第70回公演「ベンガルの虎」
新宿梁山泊
花園神社(東京都)
2021/06/12 (土) ~ 2021/06/23 (水)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/06/19 (土) 19:00
座席1階
新宿梁山泊の神髄である、唐十郎の演目。もちろん、状況劇場のころの舞台は見ていないけど、パンフレットで風間杜夫が語る「踏み込んだら危険な場所。怖いもの見たさでテントに入った」という言葉を想像しながら今回の舞台を楽しんだ。
平成、令和の世での梁山泊のテントは何度も見ているが、やはり最終幕のテント外の借景を舞台に取り込んだシーンが楽しみで足を運ぶ。前回は(前々回?)は下北沢で、背景の「スーパーオオゼキ」のネオン看板がちょっと残念だっただけに、今回は暗い花園神社の境内。今度はネオンに邪魔されず楽しめるぞと意気込んだ。結果はネタバレになるので書かないが、壮大なスケール、度肝を抜くアイデアとその美しさに体が震えた。
さて、物語は第二次世界大戦での悲劇の地であったインパールの白骨街道をモチーフに進む。客演の風間杜夫が、ビルマの竪琴で現地に残った水島上等兵がいた隊の隊長役。年齢を感じさせないパワフルでユーモアあふれる演技で感動した。風間杜夫は途中の換気休憩2回をはさむ3時間出ずっぱりで熱演し、これぞ役者魂!かという舞台だった。
梁山泊のお約束の若手女優人らによる歌とダンスは「うっせえわ」。この大熱唱がテント外の歌舞伎町に響いたかと思うと、それだけでおもしろい。今回の選曲は冒頭の曲がナンバーワンだと思う。
やはり観客を楽しませる仕掛けは満載で、その一つは、競輪の実演である。花月園の舞台設定で、「場外」を駆け回る競輪選手たちにはラストシーン同様、驚かされる。テントでしかできない演出だ。
さて、物語はビルマなど東南アジアと日本(錦糸町と鶯谷というちょっと猥雑な街)を行ったり来たりして進む。水島上等兵と水嶋カンナという名字の一致が時空を超えていろんなことを想像させる。カンナの母、ミシン売りの男。金守珍演じる産婆のお市など、多彩なキャラクターに彩られるが、何といっても白骨の化身で全身をくねらせて舞台を盛り上げた奥山ばらばはすごい。また、入谷の朝顔市の婆ァを演じたのぐち和美に開演前、客席へ案内され、間近で見る迫力にちょっとたじろいでしまった。
3時間はお尻もいたくなるし長いが、価値ある時間だ。コロナ禍ゆえ、終演後にゴールデン街でこの舞台を肴に盛り上がることができないのがいかにも残念である。
JACROW#30『鋼の糸』
JACROW
駅前劇場(東京都)
2021/05/26 (水) ~ 2021/06/01 (火)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/06/01 (火) 14:00
座席1階
田中角栄など自民党政治家の栄枯盛衰を描いた作品など、社会派劇で名高いジャクローが、今度は企業合併や出世競争だけでなく、働き方改革まで取り込んで、見ごたえのある2時間にまとめた。
昭和から平成にかけて、右肩上がりの経済成長とバブル崩壊、その後の長期不況という歴史の中で、日本企業は様々な姿を見せてきた。「出世争いは企業の活力」というセリフも出てくるが、今も基本的には変わっていない男社会の感覚かもしれない。
その競争社会では、「24時間働けますか」という、ジャパニーズビジネスマンをたたえるような流行歌に乗せて、栄養ドリンクが売れまくった。それが時を経て令和の世となり、残業などもってのほか、ワークライフバランスという印籠でもってして働き方をお上が中心になって変えようとしている。働く女性たちも男性とともに世の中を支える時代なのだから、男社会の感覚はお上に言われなくても払拭しなければならない。私見だが、この舞台はそうした時代の変化への対応にあえて真正面から取り組まず、バブルのころに入った新入社員の出世や人生を中心に置いて描き、昭和・平成時代の企業社会を生き抜いた観客の共感を得ている。
ライバルに勝つ営業成績を上げろという経営陣と、働き方改革だから残業はさせられないという所属長の板挟みになって咆哮する役員手前の部長が悲しい。「クライエントの秘密情報を取ってこい、それが営業成績向上の決め手だ」との𠮟責は、それが会社のためであり、自分のためであるという彼らの共通認識である。そういう昭和・平成の企業戦士の常識が、部下である所属長の抵抗によって打ち砕かれる。もちろん、所属長たちはその常識を分かっているのだが、自分の立場上、部下を残業させてまでその仕事を命ずるわけにはいかない。それこそ、部下の離反を招くどころか責任を問われることになろう。部下をがっつり働かせてなんぼの世界は終わり、部下をうまく休ませるのが優秀な管理職なのだ。
この舞台でも「じゃあどうすればいいのか」という答えは出ていない。会社の経営陣は「働き方改革の中で、成績を上げるやり方に知恵を絞れ」と言う。だが、その経営メンバーは24時間働くような従来のやり方で成績を上げてのし上がってきた連中だ。答えなど持っているはずはない。知恵を絞れという号令は無責任そのものであり、できもしないことを部下に押し付けている最悪の上層部である。「やればできる」という精神論で前線の兵士を破滅に追い込んだ旧日本軍の精神構造と全く同じである。
非常に面白い舞台だった。が、欲を言えば、そこまでつっこんでほしかった。
