて小生意気な五歳児を預かっている。二人の話題は海外留学で英語を覚えたいという他愛ない話なのだが、やがてそのとりとめなさがテーマだとわかってくる。今風の会話がちゃんと舞台のセリフになっている。
若者の現代風俗を素材にした舞台ではもうだいぶ前に岡田利規の「三月の五日間」という秀作があったが、こちらはセリフを軸に松本穂香と藤原季節の二人が生き生きと動く。言葉は舞台を制する。ことに松本穂香はテレビでも活躍していると聞くが、舞台でこその魅力がある。
だが、そんな二人は自分が生きることにも、他人へのかかわりにもまるでモラルがない。男女の関係はあるが、人間愛はない。あずけられる子供、預けて良しとする両親、託児サービスの所長、と周囲は広がっていくが、どこも張り付けたような笑顔の裏はモラル欠陥社会である。そこをこの若い作者は実に巧みに展開する。本作の見どころでもある。
そこへ、大地震が起きる。
混乱の中で、預けられた子が行方不明になる。その責任はどうなる。男女がお互いに無責任であったことも、周囲が全く頼れないこともあきらかになってくる。そこへ、行方不明の子どもが帰ってくる。43歳になって、手足は既に黒ずんでいる。これは「ぽに」だ。
突然舞台はファンタジーのような展開になる。育児時間の延長の事務処理というリアルなエピソードからファンタジーへと飛躍するが、テーマは外さない。
とにかく、見せ切ってしまう力量は大したもので、肝心の「ぽに」は結局よくわからないままに大団円になる。なんだか初期の野田秀樹の芝居のようだが全体の印象は全く今の空気だ。それが、コロナの終息が見えてきた今という瞬間と連動しているところがすごい、休憩なしの二時間。
新しい才能が確実な一歩を踏み出している。
苦言を言えば、円形舞台を使うのには今少し細心の注意が必要だ。私の席は左側だったが、俳優を丸く動かすのはうまいのだが背中を向けると折角のセリフに随分聞こえないところがあった。今は場内拡声の技術も進歩しているからマイクやスピーカーを仕込むことはそれほど難しいことではないだろう
5
老いと建築
阿佐ヶ谷スパイダース
こういう舞台が上演されることに感懐がある。
まるで、昭和の新劇のようないっぱいセットの人間劇を長塚圭史が、上手に書いている。テーマは「老い」だろう。さすがに、滅びゆくものの美しさ、などという凡なところには落としていないが、阿佐ヶ谷スパイダースを率いて出てきたときのやんちゃぶりを知っているだけに、結構ウエルメイドな出来に「歳月」も感じる。人間が生きて生活する家に、今年流行の「生きた記憶」を埋め込んだあたり時代を上滑りさせない工夫もうまいものだ。いまは横浜の大きな劇場の芸術監督だもんなぁ。
ドラマは大きな庭付きの家に住む孤老女(村岡希美)をめぐる人間模様である。亡くなった建築家の夫が残した家に住む老女はそれぞれ自分の生き方をする息子娘とは距離を置いて、ひとり毅然と生きている。昭和モダンの家のセット(美術・片平圭衣子)が単純だがよく雰囲気を出していて、今の80-50問題や介護の問題も裏に抑えながらの現代人間模様である。セリフがうまい。
プロットの軸が、明確にならないで進んでいくので、一種の家族のシチュエーションドラマかと思っていると、最後の五分の一あたりで突然調子が変わって、ストーリーのドラマチックな謎解きになる。最初の家族風景の部分が、昭和新劇風によく出来ているので、そのまま終わるのかと思っていたらそうではなかったが、そこは賛否両論あるだろう。ドラマチックに終えるには筋立てが少し無理なのだ。
しかし、演劇としてはよく出来ていて、長塚圭史がかつて三好十郎に入れ込んで何作かいい再演をしたことが役立っている。実話キャンペーンドラマみたいな舞台が多い中で見ると新鮮でもあるし、芝居を見たような気にもなる。
村岡希美は、家族を押さえて現代を生きる不機嫌な老女を演じて堂々たる主演である。昭和の戦前のいい時期に生まれ、戦後も時代に沿って生き、戦前の東京郊外の家に住む東京市民の雰囲気を身にまとっている。戦後の世田谷でなく、戦前の杉並の空気が作りモノでなく出来ている(村岡花子の姪だもんなぁ。もっとも花子は大田区だったが)。昭和新劇には時に登場して、山の手女は東山千栄子が一手販売していたような役である。それで、気が付いた、というのもうかつな話だが、これは、昭和という時代を批評したドラマなのであろう。そう見れば、戦前の家を老人向けに改築しながら、その栄華の余禄で生き延びている我が令和時代の姿をこういうドラマにして見せたのが長塚圭史、というのにも感慨がある。ここが第一のみどころだ。