獣唄2021-改訂版
劇団桟敷童子
すみだパークシアター倉(東京都)
2021/05/25 (火) ~ 2021/06/07 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/27 (木) 14:00
座席1階
前回も☆5つを付けた感動の舞台。今回は2021年改訂版と銘打っている。やっぱり足を運んでしまった。
国家総動員法が制定され、戦時色が濃くなっていく九州の山村。ここの断崖絶壁に咲くという、幻のランを追い求める「ハナト」(ランを取る人)一家の物語だ。
ハナトである村井国夫の低くてよく通る声に舞台は引き締まる。その3姉妹は前回と同じ顔ぶれだが、明らかにパワーアップしていた。
断崖絶壁を登り、珍しいランを取ってくるという物語の筋を追っていくだけでも、この3姉妹のきびきびとした演技で、舞台から目が離せない。さらに今回、自分の胸に刺さったのは、戦争に対する憎しみをぶちまける一言だ。前回もこの場面はあったと思うが、思わず体が震えるような感覚だった。
客席は熱い。3姉妹を次々に襲う悲劇に、涙が止まらない女性も複数いた。舞台装置は前回の方が派手だったように思えるが、山の猛吹雪などは相変わらず迫力満点だ。
映像で見ても味わえない迫力と、それとは別にガンガン伝わってくる何かがある。やはり、舞台でないとだめなのである。予約で満席の客席がその答えだ。
いい舞台である。再演、ありがとうと言いたい。
父と暮せば
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/24 (月) 14:00
座席1階
1994年の初演以来、コンビを替えて上演し続けている。こまつ座のDNAとも言える代表作だ。本日は幽霊の父親役が山崎一、広島の原爆から「生き残ってしまった」娘を伊勢佳代が演じた。
理不尽な戦争、災害。その惨禍を生き抜いた人はよく「自分だけが生き残ってしまった」という言葉を絞り出す。死んだ者は、「生きているだけで幸せ」と生き抜いてほしいと願う。だが、生き残った者は生きているという「罪」を悔い、重荷として背負う。
この舞台では、死んでしまった父親が幽霊になって娘の元に顔を出し、その恋を応援する。相手はとてもいい人のようで、娘も好意を抱いているのだが、「自分だけが幸せになってはいけない」と相手を避けようとする。それをユーモアたっぷりに諭しながら応援する父の姿がとてもいい。実際に父と娘が生きていたらそういう家族関係にはならないのかもしれないが、包容力豊かなお父さん、というキャラクターで、客席をほっとさせる。
二人とも再演の舞台だけあって、切れ味があるというか、緩急をつけたテンポのいい見事な演技だった。息がぴったり合っていて、原爆投下での惨状の場面などは、客席の感涙を誘う。
いい舞台というのは、何回見てもいいものだ。こまつ座おすすめの通り、続いて上演される「母と暮せば」とセットで観劇したい気持ちになる。
アルビオン
劇団青年座
俳優座劇場(東京都)
2021/05/21 (金) ~ 2021/05/30 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/21 (金) 18:30
座席1階
事業に成功し、かつて叔父が住んでいた広大なイングリッシュガーデンがある大邸宅を買って移り住んだ女性と、それに従う夫。娘も出版社に就職して自分の人生を歩み始めていたが同居を決めた。古き良き庭を再現したいと強い意志で周囲を引っ張る女性、オードリーを中心に、個性豊かな友人や庭師たちが繰り広げる人間模様。わりと硬派な劇なのかなと思ったが、この人間模様こそが見事で、3時間にも及ぶ舞台をけん引し、客席をくぎ付けにした。
冒頭に、戦場で理不尽な死を遂げた青年がこの庭をさまよう。荒れ果てた庭は戦場に通じる。人間関係のもつれはまず、オードリーの長男であったこの戦死した青年の遺骨を母であるオードリーが独り占めし、青年の恋人とぶつかるところから始まる。オードリーの願いは、美しい英国風の庭を再現して家族と楽しんで暮らすというものだが、その夢は、すでにこの地で生活を営んでいるメンバーや、家族間のあつれきで思うように進まない。
オードリーのやや強引とも思えるやり方が障害になっているのだが、彼女は自分のやり方を変えようとはしない。人間、譲れない一線はだれも持っていると思うが、もう少し柔軟に生きられたら、オードリーも楽だったかな、と思う。その硬直したとも言えるオードリーは、英国のEU離脱を思わせる。
登場する人物の人間模様を庭の手入れが進み、衰えていくその移り変わりで表現をしている。また、雨が降ったり晴れたり安定しない英国の天気でも、表現されたりする。物語の空気がこうした演出の妙で、ストレートに客席に伝わってくる。
最後まで舞台にくぎ付けになる物語だった。それをしっかり支えた俳優たちの力に拍手を送りたい。
みえないランドセル
演劇集団 Ring-Bong
こまばアゴラ劇場(東京都)
2021/05/13 (木) ~ 2021/05/23 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/17 (月) 14:00
座席1階
テーマは児童虐待。重い話になりそうだと思っていたが、多彩な登場人物を配置し、押さえるべきところは押さえてハッピーエンドに仕上がっている。
前回の緊急事態宣言で上演が延期になった。その時も申し込んでいたので、期待を膨らませて久しぶりのアゴラへ足を運んだ。
この物語が秀逸なのは、主要な登場人物の女性にそれぞれ「過去」を持たせているところだ。生まれたばかりの娘を放置して男と出て行ってしまう主人公・遥に寄り添い続ける助産師の雪だが、彼女は専門職としての倫理観からだけで「特定妊婦」であった遥の支援をしていたわけではなかった。(特定妊婦は、妊婦検診に訪れないなど、出産や子育てに課題があると思われる女性のこと。保健師などによる支援の対象になる)。ネタバレになるので詳しくは書かないが、遥が雪に「子供を産んだこともないのに、私のことなんかわからない」と言い放ったところから、一つの糸がほぐれて物語の幅を広げていく。
同様なことが、赤いランドセルを背負って夜間中学に通う84歳のみどりの過去でも明かされる。彼女も赤ちゃんの泣き声を聞きつけて何度も遥の家のドアとたたき心配をするのだが、彼女にとっても「子供を育てる」というキーワードに絡む一本の糸が舞台に絡んでいく。
いい脚本だと思う。すすり泣きをしている人が客席のあちこちにいた。自分も最近、NHKの「透明なゆりかご」の再放送で見たケースと同じような場面が出てきて、思わず感涙を誘われてしまった。
山谷さんの前回の上演延期でのメッセージなどから、コロナ禍と深く関係している物語かと思ってしまったが、そうではない。コロナ禍の生活という設定だけに役者さんは皆、マスクをつけている。マスクなどに絡んで笑いを取るようなところはあったが、この物語はいつ上演されても客席の心をしっかりとつかむ力があると思う。もちろん、コロナ禍での子育てがお母さんをより孤独にし、虐待を生むという背景は示唆されているのかもしれないが。
最後にもう一つ秀逸な点を。この物語の舞台であるパン屋さんの近くの広場に児童相談所の建設が計画されていて、登場人物の中にも「迷惑だ」という気持ちを述べた人がいたというところだ。子どもや年寄りのことなど日ごろはあまり関係がないと思っていると、児童養護施設や特別養護老人ホームなどによくない印象をもって「うちの近くにできるのは嫌だ」と感じる人は少なくない。この舞台では、最後は子どもの笑顔によって救われるという物語でありながら、児童相談所が迷惑施設だという会話を出しているところに、この物語を貫く作者の強いメッセージを受け取ることができる。
いい舞台だった。みどりが背負っていた赤いランドセルが、遥の娘・初音ちゃんに背負われる日が来ることを祈りたい。
雨が空から降れば
Pカンパニー
シアターグリーン BOX in BOX THEATER(東京都)
2021/05/12 (水) ~ 2021/05/16 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/05/13 (木) 14:00
座席1階
昭和を生きた人なら口ずさむことができるだろう小室等さんの歌「雨が空から降れば」は、元々は別役実さんの戯曲の劇中歌だったという。その戯曲とは別に、1997年に別役さんが曲と同名の戯曲を文学座に書き下ろした。Pカンパニー代表の林次樹さんは別役作品に没頭して芝居の道に入ったという(パンフレット)が、この戯曲を2016年に上演している。今回は別役さんの追悼公演としてコロナ禍、緊急事態宣言の中をいつもの池袋の劇場で上演した。
別役さんの不条理劇の中でも分かりやすい展開だけに、面白さ抜群である。流しの葬儀屋という発想がまず、ものすごい。何といっても最初のシーンがすごい。
別役作品にはおなじみの笠のついた電球がぶら下がる「電柱」に、首をくくるロープがついている。そこに棺桶など葬儀一式のアイテムをリヤカーに積んだ葬儀屋が通りかかる。葬儀屋は死んだ人を探していて、別の葬儀屋との縄張り争いがあるというのも強烈な発想だ。
ほかの別役作品がそうであるように、物語は次々と意外な方に転がっていく。生きていても仕方がないから死ぬのか、死んでもどうしようもないから生きるのか。電柱がある街角に続いて舞台は病院に移るが、縄張り争いをしている葬儀屋が院内を徘徊して「お客さん」を奪い合っている。医者は「あんたらは霊安室にいなさい」と命令するところなど、場面ごとにシュール感があふれる。
「死を笑う」というのは当然、不謹慎ではあるのだが、ここで笑うのは死だけではなくその裏返しである生をも笑う。人間が心の中に隠している、いや、隠しきれない嫌味な部分を容赦なくさらけ出し、舞台は笑いに変えていく。
別役作品だからか客席は高齢者が多かったが、若者が見ても絶対面白い。別役さんの追悼芝居はほかの劇団も行うであろうが、Pカンパニーのこの舞台はぜひ見ておきたい。一度見たらやめられないような「中毒性」がこの芝居にはある。見ないと損するかも。
囲まれた文殊さん【4月27日~4月30日公演中止】
秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/04/21 (水) ~ 2021/04/30 (金)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/04/22 (木) 14:00
座席1階