昼間なのに、吉祥寺シアターは層の厚い個人客で完全に満席だった。日本の観客も成熟している。
6
パ・ラパパンパン
Bunkamura / 大人計画
コロナに翻弄された一年の終わりを笑いと祈りで締めくくる祝祭劇だ。休憩を入れて、3時間10分。夜の劇場を出ると、町は戸惑いながらもクリスマスを迎えようとしている。その街をパ・ラパパンパンと口ずさみながら家路につける音楽劇である。
こういう観客の心を和ませ癒す舞台は極めて少ない。この劇場はかつて串田和美が芸術監督だった。オンシアター自由劇場を率いて、わが国で初めてのエンタティメントの音楽劇の道を拓いた。その伝統を、同じ小劇場でも、全く違う背景から出てきた松尾スズキが受け継いでいる。本人は意識していないかもしれない。しかし、劇場がその記憶を受け継いでいる。日本の劇場文化の成熟に感動がある。成功に理由はいくつかあるが、第一はこの見えない劇場の力だと思う。
もちろん、個々の作品の良さもある。「パ・ラパパンパン」について言えば、作構成がいい。
主人公は、ろくでもない青春小説しか書けないまま三十歳も半ばになった女流作家(松たか子)だ。担当の編集者(神木隆之介)に持て余されながら新境地のミステリー小説に挑む。この設定の中でスクルージ(小日向文世)が殺された謎を追う「クリスマスキャロル」のミステリー化が図られる。ミステリ内容と上演の季節がぴったりと合う。古典の登場人物たちと、現代の向こう見ずな作家と編集者の気ままなミステリ化とが交錯する。作者はテレビでは第一線だが舞台は珍しい藤本有紀。テレビで培った時代とのテンポの合わせ方がうまい。ダレそうな話を現代の突っ込みを入れながらいいテンポで運んでいって、最後には大団円にもっていく。その大団円もいかにもテレビ的な万人を感動させる納め方なのだが、それがうまく収まる。そこへ主題歌を持ってくるうまさ!
松たか子がいい。三流のダメな作家が、それでもやはり書かなければとなるドラマを、このクリスマスストーリーの中で生き生きと演じている。歌がうまい。主題歌は三回歌われるが、三つのバージョンそれぞれに歌い方を変えていて、ことに、神の声ともいうべき聖歌風に歌い出した時には劇場が吞まれた。(この演目のタイトルは、何のことかと思っていたが、その謎は途芝居の中で明かされ、抜け目なくクライマックスに続いていく)
松だけではない。スクルージの小日向をはじめ古典の人物たちを演じる大人計画のお馴染のメンバーも役を面白く演じてドラマを盛り上げている。
スタッフワークもよく、作曲の渡辺祟は、こういう芝居での音楽の役割をよく心得ている。説明的な音楽はなく、音楽になれば、観客を打つ。美術(装置・衣装)、音響もよかった。
昨年の「フリムンシスターズ」も松尾スズキらしくてよかったが、ここでは劇場芸術監督の演出としていい仕事をしている。
[パ・ラパパンパン」というのは神の声を伝える先導者の太鼓の音である、と劇中説明されるが、見事にそれで締めくくられた。皆神の子になるすばらしいクリスマスの夜だ。
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義経千本桜―渡海屋・大物浦―【伊丹・北九州公演中止】
木ノ下歌舞伎
義経千本櫻は、歌舞伎の代表作と言われているが、「仮名手本忠臣蔵」や「四谷怪談」のように、全編を通してこういう芝居、と言えない複雑な物語である。乱暴に言えば、源氏平家の争いを「義経」という人物のエピソードに沿って見ていく、と言うあらすじで、この二段目の「渡海屋―大物浦」と四段目の「河連館」とは内容のつながりもほとんどない。そこが歌舞伎の面白いところでもあるのだが、この木ノ下歌舞伎では、最初にこの粗筋を二十分くらいで一気に見せてしまう。なにか見たような気がした(それは各段を切れ切れに見たことがあるからでもあるが)一昨年だか、花組芝居が全段を一気に見せてくれた公演があったからだ。正直に言うと、全段見たから演劇として満足か、と問われれば、そうでもないのだが、終始一貫の近代劇を見慣れた若者がそこで躓くといけないという配慮らしい。