京丹後市の経ケ岬にある文殊の神様は、左を自衛隊基地、右を米軍基地に囲まれているという。Xバンドレーダーが配備され、ミサイル防衛の任務をしているという。しかし、もし仮に中国や北朝鮮からミサイルが飛んできたとしても、数分で日本に到達するミサイルをレーダーがとらえて(とらえたとしても)イージス艦に伝えて迎撃ミサイルで撃ち落とすのはほとんど不可能とされている。結局は、グアムなど米軍基地を守るための装備であろうと言われ、じゃあ、この基地は日本国を防衛するのに役立つのか、という話だそうだ。
前置きが長くなったが、そういう基地を作るために肩身の狭い思いをしてきた文殊さんを通して、この舞台が問いかけることは多い。
まずは、言うべきことは言わねば、ということだ。主人公の青年の実家で、その父親は米軍基地の建設にずっと反対をしてきた。今も反対をしている。沖縄もそうだが、基地で働いている地元民も多く(この舞台でもこのお父さんの義妹が営むクリーニング店が米軍人も重要顧客。基地でバイトしている女性も登場する)、反対運動を快く思っていない人は少なくない。だが、このお父さんは地域統合のシンボル的存在であった文殊さんに、毎日お参りをしながら反対運動を続ける。
もう一つは、反対運動によって地元が分断されないようとことん相手の意見を聴く、という姿勢だ。意見は違ってもお互いを認め合う、ということだろう。いずれも、とても大切なことだと思う。
この舞台のいいところは、そうしたメッセージを単に基地反対というワンイシューで語るのでなく、コロナウイルス患者に対する差別、という視点でも切り取っていることだ。地元に一人も感染者がいないため、東京から帰省する若者への風当たりは非常に強い。全国どこでも、今でもそういうことが起きていると思うが、感染者への差別はコロナ患者を診る医療従事者への差別につながり、感染者を取り巻く家族など周囲への差別につながる。「感染させるかもしれないのに東京から来るな」という地元の人々の内なる差別にも真正面から向かい合っている。とても共感できる物語だ。
青年劇場らしい分かりやすい筋立て、そして鋭いメッセージを発するにもどこか優しさを感じる舞台。今回もしっかりとそれを感じることができた。秘密保護法のために、基地の中を探ろうとする反対運動者が摘発されるかもしれないという怖さもきちんと描かれていた。
ビルマの竪琴
劇団文化座
俳優座劇場(東京都)
2021/04/15 (木) ~ 2021/04/25 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★★
鑑賞日2021/04/20 (火) 14:00
座席1階
竹山道雄の名作の舞台化。文化座創立80年記念の公演という。文化座は戦時中に創設され、満州にわたって演劇を続けた。引き揚げるときの苦労は、まさに他人事ではなく劇団のDNAとして刻まれている。この演目が創立80年として選んだのも、文化座の歴史を体現している。
それだけに、熱のこもった舞台であった。この演劇の肝ともいえる合唱シーンは卓越している。「埴生の宿」、ラストシーンの「仰げば尊し」。どの楽曲も見事な男性ハーモニーで心を打たれる。
主人公の水島上等兵を演じた藤原章寛の実直な演技が光る。隊長役の白幡大介もぶれることのない役どころで印象に残った。埴生の宿を敵味方が合唱するシーンは、物語の筋をわかっていても感動できる場面だ。
壮絶だった先の戦争でも、苛烈を極めたと言われるインパール作戦。無謀な作戦に犠牲を強いられるのはいつも末端の将兵である。無謀な外交の犠牲になるのも国民であろう。
当時の人たちはそういう考えに及ぶことはなかったと思うが、一体何のための戦争なのか、何のために死闘を尽くすのか。それは、教訓として残っている。戦争を避けるための道具が外交であるなら、今の日本の外交のファーストプライオリティーは「非戦」になっているのだろうか。戦いを避けるための努力が外交交渉の中で行われているのだろうか。首相訪米のニュースなどを見るにつけ、とても不安になる。
インパール作戦の教訓を未来のために学び続ける責任が、日本国民にはある。そうした中での「ビルマの竪琴」は、胸に刻むべき舞台だ。戦争に翻弄された歴史を持つ文化座だからこその力作に、拍手を送りたい。実際、私が見た回もスタンディングオベーションという空気の拍手が続いていた。
俳優座劇場の席は半減させての感染対策。客席の年齢層は高かった。本当にいい舞台だ。もっと若い世代に見てほしい。
どん底 ―1947・東京―
劇団民藝
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/04/08 (木) ~ 2021/04/18 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/04/09 (金) 14:00
座席1階
日本の新劇人は今も昔も「どん底」が大好きなのだという。最初は1910年の小山内薫、市川左団次だったというから、もう歴史の世界だ。極貧というのは演劇のテーマとして取り上げたくなるのだろう。パンフレットから学ばせてもらった。
民藝による今作は、新型コロナで1年延期になった舞台だ。まずは、何はともあれ無事に上演に至ったのを喜びたい。
設定は終戦から2年後の1947年、新橋の焼け跡。食べるものも着るものもなく、その日を生きるだけで精いっぱいの人たちのそれぞれの哀感、人生を描く。