現代語と現代音楽をバックにしたスタイリッシュなこの冒頭の「時代背景とこの後のあらすじ」部分がよく出来ていて、当時の天皇権力をめぐる争いがよくわかる。音楽と、装置の面白さにつられてここを見てしまうと、そのあとは、古典に従った場面でもついていきやすい。古典の名セリフや見せ場は全部入っている。
「渡海屋―大物浦」は、天皇家に振り回された平家、源氏の二大勢力の激突を、瀬戸内海の港町の船宿を舞台に、見せる、と言う趣向で、両者の策略を歌舞伎お得意の「実ハ」を使って二転三転、見せ場を作っていくので、細かい筋はとても書ききれない。しかし、見ていればそのいきさつが分かるのだから、確かのこのアダプテーションはよく出来ている。
ことに今回は人の世の争いがテーマになっていて、安徳帝入水の説得「争いのない海の底には平和な世界がある」を柱に使っている。
「碇知盛」のような歌舞伎の見せ場も多く取り入れている。知盛はあらすじと本編と二度もバック転をやらなければならないのだからさぞ大変だろう。ほかもほとんどうまくいっているが、魚づくしのセリフで笑いをとるところはうまくいかなかった。語呂合わせが突然出てくると、芸人時代の若者もついてこれないか。ここは歌舞伎役者に敵わないのは仕方がない。
16年の上演の演出多田淳之介の続投。押せ押せの演出で力強い。いつもは凝った小道具が面白い木ノ下歌舞伎だが、今回はほぼ正方形の板の角を上下に八百屋に組んだ舞台がよかった。板には七か所長方形の窓がありそこからの照明を効果的に使っている。音楽は標記がないから既成曲のアレンジだろうが、うまくはまっている。「戦場のメリークリスマス」をおもわせるメロディは少し耳につく。休憩なしの2時間15分。トラムを半分の客でやるのだから劇団は苦しいだろう。ご苦労さま、と言うしかないが次の作品も楽しみにしている。早い機会に昨年上演予定だった「三人吉三」を見せてほしい。
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『砂の女』
キューブ
かって親しんだ世界をいま、目前に見て、それに勝る興奮を感じられるか、そこが、古典を再演する肝だろう。「砂の女」(1962)は日本の戦後文学の里程標となった作品、作者自身の脚本による映画(1964・勅使河原宏監督)もまた、世界的な評価を得た。その後、芝居にもなったようだが、草月ホールで見たような、見なかったような。それから六十年。
今回はケラリーノサンドロヴィッチによる舞台化である。
『鳥のように、飛び立ちたいと願う自由もあれば、巣ごもって、誰からも邪魔されまいと願う自由もある。飛砂におそわれ、埋もれていく、ある貧しい海辺の村にとらえられた一人の男が、村の女と、砂掻きの仕事から、いかにして脱出をなしえたか――色も、匂いもない、砂との闘いを通じて、その二つの自由の関係を追求してみたのが、この作品である。砂を舐めてみなければ、おそらく希望の味も分るまい。』というのは安部公房自身の言葉だ。このシンプルな構造の中で、作者は戦後日本の課題を二人の男女に託して描いたわけだが、それを世紀を超えた今、舞台で見るとどうか。
コロナ禍で、全国に「非常事態」が拡がろうかという酷暑のなかのでトラムの公演は、観客の肌にも砂がこびりついてくるような迫力のある舞台だった。古典を今に生かしたケラの力量は大したものだ。それは、丁寧に追われる原作のストーリーの功績よりも、脚本・演出家の舞台あらではの工夫がこの成功につながっている。この欄で言えば、筋は原作で周知なのだから、いまさら「ネタばれ」でもあるまい。舞台に積み上げられたその細かい演劇ならではのネタが見事な舞台だった。
観客は老若男女取り混ぜた芝居好きで満席だった。舞台の上も下も芝居好きが集まった一夜の愉しみがここにあった。コロナの憂さも晴れようというものである。..少し長くて十五分の休憩をはさんで二時間五十分。..