生きるだけで精一杯なのだが、どの人もエネルギッシュである。そうでなければ生きていけない時代だったのだ。末端の警官がやくざとつるんで小金を稼いでいるのだから、頼るものは自分しかいない。それでもこの、どん底の簡易宿にしがみついている人たちは、仲間意識のような空気も持ちながら、前に進んでいく。
当時は当たり前だが、生と死は隣り合わせだ。この簡易宿でも、病気の住人が死んでいく。だが、死んでも弔う金が無い。つい2年前までやっていた戦争ではそれこそ街に死があふれていた。空襲で亡くなった人も、弔われることなくこの世を去って行った。その戦禍をせっかく生き延びても、尽きていく命はたくさんあったのだろう。食べ物も薬もないなかで、主人公の「正体不明の老人」が、重病の女性の身の上話を聞くシーンは印象に残った。
最初に「新劇」はどん底が好きだと書いた。今回の舞台、若い人の姿も客席に見かけたがこの「どん底」。今の小劇場ブームを支える若い演劇人たちに取り組んでほしい演目だ。
チムドンドン~夜の学校のはなし~
劇団銅鑼
銅鑼アトリエ(東京都)
2021/03/18 (木) ~ 2021/03/29 (月)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/24 (水) 14:00
座席1階
沖縄の夜間学校を舞台とした物語。戦後の混乱期、米軍の占領下で学校に通うことができなかったおじい、おばあたちの学びたいという前向きな思いと、授業を心から楽しむ姿を描く。沖縄の夜間学校だから沖縄戦の話は避けて通れないが、山谷典子作なのだからだろう。ここにも真正面から切り込んでいる。
卒業式で、沖縄戦をテーマにした演劇をやることに。生徒たちが行うその演劇の台本を、インターネットで沖縄戦を調べるだけで今ひとつピンときていない沖縄の今の高校生が書くことになった。驚いたのは、沖縄戦を桃太郎に擬した、という流れだ。舞台で1人のおじいが「沖縄での戦争を桃太郎でなんて」と憤慨する場面も出てくるが、当然の思いだろう。だが、その答えはすぐにわかる。要するに、占領軍の米国、そして返還後の日本政府を鬼退治に行く桃太郎という設定とし、沖縄に対する加害者の視点から客席に考えてもらうのだ。
ようやく占領から開放されても、米軍基地はわが物顔で沖縄を蹂躙し続け、日本政府もそれに加担しているという歴史。途中の換気休憩後の第二幕はほとんどこの劇中劇に費やされる。言いたいことは十分に分かるのだが少し教条的な感じもして、自分は若干引いてしまうところがあった。
むしろ、前半部分で繰り広げられた「学び」の本当の意味を考えるというところをもっと見たかった。
東京で一流の進学塾の人気講師だったという女性が、夜間中学の教師をしている姉の出産に伴う代用教員として赴任する。覚える順番を教え、効率よく学習内容を吸収できるようにする、という女性の教授法が空回りする。こういう設定に、すごく共感が持てた。自分たちは何のために学んできたのだ、という人生の根源的な問いを真正面から突きつけるからだ。
この舞台はや「学びの意味」と「沖縄の思い」と二兎を追っている。座っているのがややきつい、2時間半を超える長さになったのは、そのためかもしれない。
沖縄戦の経験をひ孫のような高校生に語るおじい、おばあのところは確かに感動的だった。だが、これを夜間中学の学びの意味を考えるような設定で取り上げられなかったのか。後半の劇中劇は努力賞だと思うが、二兎を追った結果としては満足できなかった。
Don’t say you can’t
一般社団法人グランツ
ラポールシアター(神奈川県)
2021/03/13 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
実演鑑賞
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/14 (日) 13:00
知的障害者の演劇集団である横浜桜座が、青年座やテアトルエコーなどプロの役者たちを集めて一緒に公演するプロデュース公演。障害のあるなしにかかわらず、同じ役者として一緒の舞台に立つ。障害者が舞台に立つことが当たり前の世の中を目指す、劇団のパフォーマンスだ。これは障害者福祉ではない。舞台芸術なのである。
物語は、障害者施設を舞台に進行する。コロナ禍で自宅のパン屋が休業に追い込まれたシングルマザーが障害者施設で働き、そこでかつての恋人であり、演劇仲間であった男性に再会する。男性は頸椎損傷で車いす姿で、息子に付き添われて施設に来ていた。人生を投げているところがあった男性だが、施設内で演劇会を開いてはどうかという提案に盛り上がり、生き方が変わっていく。演出は青年座の磯村純。
出演する桜座のメンバーは、オーディションで選ばれた。自分の持ち場をしっかりこなしているという印象だ。主演のシングルマザー役は小飯塚貴世江。彼女は桜座の舞台を見て、「頭をたたかれるような衝撃を受けた」という。「自分は役者をやっていて、どこか上手に見せようという雑念がくっついていた。演劇をやるのに必要なものを、教えてもらったから」と話した。障害者とそうでない役者たちがお互いをインスパイアする存在として、今回の舞台に立っている。
自分は横浜ラポールシアターで見た。シモキタで多様性を体現した役者たちの舞台があるということが、小劇場文化の一つのエポックメーキングになってほしい。
日本人のへそ
こまつ座
紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYA(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/28 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2021/03/11 (木) 12:00
座席1階
劇作家・井上ひさしの実質的デビュー作という。初演は1969年にテアトル・エコーが行った。こまつ座としては震災のあった2011年以来10年ぶり。演出の栗山民也は1985年の公演がこまつ座での初めての演出だったそうで、今回が4回目。いろいろ歴史のある井上喜劇だ。
見終わって、いや見ながら思ったのは、役者たちの大変さというか、これは死ぬ気で向き合わないと演じられないな、と。実際に、栗山は出演者たちに「これまでの自分を壊すような気持ちで」という趣旨の指示をしたというが、実力派俳優たちも自分がこれまでやってきた実績とか経験とかをすべて忘れて飛び込んでいかないと、それこそ舞台から弾き飛ばされるような勢いなのだ。
あのバイデン大統領もそうだったという吃音症を、さまざまな役を演じることによって治す試みだということを、学者役の山西惇が冒頭、説明する。「患者たち」が舞台を歩き回りながら唱える「あいうえ王」は、井上ひさしの言葉遊び。繰り広げられる劇中劇が、本作の舞台である。
劇中劇の一つが、昭和の香りが色濃く残る浅草のストリップ劇場だ。朝海ひかるや小池栄子らスタイル抜群の女優たちが長い手足をピンと上げての演技は圧巻である。SKDも顔負けの、脚が描く真っすぐな直線、ぴたりと合ったすばやい動きは拍手喝采ものだ。すばやいと言えば、各劇中劇で早変わりが連発するところはものすごい。一人何役も与えられているのだから、観ている方が目が回りそうである。「日本のボス」の劇中劇は、料亭政治を皮肉っているようなところがあって風刺も効いている。
「ハチャメチャ」と言ってしまえばそうなんだけど、劇中劇の一つ一つが非常におもしろくて、それが連続して繰り出され、客席もついていくのに必死という感じなのだ。
ラストのどんでん返しもいい。
出演した俳優たちを一回りも二回りも大きく鍛え上げるような、まるで道場だ。これをこなした出演者たちは、相当な自信を得たのではないか。
ウィーンの森の物語
東京演劇アンサンブル
東京芸術劇場アトリエウエスト(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/10 (水) 14:00
座席1階
ドイツの作家ホルバートの作品。ブレヒト劇をやり続けてきた劇団だが、ブレヒトと同世代を生きた作家を「生誕120年」として取り上げた。
演出家の公家義徳氏がパンフレットに記したところによると、革命家たちを描いたブレヒトとは対極にあるように小市民の生活を描いた作家だという。
父の決めた嫌な相手との結婚から逃れ、駆け落ちした相手の男はどうしようもない輩で、主人公の女性は乳飲み子を夫の実家に預けて懸命に働く。当時はドイツだけでなく欧州も米国も日本もそうだったと思うのだが、女性が夫の所有物のような扱いで自分の人生を生きられなかった、ラストは救いようもない悲劇である。究極の児童虐待が起きるのだから。主人公の叫びが、何とも言えない重さを突き付ける。
この劇が今日性を持つのは、女性の貧困、抑圧が今もあまり変わっていないところだからだ。時代は100年近く回転して主人公のような女性の悲劇がなくなったかというと、そうではない。日本でもDVがあちこちにある。結婚して仕事を辞めるのは当たり前のように女性であった。非正規労働による貧困に苦しむのも多くは女性である。シングルマザーの苦闘は日本でも欧州でも同じであろう。
途中、2回の「換気休憩」が入って約2時間半。前段は若干、緩いペースだと思うが、後半は引き締まってくる。特に、主人公のマリアンネを演じた仙石貴久江が光った。若手の劇団員が育っているということなのだろう。長年慣れ親しんだ武蔵関のブレヒトの芝居小屋を出た今、新しい劇団になっていくためにもこうした女優さんがいるのは明るい。
アフタートークでは背景にある戦争の話も出てきたが、この舞台には戯曲が書かれた直後に出てくるヒトラー政権の空気も感じさせない。男たちはどこまでも身勝手なやつばかりだが、それでも戦争で抑圧される空気はないのだ。戦争とは一応、切り離されているだけに、現代社会での今日性が舞台に浮き上がってくるのかもしれない。
岸辺の亀とクラゲ-jellyfish-
ウォーキング・スタッフ
シアター711(東京都)
2021/03/06 (土) ~ 2021/03/14 (日)公演終了
満足度★★★★★
鑑賞日2021/03/08 (月) 14:00
座席1階
2011年に初演の舞台だという。震災があった年だ。今年で10年目の再演。
中学校の女性教師のアパートの部屋が舞台。最初に出てくるのはこの女性教師と付き合っている彼氏で、洗濯物の女性下着を取り込んで、丁寧にたたんでいるという非常にシュールな場面から始まる。
最初に訪れる珍客は上階の部屋に住んでいるらしき中年男だ。泥酔して部屋を間違えるという設定だが、ここから果てしなく間違いが連続して起きていく。
その各々の間違いが微妙な糸でつながっていて、結局この部屋を訪れる人たちは、一見主人公と何の関係もない人たちであったはずなのに、結局何らかのかかわりが持たざるを得ないところまで追い込まれていく。何というか、これがまた微妙な「破局」につながっていく。
2時間余りの舞台だが、この舞台設定と物語を織りなす縦横の糸が非常にうまくできていて、目を離すことができない。要するに、この演劇は面白いのだ。
その面白さは、人間が誰しも持っている、他人のふるまいや出来事を「他人事」として話のネタにして楽しむような感覚だ。「眼鏡を掛けた地味なおばさんが万引きをしたところで目が合った。見つめられて気持ち悪かった」。いかにも、他愛のないエピソードなのだが、笑っているうちにこのエピソードに深くつながる災難に巻き込まれていく。都会の「他人事」の人間関係をシニカルに描いているのだが、実はドロドロの関係であったりする。
いろいろ書きたいが、書くものすべてtがネタバレになってしまうからこの辺で。残りは劇場で確かめよう。チケット代の2倍は楽しめます。
この舞台の教訓。アパートのドアを開けたら、ちゃんとカギをかけること。鍵さえかけていたらなあ(笑)
花樟の女
Pカンパニー
座・高円寺1(東京都)
2021/03/03 (水) ~ 2021/03/07 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/03/04 (木) 14:00
台湾出身の女性作家・真杉静枝の物語。戦前から戦後にかけて、生まれ育ちや性別で差別され、貶められてきた真杉静枝の人生を描く。
冒頭。あることないこと織り交ぜて静枝をひぼうするような小説を書いた作家の元に、静枝の妹とその娘が抗議に乗り込んでくる。舞台は、妹がナビゲーターとなって静枝の半生を振り返りながら進んでいく。
女性が社会で働いてそれなりの地位を占めるようなことが当たり前になりつつある日本だが、森元総理の女性蔑視発言に象徴されるように、日本の男尊女卑のDNAはそう簡単になくならない。日本が台湾を占領していた当時は「女が男を支える」のは当然であり美徳であった。石原慎太郎元都知事の「第三国人」発言にこれもDNAとして引き継がれているように思うのだが、外国人や少数民族、アジア諸国の人たちを「劣等民族」と言わんばかりにさげすむ差別感情も当時は、当たり前のようにあった。こういう時代にあらがって、「書くべきことを書く。言いたいことを言う」という女性が生きるためにはどんなことでもやらなければならなかったのだろう。それが、時には体を預けてまで力のある男性に取り入ったりすることがあったのかもしれない。それが「恋多き女」と評された静枝の一面であった。
でも、「恋多き男」とは表現しないから、文芸作品やジャーナリズムの世界でも、男尊女卑も相当根深く残っている。休憩をはさんで3時間弱の舞台を見ながら、「女は男よりも劣っている」「日本人は優秀民族である」というDNAをどう、拭い去っていくのかを考えていた。舞台を見ながらこういう思考回路になったのは、Pカンパニーの「罪と罰」シリーズの力点であるからなのだろう。
この舞台が、森発言があったからタイムリーだとは思わない。むしろ、森発言のあるなしにかかわらず僕たちが考えなければならない「罪と罰」なのだ。
それともう一つ。冒頭に出てくる作家先生は、書かれる者の痛みを全く理解していない。面白ければ何を書いてもいいのだ、多少誇張や嘘が入っていて何が悪いのだ、という人だ。悪い奴だと思うから悪く書かれて当たり前だ、というバッシングは、現代日本に、特にSNSに巣食い続けている。自分としては、こちらの「罪と罰」の方に思いを寄せる。
「差別」は、される側でないと痛みは分からない。差別がはびこる嫌な社会から一歩でも抜け出すためには、相手の痛みを想像する力を養うことが必要だ。Pカンパニーの舞台は、そういうことに気づくヒントを与えてくれる。
ドレッサー【2月26日(金)は公演中止/兵庫公演中止】
加藤健一事務所
東京芸術劇場 プレイハウス(東京都)
2021/02/26 (金) ~ 2021/02/28 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/28 (日) 14:00
座席1階
シェークスピアの劇中劇の舞台裏という設定。ドレッサーとは衣装係兼付き人で、舞台裏を支えるスタッフがこの物語の主役である。
第二次世界大戦のさなか、ドイツ軍の空爆を受けて空襲警報が鳴るロンドンで、「リア王」の幕が上がる。空襲という非常事態で、肉体的にも精神的にも弱気になり周囲を困惑させる座長で、王様役を演じるのが加藤健一だ。舞台に穴をあけてはと、なだめすかして座長や座員を鼓舞して舞台の遂行を図るのが今回のドレッサーで、加納幸和が演じた。
1988年にサンシャイン劇場で演じられ、この時は座長を三國廉太郎、ドレッサーを加藤健一が演じたという。それから三十余年。年を重ねたカトケンが満を持して座長役として舞台を引っ張ることになった。
この舞台、戦争とは異なるが、ウイルスとの闘い真っ最中の緊急事態宣言下での上演だ。カーテンコール後のいつものカトケンのあいさつによると、本当はプレイハウスで3日間の上演だったが、午後8時までに終わるという緊急事態宣言ルールに引っかかって一日休演があり、二日間は席を一つ空けての客席だった。三日間で集客は本来の三分の一だったという。それでも、今回の舞台の役者たちは「開演できてよかった」という。僕たちも見られてよかった、と思う。空襲の中、劇場に集まったロンドン市民のような気持ちで舞台を見つめた。