そのネタバレから行けば、まず、場面設定。昭和二年生まれの男が昭和三十年に僻村で砂の穴に落ちる。
舞台は砂に囲まれた崩れ落ちそうな家の一杯セット。周囲が砂の高い壁に囲まれていて、村人たちはその上から縄梯子をかけて上り下りする。褐色で統一された家には、無色のマッピングで時に砂が滑り落ちる。原作の時代設定は変えていないのに観客を異質の世界に運んでいく。加藤ちかの美術とマッピングの使い方がリアルで実にうまい。
男は仲村トオル、女は緒川たまき。映画の岡田英治、岸田今日子で刷り込まれている二人の役柄だが、全く違う。映画では、眉をひそめて登場する複雑な感じの不機嫌な二人だが、こちらは肉感的で即物的。この配役で、作品が現代につながった。
例えば二幕の幕開けの場面。雨が降ってきたと妄想するシーンの繰り返し。ソラメントウナベスの曲(昭和三十年代にはもっともはやったラテン音楽だった)で二人が躍るシーン。このあたりは原作にないが、ケラが演出した優れたシーンだ、それに続く上野洋子の音楽。
上野洋子の不思議な演奏もこの劇世界に大きく貢献している。ここで、作品の持つ抽象性が担保された。今までのケラ作品(例えばカフカ連作)とは別の世界を作り出した。
ラジオの効果的な使い方。原作の時代にはまだテレビが普及していない。メディアと生活を巧みに取り入れて、外の生活と仲の生活をドラマにしている。
こういう、演劇で遭遇するさまざまの問題を、現代に通じるように細かく処理しているところが今回の上演の「ネタ」だろう。ここまでくれば、原作の終末は全部ではなくとも少しは変えて見たくなったのではないだろうか。原作通りで幕は下りるが、ここは、ケラによる新しい結末も見て見たかったような気がする。芝居を見てきて、この結末はなぁ、とも感じたのである。
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鴎外の怪談【12/16、12/19、12/25公演中止(12/19は1/30に延期公演決定)】
ニ兎社
森鴎外(松尾貴史)をめぐる明治綺譚だ。明治最後の時期、明治43年(1910年)の冬から翌春まで。鴎外は、軍医総監に出世し、文豪の名声も上がっている。若いころからの友人の弁護士平出(淵野右登)や三田文学に推薦した永井荷風(見方良介)などに囲まれ栄達の日々を送っているように見えるが、家では二度目の妻 しげ(瀬戸さおり)と実母(木野花)の嫁姑戦争のただなか。三人目の子どもも生まれようとしている。紀州からきている女中(木下愛華)は文学女中。
いかにもの、明治もの風情だが、ちゃんと今につながるテーマがあり、そして何よりも面白く組んである芝居なのだ。
舞台は鴎外の観潮楼の書斎。幸徳秋水の大逆事件がいよいよ結審を迎えようとしている。今春には、チョコレートケーキの古川健「1911」という大逆事件を素材に開いたすぐれた舞台があったが、こちらは、同じ事件をまた別の視点から見ている。
陸軍部内でも出世を遂げた鴎外は元老の山縣有朋にも直接意見を言える会議にも出席できる。大逆事件についても、でっち上げと分かっていても、天皇制専制国家を守るためには事件化するのはやむをえないのではないか、とも思う、いずれ医者の立場では、という逡巡もある。そいう言うジレンマにある鴎外を作者は家庭の中にある若いころには女でしくじった一人の中年男性、との立場とダブらせて巧みに話を進める。
もちろん歴史考証はされているだろうけど、鴎外が持ち込んだ洋書で西洋の自然主義を周囲は感化されていて、妻のしげが鴎外の「半日」に対抗して「一日」という小説を書いていた、とか、荷風がここで戯作者として生きる決心をする、とか、女中が大逆事件に連座する紀州の医者の元患者で同じく連座する紀州の西洋食堂で知ったデミグラスの味に鴎外が感心する、とか、この作者らしい愉快なエピソードをたくみに芝居に組みこんでいる。