座長のせりふの中で「俺は映画は嫌いだ」という趣旨のものがあった。この演目、演劇人の生きざまを真正面から描いている。なぜ演じるのか、そして我々はなぜ見に行くのか。爆弾とウイルスは本質的に違うけれど、生の演劇の持つ意味を十分に教えてくれる。
カトケンも気に入っているとパンフレットに書いているセリフがある。「役者というものは、他人の記憶の中にしか生きられない」。名セリフだ。自分は役者でないからその思いは分からないけれど、舞台に通い続けるというのは、心に刺さる記憶を刻み続けるためだと感じている。
僕の庭のLady
文化庁・日本劇団協議会
赤坂RED/THEATER(東京都)
2021/02/17 (水) ~ 2021/02/23 (火)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/18 (木) 14:00
座席1階
日本劇団協議会が制作した、文化庁の海外研修制度から戻った演劇人たちによる公演。演出を担当した河田さんもその一人で、イギリスの国民的作家アラン・ベネットの実話を基にした作品だ。
かつては著名なピアニストだったホームレスの老女が住まいにしているワゴン車を、なぜか自宅の庭に止めさせて何かと面倒を見るベネット氏の目線で物語が進行する。
このベネット氏をふたりの役者がかけあいのように会話しながら演じるのがおもしろい。この老女はとんでもなくわがままであれこれベネット氏に文句を付けたりするのだが、ベネット氏は追い出すこともせず、亡くなるまで15年間も住まわせてしまうのだ。
この作品は、映画化もされている。高齢社会を考える物語としてきっとこれからも受け継がれていくのだろう。ラストシーンが泣かせる展開だ。泣かせるというよりは、明るい涙というべきか。すべてはここに持ってくるための積み重ねであったように思う。
草の家
燐光群
ザ・スズナリ(東京都)
2021/02/05 (金) ~ 2021/02/18 (木)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/02/08 (月) 14:00
座席1階
物言う舞台が特徴の燐光群では異色の家族劇か。しかし、過疎化と高齢化で古里が廃れていくという日本社会の現実を、家族の会話劇を通して鋭く告発しているとも言える。
「ここ数年はお客が来るのを見たことがない」と自嘲気味に語られる「はかり屋さん」。舞台の小道具としてさりげなく置かれている計器類は、すべて本物だという。より正確に計量する器具は、日本の高度成長を支えてきたとも言える。物言わぬ小道具と、この古い家をどうするのか、と繰り広げられる兄弟の会話。そのコントラストがなんだかシンクロして少し悲しい。
男ばかりの兄弟たちは、地元に残る者、都会に出る者といろいろだが、実家に残された年老いた母親の元に集まってくる。だが、その兄弟たちももう若くはない。「親亡き」後をどうするか、兄弟それぞれの思いが交錯する。
「家を売る」という話もちらりと出るが、土地価格が高く一財産になる都会と違うから、話が出ても相続争いとかにならないところがなんだかほっとする。子どものころや若いころはけんかをしたり確執があったとしても、お金さえ絡まなければ、兄弟が骨肉の争いをするということにはならないだろう、と舞台を見ながら安心したりもする。
「小道具」に触れたが、この舞台では見えない「小道具」もよかった。それはホタルや大木だ。実際にホタルが飛ぶわけではないが、まるで本当にそこにあるかのように感じた。役者たちの力量のなせる技だろう。
時間の流れを感じさせる最初と最後の場面。うまい台本だと思った。
正義の人びと
劇団俳優座
俳優座劇場(東京都)
2021/01/22 (金) ~ 2021/01/31 (日)公演終了
満足度★★★★
鑑賞日2021/01/28 (木) 14:00
座席1階
カミュの古典を実力派の劇団が上演。カミュといえば降ってわいた新型コロナで「ペスト」がバカ売れする社会現象が起きたが、この戯曲は、人民の平和と安寧のために圧制者を殺害するテロは正義か、という現代でも通用する命題をめぐって暗殺者集団が大論争を繰り広げる。
舞台は暗殺前と暗殺後の2幕。翻訳に苦労したという難解なカミュの思想なのだが、役者たちの緊迫感に力を得て、客席の視線は緩むことがない。
今風に言えば、北朝鮮国民を貧困と飢餓、不自由から解放するために首領様を暗殺するのは正義かという話である。今回の舞台では二幕で、殺害された大公の妻が暗殺者に面会し、愛する夫を殺害された自分の思いをぶつける場面がある。首領様にも家族がいて(もっとも、この人は家族であっても粛正する人なのだが)果たしてその家族の安寧を破壊するのは人民のためとはいっても正義なのだろうか、と考える。
もう一つ、絞首刑になる暗殺者と恋仲の同志の女性が、恋人の処刑(死)に対して、それが自分の愛を貫くうえでも価値あるものだと半狂乱のように自分を納得させるような場面がある。主義のために死ねるか、社会をただすために愛を犠牲にできるのか。そういうことを考えなくても済む現代日本に住んでいるのは、よかったと思う。ただ、いつそういう世の中になるかもしれない、という不安は感じているわけだが。
このような戯曲を見た後は、酒場で少し議論したくなる感じだが、今はそれが一番してはいけないこと。そういう意味では不自由な世の中なのである。