戦後、いくつかの時代の節目に「大逆事件」が演劇で取り上げられるのは、そこに極めて日本的なさまざまな問題が隠れているからで、政治史、社会史的なアプローチを超えて、演劇にも幾つもの秀作がある。その中で、この作品は事件から少し遠いところにいた一人のインテリゲンチュアの姿を描いた秀作である。そのタッチがこの作者らしい時代との距離の取り方にも表れていて、しばらく、「事件モノ」で過ごしてきた作者の復調がうかがえる。
少し内容のことを書きすぎたが、この舞台、俳優のキャスティング、絶妙である。初演〈2016〉からすっかり顔ぶれを入れ替えたというが、それが成功して、リアルとカリカチュアの微妙な間合いが取れている。松尾、池田の軸になる二人はもとより、瀬戸さゆり、木野花の嫁姑、もいい。べたつきやすいところを今風に軽く深く演じている。モデルが実在するのでやりにくかった若い助演陣(見方良介 淵野右登 木下愛華)も事実に余りとらわれず、しかも観客が納得できる。今年の演劇賞でどこを上げられても素直に喜べる出来である。
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ジュリアス・シーザー
パルコ・プロデュース
オール女性キャストと言う大胆で意欲的な「ジュリアス・シーザー」である。今までにない新鮮さで、本年屈指の舞台になっている。シェイクスピアの意図を現代に通じる舞台に形象化した森新太郎(演出)の会心作である。
見る前はこの芝居を女性でやるのは無謀だと思っていた。それが見事にに裏切られた。
主要な登場人物、ジュリアス・シーザー(シルビア・グラブ)もブルータス(吉田羊)も、アントニー(松井玲奈)もキャシアス(松本紀保)もみな、野望と信義の中で権力の座を目指すギラギラした「男」である。それをオール女性キャストでやる。タカラヅカの亜流になるのではないか、今、現実に男が支配している権力構造のドラマが浮いてしまうのではないか、男ならではの情感が表現できるだろうか、そういう低い次元の杞憂を吹き飛ばす快作であった。
なんといっても、この作品をフィメールキャストでやると判断して、それを見事に舞台化した演出が第一の功績だろう。女性がやることによって、ドラマの中身が抽象化されて人間が権力に侵されていくテーマが明確になった。その権力の闘争を裸舞台で俳優の動きでダイナミックに造形していく力量、それに答えた女優たちは必ずしも役にふさわしい人気のトップスターではないが、舞台俳優としての日ごろの評価を十分に発揮している。。
登場人物全員、濃淡のある臙脂色で統一したローマ風衣装は、個々の役柄の説明を拒絶しているが、それがかえって俳優の魅力を引き出し、それぞれの権力に取りつかれていく人間像を引き立てている。中ではやはり主演の吉田羊。預言者の三田和代。人気だけに頼らない的確なキャスティングもいい。シーザーとブルータスの死の場面で流れる観客が全く予想できない優美なピアノ曲。序幕シーザーの凱旋から崩壊まで2時間15分・休憩なしの一気呵成にまとめたテキスト・レジの力も大きい。などなど、様々な仕掛けが相まってこのユニークなジュリアス・シーザーが生まれた。
選挙で権力の交代期にこのドラマを、と言う時宜を見据えたパルコの企画力も大したものだ。しばらく劇場がなかったパルコにはぜひ、興行界がなびいている(新国立劇場までも!!!)タレント興行ではない実のある演劇興行を成功させてもらいたいものだ、とは言っても、この優れた舞台、残念ながら、いかにも芝居好きの大人たちの観客でも、客席は半分しか埋まっていない。当日前売りで安価な切符も出ている。